第46話 崖っぷち背水の陣

 事態は悪い方向へと進んでいった。水分を飲んでやや体力が回復したのも束の間、今度は二年A組女子のスピードスター、水野が女子百メートル競走決勝でゴール後に不注意な生徒と激突し、強烈な肘打ちを喰らってしまったのだ。普段は寡黙な水野が顔を押さえて転げまわる姿は、言われようのない恐怖をクラスメートたちの中に広げた。当然その不注意な生徒(一年生だった)はA組全員にこっぴどく叱りつけられた。幸い、水野の顔は打撲して赤く腫れただけで、鼻の骨折や出血はなかったが、暫くは冷やすことが必要だということだった。大事ではなかったことを喜ぶべきか。しかしながら、次の競技は最終種目であり、体育祭を締めくくる大種目、クラス対抗男女混合リレーだ。得点も高く、人々の期待も最高潮に達するこの種目。最早総合順位では上位に入れないと落胆しているクラスも、ここで何か結果を残せば大いなる栄光が手に入れられると本気で挑みにかかってくる。本気などという言葉では足りない。まさしく、命を懸けて取りにかかってくる。スーパーアスリート水野の不在が、二年A組にどれだけの損失を引き起こすか。走力ももちろんだが、走力だけではない。彼女は常に淡々と走ってはさらりと結果を残して帰ってくるタイプ。彼女に対する信頼は生半可なものではない。いなくなって始めて自分たちがいかに心の部分で彼女に依存し安心していたかを知ったのだ。

「どうするんだ!」

 永田が顔面を蒼白にしてクラスに呼びかけた。

「代わりを誰かがやるしかないよ」

「一体誰が?」

 男子二人、女子二人の構成は崩せない。当然、水野の代わりは女子の誰かがやらなければならない。だが、誰がやろうと思うのだ。学校中の猛者たちが一堂に会し、しのぎを削って喰らい合う、言うなれば一番身近にある戦争だ。水野に勝る走りができる自信など微塵もないのに加えて、何千トンもあるクラスの重圧がのしかかる果てしない緊張の中に突然今からいくと考えるだけで、胃の中が空っぽになるまで吐きたい気分になる。

 まさか水野が離脱するなどとは誰も、恐らく本人すらも想像していなかったわけで、補欠を用意しようという発想すらなかった。緊張の中に放り込まれるだけでなく、そこで走り、美しいバドンパスをやらなければならない。バトンを落としでもしたら……。

 想像して私も震えた。こんなに暑いのに寒気を感じる。

「でも誰かがやらないと戦うことすらできない」

「あぁ、前半で稼いだ得点も今や風前の灯火だ。ここで棄権したら一位は失う。いや、下手したら十位くらいにまで落ちるだろう」

「二年生で優勝したら十年ぶりの快挙なのに」

「順位とか負けるとかの問題じゃないでしょ! 棄権なんてしようものなら、例えそれでいい順位が取れても、周囲からは罵詈雑言が鳴りやまないに違いない! プライドの問題だ。クラスの尊厳の問題だ! オリンピックで棄権が許されても、我が南北中学の体育祭で許されることはない!」

「落ち着け、落ち着け!」

 枝木先生が暑さと疲労と絶望でおかしくなったクラスメートを宥める。

「それに、勝たなきゃ、五郎さんの名前も広められないよ」

 塩田が呟き、クラスが同意のため息をついた。その言葉が、私の胸を強く締めつける。

「男子だけで喋ってたって意味がない。現状、水野さんは走れないんだ。女子の誰かにやってもらわないと」

 私の中に自責の念が溢れ出た。

 元を辿れば、私がおじいちゃんの名前を広げることを持ちかけたせいで、皆のペース配分が狂ってしまったんだ、と。

 前半を飛ばし過ぎていなければ、永田君は男子百メートル決勝で勝っていたかもしれない。水野さんは激突を避けることができていたかもしれない。皆がこんなに疲労困憊になることはなくて、もっと楽しく体育祭を過ごせたかもしれない。

 おじいちゃん、ごめん。

 私は一歩前に踏み出し、覚悟を決めて口を開いた。

 しかし、そんな私の口を誰かの手が封じ、別の声が響き渡った。

「私がやるわ」

 西町だった。

 西町芽衣。皆でそれとなくごまかしてはいたが、この体育祭を楽しんでいない唯一の女。正確には、クラスを楽しんでいない唯一の女。応援しないでずっと後ろの席で携帯を触っていて、舌打ちやため息をこれ見よがしについてくる。しまいには誰かと電話までして、異質な笑い声を団結の輪に注いでいたくらいだった。不良とお嬢様が混ざり合った嫌な態度。そう言ってしまうと本質を捉えられていないような気がするが、ともかく、腫れ物扱いをされて、また自らが腫れ物になりたがっていたような彼女が、クラスの象徴とも呼べる戦いに参加を表明することなどありえようか。

「西町……?」

 クラス中が困惑した。先生も唖然としている。

 確かに、モデルのような高身長と長い足は走るのに向いていそうだが、走っているところなど見たこともない。そもそも、彼女をクラス代表として送り込むのには、言葉にできない抵抗があった。

「何? どうせ他にやりたい子なんていないんでしょ?」

 彼女の言う通り、他の誰も自分がと名乗り上げることはしなかった。

 西町は冷めた表情で頷くと、やけに明るい口調で言った。

「さぁ、バトン合わせでもやろうよ。一回でもやっといた方がいいでしょ」

「そ、そうだな」

 西町は私の口を塞いだまま耳元まで唇を近づけ、妖艶な声で冷たく言い放った。

「あんたのためじゃないからね。あんたが走るより、私の方が可能性が高いと思っただけよ」

 西町は手を離し、汚らわしいものでも触ったかのように手をはたいた。

「西町さん。頑張って」

 西町はそれを無視してバトン練習に向かった。


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