第37話 空気が読めない男
三人娘は山本連合艦隊司令長官からの呼び出しを受けて日吉の連合艦隊司令部に出頭していた。
司令長官室に通された彼女らはミッドウェーの戦勝で血色のいい山本長官の出迎えを受けた。
「聖子さん、長い洋上勤務ご苦労様でした。杏さんと美津子さんも本当によくやってくれました。お二方の力作を私も読ませていただいたが、いやはやすごいものですな。さすがに米大統領を撃破するだけのことはあります」
そう言って杏と美津子を褒めそやす。
本人はまったく悪気はないのだが、杏と美津子の黒歴史の傷跡に容赦なく塩をすり込んでくる山本長官に二人は聖子だけが分かる程度に顔をひきつらせていた。
山本長官は喜びの表情を隠さず話を続ける。
「情報部門にいる私の部下によれば、どうやら海軍作戦部長も大統領と同様に辞職を余儀なくされるようです。それに先日辞任した太平洋艦隊司令長官も含めれば、合衆国の大将首を一度に三つも挙げたようなものです。今さらながら、『薄い本』というものの力には改めて感じ入りました」
三人娘が作った「薄い本」は米国だけでなく英国やソ連にも揺さぶりをかけていたのだが、最大の打撃を被っていたのは間違いなく米大統領と米海軍だった。
そのうち米海軍のほうは志願者が皆無となり、組織の存続すら危ぶまれるまでに人手不足と士気の低下が著しかった。
それはそうだろう。
大統領による十死零生の命令が繰り返され、多くの将兵が命を落としていったのだ。
民主国家の米国においてあってはならない事態だった。
そのうえ、男色がはびこるとされる海軍において、もし艦隊勤務になろうものなら、その閉塞された艦内で他の兵士から何をされるか分かったものではない。
後ろから五インチ砲、下手をしたら六インチ砲を突きこまれるかもしれないのだ。
日本軍と戦う以前の問題だった。
だから、いまでも海軍に志願するのはそっち方面の猛者だけだった。
しかし、そんな連中を海軍が採用できるはずもなかった。
米海軍の弱体化はそのまま連合国陣営の凋落でもあった。
一方、インド洋の制海権を日本に奪われ、英印航路を喪失した英国にとって最後の頼みの綱は英米航路だけだった。
ここを断たれると英国は完全に干上がり戦争の遂行は不可能になる。
米国もそれが分かっているから他方面の戦力を割くことをしてまで英国との連絡線の維持に最大限の努力を払っている。
しかし、帝都奇襲失敗やミッドウェー海戦で米海軍は大勢の将兵を失った。
それも成算のほとんど無い、大統領の無理押しによる十死零生の作戦だったということで、海軍将兵らの士気はどん底にまで落ちていた。
さらに「薄い本」による海軍作戦部長のスキャンダルや、海軍全体にはびこる男色疑惑によって米海軍は人材面で止めを刺されたようなものだった。
だが、それでも英国との交通線の維持を続けなければならない。
そこで米海軍は、英国との交通線維持に必要な護衛艦艇の要員に、半ば遊兵化している旧式戦艦の乗組員をあてることにした。
だが、同じ海兵とは言っても、戦艦と護衛空母や駆逐艦では仕事の内容が違い過ぎた。
海軍将兵は皆が技術職であり専門職なのだ。
同じ海兵だからといっても、一朝一夕に戦力化などできない。
同じ野球選手だからといって外野を守っていた者に、十分な練習時間も与えずに内野を守らせるようなものだ。
中には器用にこなせる人間もいたが、それは少数派だった。
そして、そこをUボートに突かれた。
乗組員の不慣れで十全に力を発揮できない米国の護衛空母や駆逐艦は歴戦のUボート艦長らにとってはただのカモでしかなかった。
米海軍将兵は毎日のように大西洋の海に飲み込まれ、守るべき商船も次々に沈められていった。
その結果、英米航路だけでなく、英国そのものが危機に瀕している。
英国は物資不足に陥り工業生産力は低下、さらに食料品をはじめとした諸物価が高騰し、庶民は生活苦にあえいでいる。
戦時中ゆえに本来なら飛行機や戦車といったものを送りたい米国も、英国民が餓死してしまっては元も子もない。
それゆえ、現在のところ英国に送られる物資は武器弾薬ではなく、食糧や医薬品といった英国民の生命維持に欠かせないものがほとんどだった。
そして、それは英軍の戦力が補充、回復されないことを意味した。
ドイツはそこにもつけこんだ。
英国と同様、物資の補給を断たれ弱体化が著しいソ連軍をことごとく撃破したドイツは、東部方面から航空艦隊の主力を西部戦線に転用したのだ。
かつてのバトル・オブ・ブリテンの再現はなかった。
以前の手痛い失敗の教訓から、ドイツは今回は英航空戦力の撃滅を最優先目標とし、一気にそれを成した。
英国へ航空機輸送を試みた米護衛空母がことごとくUボートに沈められてしまったことも痛かった。
英本土東側上空の制空権を握ったドイツは、今度は英国内の航空機生産関連施設を攻撃目標に定めた。
一方、地中海ではイタリア艦隊が猛威をふるっていた。
エジプトの英軍はすでに撃滅され、スエズ運河も枢軸国側に陥ちた。
北アフリカの連合国地上軍も撤退の兆しが見え始めている。
ソ連はスターリングラードが陥落し、さらにレニングラードやモスクワが危機的状況にある。
ソ連は国家としての組織的継戦能力を喪失しようとしていた。
残る米国だが、こちらは大統領と海軍トップが一斉に辞職することで政治的混乱が始まるはずだった。
山本長官の時局の説明は長々と続く。
だが、そのようなことは三人娘の中ではすでに分析済みのことだった。
そもそも「薄い本」や聖子がミッドウェーにまで出張ったのもそのための布石だったのだ。
三人娘にとっては朝礼で校長のどうでもいい分かり切った講話を炎天下のもとで長々と聞かされている気分だった。
「それで、私たちを呼んだご用件とは何でしょうか?」
山本長官の長広舌を断つべく聖子が切り出す。
「ああ、そうそう。大事なことをまずお知らせしなければなりませんな」
そう言って空気の読めない山本長官は辞令を三人娘に渡す。
「まだ少し先の話ですが、貴女たち三人はこの秋にも少佐から中佐へと昇進することになっています」
「ちょっと待ってください。私たちが特務中尉から少佐になったのはこの春だったんですよ。ありがたいお話かもしれませんが、少しおかしくないですか?」
軍隊という組織の中で昇進というのはめでたい話のはずなのだが、異様に早い昇進には聖子も警戒心を抱かざるを得ない。
聖子のもっともな疑問に山本長官は笑いながら真相を話す。
「実は海軍大臣がお上から、巫女たちのこれまでの働きに海軍は何も報いてやらんのかと言われたらしいのです。海軍も役所ですから、まさか海外旅行を贈呈するような訳にもいかず、結局、軍隊らしく昇進で報いると決めたらしいのです」
聖子は思う。
階級が上がるとともに責任やしがらみといったものが増えるのが軍隊だ。
お上の圧を受けて私たちを昇進させた海軍大臣を見ればそのことがよく分かる。
それにしても海軍大臣、相変わらず精神が惰弱だなあ。
下には強いが同格や目上の者にはめっぽう弱い。
そう言えば軍令部総長は無能無気力だし、それに目の前の山本長官は戦術音痴だ。
「あれーっ、海軍トップの海軍三顕職の人たちってよく考えたらまともなのが一人もいないじゃん! それに連合艦隊司令部の参謀たちはそろいもそろって使えない連中ばかりだし」
山本長官の、昇進に至った理由のネタばらしに、たいへん失礼な感想を抱きつつも聖子はほっとする。
ただでさえ、自由な時間があまり持てないというのに、これ以上厄介ごとを抱え込むのはごめんだった。
そのことは山本長官も分かったようで、次のお題へと話をチェンジする。
「聖子さんから依頼されていた『薄い本』の助手の件だが、梅武さんと尾名さんというお二方に来週から杏さんの下で働いてもらおうと考えています。杏さんと聖子さんもお二方はご存じですね」
そう言って杏と聖子に「それでいいか」という視線を向ける。
これまで「薄い本」は原作が聖子、作画が杏、アシスタントが美津子という役割分担だったが、美津子と聖子の二人がともに仕事量が増えたために、彼女ら二人はネームを書いたり杏のアシスタントをしたりしている余裕が無くなりつつあった。
そこで、聖子が山本長官に海軍関係者の中から手先が器用でそれなりのエロ耐性を持つ身元がしっかりした女性を紹介してもらえないかと相談に乗ってもらったのが一月あまり前のことだった。
この時代の女性は、針仕事といった細々とした仕事を押し付けられることが多く、このため手先の器用な人は多かった。
しかし、エロ耐性となるとなかなか難しく、杏と聖子も参加した「薄い本」を読破させるというセクハラじみた面接試験で結局残ったのは、ある将官が紹介してくれた梅武さんと尾名さんの二人だけだった。
梅武さんと尾名さんは当初はBLやネトラレといった「薄い本」に少し恥ずかしそうにしていたが、実際は腐女子の素質に満ちたこの時代では得難い女性たちだった。
年齢も三人娘より少し上なだけなのと、家柄や年功序列にこだわるようなふうでもなくざっくばらんで、遠慮なく仕事を頼むことができそうだった。
昭和と令和の違いはあれど腐女子同士、杏とはうまくやっていけるはずだと聖子は確信している。
そして、これからは聖子はネームをつくることはせず、元ネタを箇条書きにして杏に渡し、杏がネームをつくりさらに作画もすることになる。
杏の負担が増えそうだが、ネームを一からつくることでかえって作画の自由度も増すので杏としてはそちらの方がうれしかった。
杏と聖子の「山本長官のご配慮に感謝します」との言葉に機嫌をよくした山本長官はこんどは調子に乗って今夜は海軍の食堂でフルコースのディナーでもいかがですかと三人娘を誘う。
三人娘は適当な理由をつけてこれを辞退した。
「忙しいからアシスタントを紹介してくれって頼んだのに! 少しは空気を読めよおっさん!」
三人娘が胸中で自分を罵倒しているのにも気づかず、すこし残念そうに「そうですか」と鷹揚にうなずく山本長官であった。
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