第5話 メンヘラ ①

 仕事終わりにケータイを開くと。

 1通のメッセージが送られて来ていた。


(お、瀬川さんからだ)


 今日うちに誘っていたから、おそらくその返信だろう。

 俺はすぐさまそれをタップして、メッセージ画面を開く。


 すると。


『わかった』


 送られて来ていたのは、そのたった一言だけ。

 瀬川さんにしては、少し珍しい内容だと思った。


(疲れてるのかな)


 普段なら待ち合わせの時間や場所などを積極的に聞いてくるはずだが、一言しか送ってこないあたり、たまたま忙しい時にでも返信したのかもしれない。


『仕事終わりました。今どこにいます?』


 ひとまず俺はそう返信をして。

 続く瀬川さんからの連絡を待った。






『もう駅にいる』


 そう返信があったので、俺は慌てて会社を出た。

 てっきり社内の何処かで待っててくれるものだと思っていたから、俺は返信が来るまで、自分のデスクで呑気にケータイゲームをしてしまっていた。


「先に行くなら言ってくださいよぉぉぉぉ……!!!!」


 ハァハァと息を切らすその合間に思わず本音をこぼす。

 彼女とはいえ、自分のせいで職場の上司を待たせるわけにはいかないので、俺はここ数年の中で、一番の猛ダッシュをして駅に向かったのだった。




 * * *




 駅で瀬川さんと無事に合流をし。

 俺たちは予定通り、同じ電車に乗り込んだ。


 しかし合流してからというもの。

 俺と瀬川さんの間にこれといって会話はない。


 電車の中でも、電車を降りた後も。

 コンビニでお酒を買うときすらも。

 俺たちの間にはずっと重い空気が流れていた。


「今日うちでよかったですかね」


「うん」


「もしかして何か他に予定とかありました?」


「別にないけど」


「そ、そうですか」


 家に着く直前。

 不穏な空気を断ち切ろうとしてみたが。

 明らかに瀬川さんからの返事は冷たい。


「1本目はビールっすよね?」


「うん」


「おつまみ買って来たやつで足りますか? 足りなそうなら俺何か作りますけど」


「別にいい」


「ならいいんですけど……」


 うちに着いてからもそれは変わらず。

 なぜだか今日の瀬川さんは、普段と様子が違うようだ。


 表情はずっと浮かない感じだし。

 合流してから一度も俺と目を合わせようとしない。


 それに。


「そんなに一気に飲んで大丈夫なんですか……」


「ハァァ……もう一本」


 お酒を飲むペースが凄まじく早かった。

 普段でもかなり早い方だが、今日はそれ以上のハイペース。

 缶を開けて数秒で、500mlのビールを飲み干してしまったのだ。


(これはもしかして……)


 正直あまり考えたくなかったが。

 どうやらそうも言っていられない状況らしい。


「あの……瀬川さん」


 ぷいっ。


「えーっと……話を聞いて欲しいんですけど……」


 ぷいっ。


 俺の話を聞くそぶりすら見せない。

 それどころか瀬川さんはそっぽを向いてしまう。

 今までのそっけない感じを見ても、まず間違いないだろう。

 

「もしかして怒ってます……?」


 返事は返ってこなかった。

 でも瀬川さんは今、確実に怒っている。


 原因はなんだろう。

 考えてはみたが、それらしき理由が思い当たらない。


(もしかして、駅で待たせたからか……?)


 一度はそう思ったりもした。

 だが原因はそれだけじゃないはずだ。


 そもそも最初の返信の時点でおかしかった。

『わかった』一言だけなんて、瀬川さんにしては冷たすぎる。

 となると怒らせた原因が他にあるということになるが……。


(んんー……わからん)


 正直俺には思い当たる節がなかった。

 今日会社で瀬川さんとは、一切絡んでいないし。

 それで俺が彼女を怒らせる原因を作ったとも思えない。


「俺、なんかしちゃいましたかね……」


 とても不安だった。

 怒らせた原因がわかれば、対処のしようもある。

 しかし今の俺には、瀬川さんの気持ちがわからない。


 それにまだ付き合って1週間だ。

 こんな短期間で彼女と喧嘩してしまうとは……。


「あの……すいませんでした」


 もしかしたら振られるかもしれない。

 そう思ってしまうほどに、俺の精神には余裕がなく。

 考え過ぎてしまった末、気づけば謝罪の言葉を口にしていた。


 できれば穏便に解決したい。

 悪いのは俺でいいから、早く仲直りがしたい。

 そう思ったからこそ、俺は謝罪を躊躇わなかった。


 きっと俺は焦っていたのだ。

 ようやく掴んだ幸せを、手放したくなかったから——。







「すいませんって、何」


「えっ……」


「何かしちゃいましたかって、言ったよね」


「……はい」


「それですみませんって、どういうこと?」


「そ、それは……」


 できるだけ穏便に。一刻も早く仲直りを。

 そう思っていた俺に、瀬川さんの言葉が突き刺さった。


「何を悪いと思って謝ったの? 何を考えて謝ったの? 私には保坂くんが”すいません”って謝った理由が、全く理解できないのだけど」


 確かにそうだ。

 俺は原因がわからないまま、とりあえずで瀬川さんに謝罪した。

 今思えばそれはとても軽率で、失礼な行動だったと思う。

 

「私は確かに怒ってる。でもそんな上辺だけの謝罪が欲しくて、怒ってる訳じゃない。私が何で怒ってるのか、何であなたに冷たくするのか、その気持ちをあなたは真剣に考えてくれたの?」


 何も言い返せなかった。

 自分のせいで瀬川さんを怒らせてしまった。

 頭の中はそればかりで、彼女の気持ちを深く考える余裕がなかったのだ。


 これ以上喧嘩したくない。

 できるだけ穏便に済ませたい。


 そんなことばかりを考えて、とりあえずで謝罪して。

 機嫌が治ったらいいな、なんて、呑気に考えていた。


 だけどそれは、ただの自己満足だ。


 できるだけ自分が不幸にならないように。

 できるだけ自分の傷が少なくなるように。

 そうやって自分のことを守っていただけだったのだ、


 最低だ——。


 絶対に幸せにするって。

 一度だって泣かせはしないって。

 告白したあの日、俺は心に誓ったのに。


 1週間でこのザマだ。

 大切にすると決めた彼女を怒らせ。

 その上怒らせた原因すらもわからない。


(彼氏失格かもな……)


 俺は猛烈に反省をし。

 己の無力さを痛いほど噛み締めていた。


 そう、この時までは——。




 * * *




「……えっ?」


 後悔に押しつぶされそうになっていた矢先。

 思わず耳を疑うようなことを瀬川さんが言った。


「今なんて?」


「だから私は保坂くんのことずっとずっとずぅーっと意識してたのに、何で気づいてくれなかったの⁉︎」


「え、えっと……今日1回気づきましたよね?」


「そうじゃない!! 昨日とか一昨日とか無視したでしょ!!」


 2缶目のビールを飲み終わったあたりからだろうか。

 瀬川さんのテンションが、急にガラッと変わったのだ。


「無視はしてないと思いますけど……」


「それに付き合ってから、何であからさまに私のことを避けてるの⁉︎ 私は保坂くんともっとたくさん話したいのに!!」


「それは会社に俺らの関係がバレるのはまずいかなって」


「そんなに私と付き合ってることを周りに知られるのが嫌なの⁉︎」


「別に嫌って訳じゃなくてですね……」


「わかったわ! だから今日もいつもの居酒屋じゃなくて、わざわざ家に誘ったんでしょ。私と一緒に食事しているところを社内の誰かに見られるのが嫌だからって!」


「そういうわけじゃないんですよ……。俺はただうちの方が2人で落ち着いて飲めるかなと、そう思っただけで……」


 思考が全く追いつかなかった。


 俺は今何を説教されているのか。

 瀬川さんはなぜそんなにも怒っているのか。

 テンションの差が原因なのか、全くもって理解ができない。


 何よりもだ。

 今目の前にいる瀬川さんが、俺の知る瀬川さんじゃない。


 普段はもっとお淑やかで、大人な女性という感じだが。

 酔っ払っているからか、キャラが大幅にブレてしまっている。


 これは何か、色々とまずい気がする……。


「一旦水でも飲んで落ち着きましょう?」


「私は十分落ち着いてるわよ!」


 水を勧めたが速攻で断られてしまった。

 過去に何度か酔っ払った瀬川さんを見たことあるにはあるが、ここまで拗らせている姿を見るのは、飲み友の俺とて初めての経験かもしれない。


「そんなこと言うってことは、もう私のこと好きじゃないんでしょ」


「いやいや……なんでそんな話になるんですか」


「だって私の話なんか聞きたくないんでしょ⁉︎」


「そんなことはないですけど……」


「もういい。保坂くんに嫌われるくらいなら私、自分から消える」


「えぇぇぇぇ……」

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