営利案

第3話 便所

 三人娘が山本連合艦隊司令長官にあてがってもらった宿はかなり立派なものだった。

 しかし、設備において令和という時代からやって来た娘にとってはいろいろと問題があった。


 「やっぱり、においがきついですわね。この時代に生きるのであれば慣れないといけないのでしょうけど」


 「厠」から戻ってきた美津子がげんなりした表情で座り込む。

 トイレと言えば、流すも洗うも水やお湯が当たり前。

 そういった令和のトイレライフにどっぷり慣れ親しんだ年頃の娘からすれば、異臭ただよう、というか充満する昭和一六年の便所ははっきり言ってきつかった。

 それに、落ちたら危ないという緊張感もあるから、本来であれば便座上で得られるはずだった開放感も皆無だ。

 もちろん、それなりの格式を持った宿だからこの時代のことを思えば十分に水準以上だったし、便所紙も当時としては最高級のものが使われていた。

 だが、それでも美津子には何の慰めにもならなかった。


 「美津子ちゃん、慣れだよ、慣れ」


 本人の知らないところで女クマムシの異名を持つ、どんな環境にもいち早く適応できる杏が美津子を元気づける。

 杏はその明るい性格から友人知人が多かったがお年寄りの知己も多く、このため医療や介護の現実というものを若い割にはよく知っている。

 逆にその手慣れた対人処理能力から赤ちゃんの世話まで任されることもあった。

 そのようなこともあってか、人間と排泄が切っても切れない間柄であり、むやみにそれを汚がったり、嫌悪したりすることはない。

 ただ、聖子と同様、一言多い。


 「美津子ちゃん、この時代の野菜は肥料に・・・・・・」


 そう言いかけたところでニッコリほほ笑む聖子が杏の肩を乱暴に掴みにかかる。

 聖子の突然の挙動にきょとんとする杏とそれを見ている美津子。

 その二人に聖子は「杏の肩に何か気配がしたけど、気のせいだったみたい」と幽霊の存在を匂わせるような言葉を吐く。


 「あの杏さんがまさか聖子さんと同類だったとは。で、原因をつくったお相手はどなたなのですか?」


 美津子の勘違いに杏は慌てて手をバタバタさせる。


「違う、違う。聖子ちゃんと違って私はまだ・・・・・・って何を言わせるのよ!」


 聖子は美津子の一言にムッとしたものの、男遊びの話になると真面目な美津子との言い争いは分が悪いことを百も承知しているので、とりあえず余計な肥料話の回避に成功したことでよしとする。

 なんにせよ、この異時代に食欲不振が原因で美津子に体調不良にでもなられたらシャレにならない。


 「それじゃあ、ミーティング開始するわよ」


 杏の粗忽な振る舞いに聖子は心の中で盛大にため息をつきつつ、その杏と美津子に会議の開始を宣言する。

 聖子は思う。

 自分だってトイレのことはつらいのだ。

 洗浄便座の水圧を最強にしていろいろと楽しんでいたのに、それがこの時代に飛ばされたことで出来なくなってしまったのだから。

 一方、杏と美津子はミーティング開始だという聖子の言葉を受けて一瞬にして目に真剣な光を宿らせる。

 切り替えの速さと集中力の高め方は人それぞれだが、全国屈指のエリート大学生の三人はそれぞれの方法でモードを一瞬にして切り替えていた。


 「新聞は読んだわね」


 聖子の問いかけに美津子と杏がうなずく。


 「間違いありませんわね。今日は昭和一六年一一月九日。それにしても戦争前だというのに勇ましい記事ばかりでうんざりですわ」


 眉をひそめる美津子に対し、杏が珍しく細かい事実を指摘する。


 「美津子ちゃん、日本はとっくに中国と戦争まっさかりだよ」


 「そうでしたわね。貧乏な国のくせにお金のかかる戦争ばっかり。この時代の政治家は何を考えているのかしら」


 そう話す美津子は、一方でこの時代の人間が新聞紙面に載っている戦果や戦記に胸を躍らせていたことも知っている。

 つまり、この時代の日本人はロクでも無いやつがことのほか多いのだ。


 「今の日本はね、あまり良くない人たちが偉い人たちなんだよ。戦争で甘い汁をすいたがる政治家や官僚、それに財閥や軍人がグルになっているんだ。それに、勇ましい記事を書けば売れると味をしめた新聞や雑誌が庶民をあおっているし」


 杏の日本語はちょっとおかしいが、分析自体はおおむね正しい。

 だからこそ、聖子は注意喚起を忘れない。


 「杏も美津子も気をつけてほしいんだけど、今の時代では政府や軍部への批判はNGね。下手をすると憲兵や特高にしょっぴかれるわ。たとえ連合艦隊司令長官の知己であったとしてもね。

 だから言動は慎重に。同じ日本でもこの時代は私たちが知っている自由な日本ではない。むしろ独裁国家に近い」


 「北朝鮮あるいはアフガニスタンのようなものでしょうか」


 美津子が不安そうに尋ねる。


 「そこまでひどくはないと思うけど、それでも昭和一六年のこの国は二一世紀の日本と北朝鮮とどちらが近いかと聞かれれば、残念ながら北朝鮮に近いと言わざるをえないわね」


 「聖子ちゃん、そう言えばこれからは英語も敵性語として使えなくなるんじゃなかったっけ」


 杏の指摘に聖子は「そうよ」と短く答える。


 「じゃあ、ミーティングとかNGもダメだね。これから気をつけないといけないよ」


 よりによって杏に言われたことで聖子は心の中で渋面をつくったが、一瞬で切り替え次の話題に転じる。

 今の自分たちに無駄に出来る時間は無い。


 「美津子、生きていくのに必要なものって何」


 「もちろんお金ですわ」


 「愛じゃないの?」


 聖子は美津子の言葉に首肯しつつ、杏の純真は容赦なく無視。


 「そうね。この宿だって連合艦隊司令長官のおごりだけど、これだと私たちは連合艦隊司令長官に食べさせてもらっている立場。愛人と同じ。これは非常にまずいわ」


 「確かにお金を出す方が正義ですものね」


 財閥令嬢の美津子が身も蓋も無い答えを返すが、金で正義が買えることは世界中で実証されているし、金持ちの間では常識だ。


 「正義かどうかは分からないけど上か下かで言えば間違いなく下。立場が弱いのよ。これをまず打開することが先。自立した女と養ってもらう女のどちらが強いかわかるでしょう?」


 「要するにお金を稼ぐということでしょうけど、どうするのですか。この時代はどうすればお金が稼げるのか私にはとんと分かりませんわ」


 「聖子ちゃんは男好きだし美津子ちゃんは美人でスタイルが抜群だから、てっとり早いのは体を売・・・・・・グエッ」


 本気とも冗談ともつかないことを口にする杏に渾身の右ストレートを腹に叩き込みつつ聖子はニヤリと笑って言い放つ。


 「特許よ」

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