第6話 メンヘラ ②
「帰るっ!」
ヒートアップした様子の瀬川さん。
いきなり立ち上がると、涙まじりにそう言い放った。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺の話も——」
「嫌よ! どうせ私は保坂くんに捨てられるんだもの!」
「捨てませんよ! だから少しだけ話を聞いてください!」
俺は必死に呼び止めるが。
全く話を聞いてはもらえない。
それどころか、本当に帰り支度を始めてしまった。
「私のことは忘れて」
瀬川さんはぽつりとそう言い残し。
荷物をまとめて部屋を出て行こうとする。
だがしかし、酔っているせいだろうか。
開いたドアに足の指を思いっきりぶつけた。
「あっっイッタァァァァ……」
痛そうな顔で一度はうずくまった瀬川さん。
だがどうやらその程度じゃ、彼女は止まらないらしい。
半泣き状態のまま、荷物を抱え玄関へと向かってしまった。
「あの……瀬川さん」
「何よ」
ヒールを履く瀬川さんの背中に話しかけるも。
ここへ来てもなお、何と言っていいのかわからない。
どうしたら話を聞いてもらえるのか。
どうしたら瀬川さんの機嫌を治せるのか。
頭がパニックになっているからか、全然言葉が出て来ない。
「とりあえず上着忘れてます」
「はっ……」
今の俺に言えるのはそれぐらいだった。
指摘すると瀬川さんは、片方だけ履いていたヒールを脱ぎ捨て、恥ずかしさと怒りが混じったような、何とも言えない表情で部屋へと戻る。
(ここを通しちゃダメだ)
そして再び玄関へ向かおうとしたところで。
俺は瀬川さんの前に立ち、その行く手を阻んだ。
「どいてもらえるかしら」
「どきません。俺の話を聞いてくれるまでは」
瀬川さんに対してこんなに強気になるなんて。
正直告白した時は、想像すらしていなかった。
瀬川さんになら何をされてもいい。
どんなことがあろうとも許せる自信がある。
そんな甘い考えが俺の中にはあったのだろう。
でも実際の喧嘩というのは、そう簡単に解決しない。
俺は今日、身をもってそれを実感させられた。
「もう一度何が嫌だったのか、詳しく教えてください」
相手の気持ちを理解し、自分の気持ちを相手に伝え。
そしてお互いが納得した時、始めて仲直りができる。
どちらか一方が許容できるからとか。
どちらか一方がもう一方に合わせればいいとか。
付き合うというのは、そんな単純なことじゃなかったのだ。
「俺のことが嫌いになりましたか?」
「そ、そんなことあるわけないじゃない」
「なら、教えてもらえますか」
むぅ〜と顔をしかめる瀬川さん。
少し強引に俺が尋ねると。
渋々怒っている理由を話してくれた。
先週、瀬川さんに告白したあの日。
あれ以来、俺は職場で瀬川さんを避けてしまっていた。
でも決して彼女を嫌いになったからではない。
社内の人間に付き合っていることを悟られないため。
そして何よりも、瀬川さんに余計な迷惑をかけないため。
俺の心配性な性格が、無自覚でそうさせていたのだと思う。
だがそれは瀬川さんにとっては大きな負担で。
結果的に彼女を悩ませる火種となってしまった。
「私、保坂くんのこともっと知りたかったの。たくさん話して、もっとあなたと仲良くなりたいって、そう思っていたの」
俺のことを知りたい。そしてもっと関係を深くしたい。
そうやって瀬川さんは、ずっと俺のことを考えてくれていた。
「だから毎日の仕事が楽しみで。時間が空いた時に少しでもいいから、保坂くんと話したいなって。ほんの少しでいいから、2人の時間を過ごしたなって、そう思っていたのに……」
だけど俺は全然話しかけようともしない。
それどころか避けるような態度を取られる。
だから瀬川さんは、自然と不安に思ってしまった。
俺に嫌われたんじゃないかって。
今日までずっと1人で悩んでいたのだ。
「そう……だったんですね」
初めは距離を置くことが最善だと思っていた。
社内恋愛は白い目で見られるのが定石だと考えたから。
だが結果的に、俺は瀬川さんを追い込んでいただけだった。
(何やってんだよ俺は……)
本来目を向けるべきは、周りではなく瀬川さんのはずなのに。
俺は一番大切なものを、いつの間にか見落としてしまっていたのだ。
「すみませんでした。俺全然気づけなくて」
「ううん。わかってもらえればいいの」
訳を知り、俺の中に確かな罪悪感が募る。
なんで俺は気づけなかったんだろう、って。
自分を責め立てる感情が無限に湧き上がって来る。
「でも俺、あなたのこと大好きなんで」
だがそんな反省は後でもできる。
今の俺がやらなければならないこと。
それは瀬川さんの不安を少しでも早く無くしてあげることだ。
「好きだからこそ、大事にしたいんです」
「保坂くんは本当に私のことが好き?」
「はい、好きです」
「本当に本当?」
「本当に本当です」
「そっか。それならよかった」
俺が素直な気持ちを伝えると。
瀬川さんはようやく涙を拭いてくれた。
「そしたら部屋で飲み直しましょうか」
「ええ、そうね」
そうして俺たちの初めての喧嘩は無事収束し。
1時間ほど飲んだ後に、本日の宅飲み部は解散となった。
ちなみに瀬川さんは帰る際。
先ほどの上着に続いて、仕事カバンを忘れかけていた。
俺が指摘しなかったら、多分気づきもしなかったと思う。
(瀬川さんって意外と抜けてるんかな)
今まで完璧超人かと思っていた彼女も、俺の前だと普通の顔をする。
逆にそれが嬉しくて、たまらなく可愛い一面でもあった。
* * *
深夜1時過ぎ。
俺が寝ようとベッドに入ったその時。
枕元に置いていたケータイが不意に鳴った。
「誰だよ、こんな夜中に」
着信音的には電話でなくメッセージのよう。
こんな夜遅くに、一体誰が送ってきたのだろう。
「ん、瀬川さん?」
するとその送り主は瀬川さんだった。
日付を超えてメッセージを送って来るとは珍しい。
「何か緊急の連絡かな」
時間的に考えて大いにあり得る。
俺はすぐさま瀬川さんとのメッセージ画面を開いた。
『寂しい』
「ん……?」
その内容は『寂しい』と一言。
もしや家に1人でいるのが寂しいのだろうか。
とりあえず俺は、それらしく返事を返してみた。
『本当に私のこと好き?』
すると今度はそう送られて来た。
なので俺は速攻で「好きですよ」と返信した。
「今日の喧嘩のことまだ気にしてんのかな」
夜中にこんなことを聞いてくるあたり。
おそらくはそうなのだろう。
「だいぶ不安にさせちゃったからな」
なんてことを考えていると。
続いて瀬川さんからこんな返信が届いた。
『文面じゃわからない。直接言って』
「直接……?」
そのメッセージが届いて間も無く。
急に瀬川さんから電話がかかってきたのだ。
「ちょっと待って……電話……⁉︎」
俺の声でも聞きたいのだろうか。
イマイチ訳がわからないが、流石に無視するわけにもいかない。
ひとまず俺はその電話に出ることにした。
「いきなり電話なんてどうしたんですか?」
『寂しい』
「あ、えっと……だから俺の声が聞きたくなったと」
『うん、迷惑かしら』
「迷惑だなんてそんな」
むしろ瀬川さんの可愛いところが見れて幸せだ。
普段は弱音を吐かない人だが、こんな一面があったとは。
「そういうところも好きですよ」
らしくないとは思いつつも。
俺は思ったままの素直な気持ちを伝えた。
これで少しでも寂しさが和らいでくれればいいのだが……。
「……えっと、瀬川さん?」
結果はまさかの返答なし。
俺の愛の告白が気持ち悪かったのだろうか。
もしそうなのだとすれば、100回は死ねる自信があるぞ。
「体調でも悪いんですか?」
でもここで死ぬわけにもいかず。
その後も俺は何度も懲りずに呼びかけた。
しかし一向に瀬川さんからの返事がない。
(電波でも悪いのか……?)
そう思ってWi-Fiを確認するも。
どうやら通話は正常に繋がっているっぽかった。
つまり瀬川さんはずっと無言だったということになる。
「あの……もしかして本当にキモかったですかね……」
流石の俺も不安になり。
意を決して先ほどの言動について尋ねてみた。
すると。
『……たせ……びし……った』
通話の向こうから、微かな声が聞こえて来る。
「すいません。もう一度いいですか」
『……わしたせ……びしく……った』
だがその声は、あまりにも小さく聞き取りにくい。
泣いているような、どこか苦しいような、そんな感じの声だった。
もしかしたら瀬川さんは今、まともに声も発せない状況なのかもしれない。
「大丈夫ですか? やっぱり体調が——」
やっぱり体調が悪いんですか。
心配した俺が、そう言いかけた時だった。
『なんで聞き取ってくれないの』
瀬川さんとは思えないほど低い。
呪いのような声が通話の向こう側から聞こえてきた。
「えっと……瀬川さん?」
『ずっと私は伝えようとしてたのに』
「いやでも……うまく聞こえなくてですね」
『保坂くんの声を聞いたせいで、私はもっと寂しくなったのに。なのにあなたは私の話を聞いてくれようともしない』
「き、聞こうとはしましたよ? でも声が小さかったというか何というか……」
『もういい。寂しいくらいなら死んだ方がマシ。私、死ぬから』
「えっ……えぇぇぇぇぇぇ⁉︎⁉︎⁉︎」
一瞬頭が真っ白になった末。
冷静になった俺はふと気づいてしまった。
あ、この人はとんでもない”メンヘラ”だ。
見た目はあんなに可愛いのに、性格に難ありなのだと。
「と、とりあえず落ち着いてください。今日は寝るまで付き合いますから」
その後。
俺は早まる瀬川さんを何とか説得し、完全に寝付くまでの2時間もの間、ずっと彼女をあやす羽目になったのだった。
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