第2話 勝負の日 ②
居酒屋には2時間ほど滞在した。
その間俺は5杯、瀬川さんは7杯のビールを飲み干し、視界が少しぼやける程度には、酒の酔いが回っていた。
「すみません。誘ったのに奢って頂いちゃって」
「いいのよ。これでも私、あなたの上司だから」
ちなみにお代は全額瀬川さんもち。
もちろん俺も払うつもりでいたのだが。
結局最後まで財布を開かせてはもらえなかった。
「その代わりまた来ましょうね」
「はい、もちろんです」
そんな嬉しい言葉まで添えてくれる。
やはり瀬川さんは先輩としても素敵な人だ。
お代を払えなかったのは確かに悔やまれるが。
今日ここで過ごした時間は、とても有意義だったように感じる。
いつもにも増して話が盛り上がったし。
瀬川さんとも更に親しくなれた気がする。
正直俺は今、とても気分がいい。
「駅まで送りますよ」
こんな痒いセリフまで自然と出てくる。
普段の俺は女性に対してかなり奥手な方だが。
酔いのせいか、今なら何でもできる気がした。
(これはだいぶ酔ってるな)
自らの酔い度を何となく悟り、ふと隣を見れば。
瀬川さんの足取りが少し覚束ないように感じた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……少し酔ってしまって」
「もし良かったら腕貸しますよ」
「それじゃあ……少しの間だけ」
左腕を優しく掴まれるこの感触。
思いのほか瀬川さんの体温は高い。
「ゆっくりでいいんで」
普段の俺なら即戸惑うところだが。
不思議と今は冷静なままでいられた。
わずか数分間の駅までの道のり。
いつもなら億劫に感じるこの歩き慣れた道も。
今だけは終わって欲しくない特別な時間に思えた。
こうしてずっと瀬川さんの隣にいたい。
彼女の肌や温もりをずっと感じていたい。
距離が近づけば近づくほどその気持ちが強くなる。
そしてそれが頂点に達した時。
俺は悟った。”行くなら今しかない”と。
「この後、うち来ませんか」
* * *
数秒経ったはずだが。
瀬川さんからの返事がない。
嫌われてしまったのだろうか。
それとも聞こえていないだけなのだろうか。
時間が過ぎれば過ぎるほど、俺の不安は増幅していく。
我慢ならず、恐る恐る目線を横に向ける。
しかし長い髪に隠れて、瀬川さんの表情を確認することはできなかった。
でも確実に言えることが一つ。
この距離なら間違いなく俺の声は届いていた。
つまり瀬川さんは今、聞こえた上で何も言わずいるのだ。
気まずい。
一気に酔いが冷めて我に帰る。
さっきまで心地よかったはずの時間が、嘘のように息苦しく。
今もなお瀬川さんに触れている左腕が、鉛のように重く感じた。
「ああ、いやぁ……」
とりあえず何か言わなければ。
自然と俺の脳内は焦りに侵食されていく。
「もしかしたら飲み足りないかなぁと思って、あはは……」
そして気づけば、そんなことを口にしていた。
お互いこれだけ酔っているのにも関わらずだ。
(何言ってんだ俺は……)
惨めとしか言いようがなかった。
例えまだ飲めるとしても、2軒目に行けばいい話なのに。
それを瞬時に思いつくほど、俺は冷静ではいられなかった。
俺は間違いなく軽い男だと思われただろう。
もしかしたらもう、瀬川さんと飲みにいくことはないのかも知れない。
気まずさから出た愛想笑いが、我ながら気持ち悪くて仕方がなかった——。
「いいわよ」
「……えっ」
体感にしたら300年。
それくらいぶりに瀬川さんの声を聞いた気がする。
「い、今なんて?」
「飲み直しましょうか」
「それはつまり……うちに来るってことですか?」
「ええそうよ。保坂くんがそう言ったんでしょ?」
確かにそうだ。
紛れもなく最初に誘ったのは俺の方だが……。
「え、えっと。いいんですか?」
「いいって?」
「いやその、一応俺も男なので、何というか……」
「家に行くくらい、別に私は構わないけど」
酔った勢いで襲われるかも。
とか、普通この局面なら考えそうなものだが。
なぜこんなにもこの人は平気な顔をしてられるんだ。
(もしかして俺、男として見られて……)
などという余計な心配が一瞬頭をよぎったが。
今後のためにも、今は何も考えないようにしておこう。
「それともアレかしら。保坂くんは自分から女性を自宅に誘っておいて、後になってやっぱり無理とか断るのかしら」
「そんなことは……」
自分でも終始タジタジなのがよくわかる。
多分俺は今、相当間抜けな顔を晒していることだろう。
でも今だけは許してほしい。
何てったってあの瀬川さんが家に来るんだから。
普通の感性を持っている男なら、必ず皆んなこうなるはずだ。
「それにあなたのことは信頼しているし」
「も、もちろん変な真似はしませんから」
* * *
「ここが俺の部屋です」
「案外いいところに住んでるのね」
途中のコンビニで追加の酒とつまみを買い。
ついに俺たちは俺の家の前まで辿り着いてしまった。
とはいえだ。
このまま瀬川さんを家にあげるわけにもいかない。
「ちょ、ちょっと待っててくださいね」
一言断りを入れ、俺は一足先に部屋へ。
上着も脱がず、目につくところを迅速に整理整頓していった。
普段から掃除はするので、幸い部屋はそこまで汚くはない。
テーブルを拭いて、昨日飲んだ酒缶を片付けるくらいだった。
今だけは、自分の真面目すぎる性格に賞賛を送ってやりたい。
「お待たせしました。どうぞ」
「それじゃお邪魔するわね」
瀬川さんが俺の部屋に入っていく。
その姿を少しだけ緊張しながら見守り。
最後に一応の左右確認をしてから、玄関の扉を閉めた。
俺の部屋は9畳1部屋。
玄関を開けてすぐにキッチン、トイレ、そして脱衣所に洗濯機。
部屋にはテレビ、ベッド、そしてテーブルと最低限の物しか置いていない。
独身の25歳男性が一人暮らししていそうな、ごく普通のアパートだ。
「とても綺麗な部屋ね。保坂くんらしいわ」
「そうっすかね。定期的に掃除はしてますけど」
「普通の男性の1人暮らしなら、ここまで綺麗にしないわよ」
確かにそうかもしれない。
大学時代1人暮らしをしていた友人の家に行ったことがあるのだが、同級生の1人暮らしとは思えないほど、物が散らかる悲惨な部屋だった。
食器や洗濯物は溜まりに溜まり。
テーブルや床は、様々なもので埋め尽くされてほとんど空白がない。
本人に確認したところ、2ヶ月は掃除していないと言っていたっけ。
「ひょっとして保坂くんA型かしら」
「当たりです。よくわかりましたね」
「A型は真面目で綺麗好きって、よく言うでしょ?」
「た、確かに言いますね」
俺の大学の友人も確かA型だった気がするが。
とりあえず今はそういうことにしておくとしよう。
「時間もあれですし、早速乾杯しちゃいましょうか」
「それもそうね」
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