第14話 オムライスと焼肉 ④

「お前、一体何言って……」


 ねだるような眼差しを俺に向ける藍葉。

 その甘い表情、熱い吐息に、俺は今完全に不意を突かれた。


 ——センパイ。まだ帰りたくないです。


 脳内で何度もフラッシュバックされる藍葉の声。

 その度に胸の鼓動は高鳴り、抑えていたはずの感情が徐々に顔を出す。


 どうも身体が熱い。


 特に藍葉と触れている部分に確かな熱を感じる。

 まるで彼女から熱を吸い上げているかのように。


「ダメ……ですか」


 そんな中藍葉は、更なる追い討ちをかけてくる。

 子犬の様な目で、俺が頷くのを待っているようだった。


「ダメに決まってるだろ……」


「でも私このまま帰りたくないんです」


 だから俺も必死に抵抗してはみたが。

 藍葉の言葉にまたしても気持ちを揺さぶられた。


 頭ではダメだとわかっているのに。

 本当ならすぐにでも断りたいのに。

 心のどこかで、俺はこの子の言葉を真に受けていた。


 藍葉は可愛い。間違いなく可愛い。

 顔はもちろんのこと、あの無邪気な性格も。

 この子には年下の魅力がすべて詰まっている気さえする。


 俺のタイプではないと思っていた。

 でもこうして近くで見るとよく分かる。

 社内の男たちが藍葉を推しているその理由が。


 この子は正真正銘の美少女だ。

 出るところも出て、年下としての魅力も兼ね備えている。


 瀬川さんには劣るものの、今俺の目に映っている藍葉はとても……。


(……そうだ、俺には瀬川さんが)


 不意に俺の脳裏に瀬川さんの顔がよぎる。

 その瞬間、効力を失いかけていた理性がようやく働いた。


「と、とりあえず落ち着け」


 密着した藍葉を無理やり引き剥がした俺。

 初めこそ倒れないように注意を払っていたが。

 どうやら自力で立てるくらいには、回復しているようだった。


「センパイはもう帰りたいですか」


「帰らないでどこに行くって言うんだ」


「私はもっとセンパイと一緒にいたいです」


 俯いているので表情はわからない。

 だがその声音から、想いは何となく伝わった。


 藍葉は今、俺のことを求めている——。


 1人でいるのが寂しいのか。

 それとも俺のことを慕ってくれているのか。

 理由は定かではないが、彼女は確かに俺を欲している。


「センパイは私じゃ嫌ですか」


 そういうわけじゃない。

 決してそういうわけじゃないんだ。


 俺は藍葉のことを可愛いと思ってる。

 一度は心が揺れ動かされてしまうぐらいに。

 女性としての魅力を感じてしまったのは確かだった。


 でも。


 今の俺には必要ないのかもしれない。

 なぜなら心に決めた大切な人がいるから。

 ようやく想いが花咲いた、数年越しの恋が今はあるから。


「そんなに瀬川さんがいいんですか」


「そんなの——」


 そんなの当たり前だろ。

 そう言いかけて、俺の言葉は途切れた。


「そんなの、何です?」


「お、俺は……」


 なぜ俺は今言わなかったのか。

 なぜすぐに瀬川さんが好きだと言えなかった。

 自分のことながら、その理由がわからない。


 今までの俺なら迷うことなく宣言していた。

 それは好きだという気持ちに自信を持っていたから。

 ずっと瀬川さんだけを見ていたから、迷う必要がなかった。


 だが……。


 なぜ今になって、答えに悩んでいるんだ。

 なぜ今になって、瀬川さんとの悪い記憶ばかり蘇るんだ。


 俺は確かに瀬川さんのことが好きだったはず。

 じゃあなぜ今は、その気持ちにもやがかかっている。

 目の前の藍葉を魅力的に思ってしまう理由は一体何なんだ。


『もちろん浮気はダメよ?』


『し、しませんよそんなこと』


 ふいに昼間のやりとりを思い出す。


 俺は今日、確かに言った。

 藍葉と浮気なんて絶対にありえない。

 だから心配する必要は何もないんだと。


 でも実際はどうだ。


 藍葉の言葉でこんなにも心を揺らし。

 好きという気持ちさえもわからなくなってしまっている。


 浮気など絶対にありえない。

 その言葉を俺は過信していたのだろう。

 何も起きるはずないって油断していたのだろう。


 だから俺は今何もできずにいる。

 藍葉の言葉に頷くことも、瀬川さんの為に断ることも。

 何もできずにただ立ち尽くすことで、自分自身を守っている。


 そんなのは、ただの最低だ——。




 * * *




「冗談ですよ! じょーだん!」


 やがてそんな声が脳裏に響いた。

 反射的に顔を上げれば、そこにはいつもの藍葉が。


「冗談……?」


「そうですよ〜。ちょっとセンパイをからかってただけです」


 さっきまでの様子が嘘なくらい普段通り。

 酔っ払っていたとは思えないほど、しっかりと地に足をつけていた。


 全く訳がわからない。

 藍葉は酔っていたんじゃないのか?

 文字通り俺の頭の中は真っ白だった。


「もしかして信じちゃってました〜?」


 だが藍葉の茶化す様な一言で、俺は全てを理解した。


「お前なぁぁぁぁ……」


 全てを理解した末。

 怒りか安心かもわからない大きな溜息が溢れる


「はぁぁ……勘弁してくれマジで」


「あははっ、びっくりしました?」


「そりゃびっくりするに決まってるだろ」


「ですよね〜。センパイ顔真っ赤でしたもんね〜」


「ぐっっ……」


 俺はずっとからかわれていたのだ。

 このルックスだけは一流の生意気な後輩に。


「私がセンパイを誘うなんてありえないですよ〜」


「うううるさいっ……! 何も言うなっ……!」


「あっ、また赤くなった〜」


 あまりにも恥ずかしい。

 事実を知ると無性に恥ずかしさが湧き上がってくる。

 藍葉の嘘を真に受けてあんなにも葛藤していたなんて……。


(……いっそ誰か俺を殺してくれぇぇぇぇ)


 天に強く願ったが想いは届かず。

 藍葉は俺を指差しながら、心底楽しそうに笑っていた。

 後輩に笑い者にされてる時点で俺の羞恥心はズタボロだ。


「それじゃセンパイ。今日はごちそうさまで〜す!」


「おいお前……酔ってたんじゃ」


「それも冗談で〜す」


「冗談なのかよ……」


 軽快な足取りで走り去って行く藍葉。

 俺はその背中を複雑な感情で見送った。


 冗談でよかった。

 そうやって安心する気持ちも確かにある。


 だがそれ以上に。


 俺の心が藍葉の冗談によって揺れたこと。 

 瀬川さんを好きという気持ちを一瞬見失ったこと。

 それだけは冗談では済ませられない確かな事実だった。


(一体俺は何を悩んでいたんだ……)


 気が抜けたせいだろうか。

 さっきまでの自分を思い出せない。


 瀬川さんのことは偽りなく好きだ。

 今ならはっきりと口に出して言える。

 でもさっきの俺はそうじゃなかった。


 ——センパイ。まだ帰りたくないです。


 たった一言。

 それで俺の中に僅かな隙が生まれた。

 今となっては、自分が情けなくて仕方がない。


「しっかりしろよ俺……」


 両手で強めに頬を叩く。


 思い描いていた恋愛ライフ。

 とは、少しばかり違うのかもしれない。

 でも俺は瀬川さんと付き合って行くと決めた。


 ならその考えを曲げず突き通すまでだ。

 間違っても後輩の冗談なんかで途絶えさせていい恋じゃない。


「帰るか」






 家についてケータイを見ると。

 メッセージが30件以上溜まっていた。

 しかもその全てが瀬川さんからの着信だ。


「やっぱ気になってたんだな」


 そんな軽い気持ちでトーク画面を開く。

 だがその内容に俺は思わず絶句してしまった。


『今何してるところ?』


『もうお店にはついたかしら?』


『ねぇ、なんで返信をくれないの?』


『もしかして浮気?』


『もうそうだとしか考えられない』


『このまま返信くれないと私死ぬから』


 などなど。

 トーク内の瀬川さんのメンヘラは全開で。

 自分で言うのも躊躇うほど、とてもややこしいことになっていた。


 結局その後、俺は瀬川さんへの返信に追われることになり、浮気がなかったと納得してもらうまでに、3時間ほどの時間を要したのだった。

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