第44話 それぞれの思い ①
出張から1週間が経った。
あれから俺は麗子さんとまともに話せていない。
付き合ってからずっと続いていたメッセージのやり取りも、出張の前の日付のままピタリと止まってしまっていた。
このままじゃダメだ。
そう思って俺は、何度も何度も連絡を試みた。
文字を打っては消し、また文字を打っては消し。
ちゃんと話したいって気持ちは確かにあるはずなのに、今の俺にはメッセージを送るだけの勇気がなかった。
死んだ魚のような目でただじっとPCを見つめる。仕事をしていても全くもって身が入らなかった。
今日は金曜日。
今日が終われば2日間、麗子さんと会うことはなくなる。それを考えると、虚しさで胸がギュッと締め付けられた。
「おい保坂。お前それ印刷するの何回目だよ」
「あ、ああ……そういえばそうだった」
知らぬ間に印刷ボタンを押していた。
そういえばこれは、ついさっき印刷したばかりの資料だ。
「大丈夫なのか?」
「すまん……俺にもわからないんだ」
堀に心配されたまま、ずっと落ち込んでいたくはなかった。でも今の俺にはお世辞にも大丈夫と言えるだけの心の余力はない。
「顔色、今日は特にひどいぞ」
「昨日あまり寝てないからな……」
「考え事はいいが、思い詰めるのだけは程々にな」
「ああ、わかってる」
堀はもっと何か言いたげだったが。
それだけ言ってすぐPCに視線を戻した。
(こいつにも気遣わせてるな……)
出張以来、堀は何かと気にかけてくれている。きっとこいつなりに、どうにかしたいという思いがあるのだろう。
「すまん、この資料まとめるの手伝ってもらっていいか」
「いいぜ。その代わり今度飯おごってくれよな」
「ああ、もちろんだ」
こうして俺は無事、今日の業務を終えた。
* * *
必要なものをビジネスバッグにしまい。
俺がオフィスを後にしようとすると。
「センパイちょっといいですか」
同じく帰ろうとしていた藍葉に声をかけられた。
「ちょっとお話があるんですけど」
この声を聞いたのは1週間ぶり。
俺は今週ずっと個人の仕事に没頭していたので、社内で顔をあわせる機会もほとんどなかった。
多少の気まずさが俺の中に浮かぶ。
「お、おう。どうしたんだよ急に」
「いや、この後暇かなと思いまして」
「まあ、今のところ予定はないが」
「そうですか。予定ないんですね」
するとなぜか藍葉は視線を斜め下へ。
気難しそうな顔で何かを言いかけている。
(まさか飯に誘われるんじゃないだろうな)
この感じからして大いにあり得るが。
できれば今、そうなって欲しくはない。
「な、何か用でもあるのか?」
正直答えはわかっていた。
でも俺は何食わぬ顔で、藍葉に訊いた。
「この後私とご飯でも行きましょう」
やはりそうだった。
何となくそうだとわかっていた。
でも予定がないと言った手前、断れるような状況じゃない。
「お店はどこでもいいので」
「いや……でもだな」
「センパイ予定ないんですよね?」
「ないことにはないんだが」
「じゃあ行きましょうよご飯」
「んん……」
藍葉からの猛烈な誘い。
その勢いに俺がどぎまぎしていると。
ガタンッ!
俺の背後で大きめの物音が鳴った。
すると次の瞬間。
麗子さんが荷物を抱え。
足早にオフィスを出て行ってしまった。
(聞いてたのか……)
目の前の藍葉に気を取られ気づかなかった。
まだ麗子さんがオフィスに残っていたなんて。
「それでセンパイどうなんですか」
それでもなお引き下がらない藍葉。
本当ならこの子を置いて麗子さんの後を追いたい。でもそんな前向きな思考に、心の迷いがブレーキを掛ける。
今の俺が追いかけたところで何になる。
彼女をまた傷つけてしまうことになるんじゃないのか。
そう思うと、俺の足は自然と
「今回はちゃんと私も払いますから。それならいいですよね」
「んん……」
ここまで言われてしまっては断ることもできず。俺は藍葉と2人で急遽食事に行くことになってしまった。
* * *
前はあれだけ嫌がっていた近所の焼き鳥屋。
今日はなぜか藍葉の方からそこに行こうと誘ってきた。
「センパイ、何飲みますか」
「じゃあ俺はビールで」
俺が答えると。
意外にも藍葉は自ら店員を呼んだ。
そしてビールとファジーネーブルを注文する。
(そういやこの酒、俺が教えたんだっけ)
今もこうして注文するということは、随分と気に入ってくれたのだろう。
藍葉と焼肉をしたあの時が、麗子さんと付き合い始めてまだ1週間だったと考えると、色々と考え深いものがあった。
「乾杯」「乾杯です」
控えめな乾杯で飲み始める。
「適当に何か頼んでもいいですか」
「おう。お前の食いたいやつ頼みな」
「わかりました」
すると藍葉は次々と料理を注文していく。
チャンジャ、揚げ出し豆腐、焼き鳥の盛り合わせ。
この間麗子さんと3人できた時に頼んだものばかりだ。
料理が届き、それをつまみながら酒を飲む。
最初こそ特に会話らしい会話はなかったが、1杯目の酒を飲み終えた直後、藍葉は不意にこんなことを言い出した。
「センパイは私のことどう思ってますか」
ブッッ!!
と、思わずビールを吹き出してしまった俺。
「センパイ汚いです」
そんな俺を見て顔をしかめる藍葉。
まさかいきなりその話題を出してくるとは。
予期せぬ展開を前に、潜めていたはずの羞恥心が顔を出した。
「お、お前……いきなりその話題かよ」
「いいじゃないですか。どうせいつか聞くつもりでしたし」
できるだけ避けたいと思っていたが、案の定こいつは端からそういうつもりだったらしい。
「ふぅぅ……」
俺は一度浮ついた心を整える。
そして藍葉の目をまっすぐに見つめ。
「どうって、職場の後輩だよ」
嘘偽りのない答えを、思い切って言った。
その瞬間。
藍葉の表情が少し落ち込んだのがわかった。
嘘を言っていないからこそ、俺も心苦しい。
「可愛いとか思わないんですか」
「かわっ……お前よくそんなこと自分から聞けるな」
しかし流石は藍葉。
こんな状況でもその肝の据わり具合は一丁前だ。
俺は一瞬答えに詰まったが。
聞かれた以上、正直に答えるしかなかった。
「可愛いとは思うよ」
「具体的にどのあたりがですか」
「顔とか年下っぽいところとか……まあそんな感じだ」
「そ、そうですか」
すると藍葉はなぜか照れる。
自分で聞いておいてそんな顔するとか。
答えた俺の方も恥ずかしくなるじゃないか。
「じゃあ一つ聞きますけど」
キリッと口角を戻した藍葉。
「可愛いのに何で私じゃダメなんですか」
またしても羞恥心を抉るようなそんな質問を。
(お前のメンタルは鋼かよ……)
ツッコミたくなるほどのタフさだが。
あくまで当人はとても真剣なようだった。
「そりゃ俺が好きなのは麗子さんだからな」
だからこそ俺も真剣に答える。
「じゃあ瀬川さんと私どっちが可愛いんですか」
「そんなの麗子さんに決まってるだろ」
言葉は少しきついかもしれない。
でも中途半端に期待をさせたくなかった。
藍葉の気持ちを知ってしまったからこそ、俺にはその思いに真剣に向き合う義務がある。情けない姿を晒すのは、もう俺だってしたくない。
「そうですか……」
ひとしきり俺の答えを聞いて、ぐっと口に力を入れる藍葉。そんな彼女の表情を見ていると、俺の心はチクリと痛んだ。
でも、きっとこれでいい。
自分のためにも藍葉のためにも。
そして何より麗子さんのためにも。
今俺がするべきことはきっとこれなんだ。
「センパイならそう言うと思ってました」
「えっ?」
藍葉の言葉に思わず意表を突かれる。
「やっぱり瀬川さんの方が私なんかよりもお似合いです」
そう言う彼女は、確かに笑顔だった。
きっとこの子は悲しいはずなのに。
俺の正直な答えのせいで傷ついたはずなのに。
でもなぜか藍葉は、涙を見せずに笑っていた。
「すみませんいきなり変な話しちゃいました」
「ああいや……」
「飲み物、次もビールでいいですか?」
「あ、ああ」
その笑顔の裏にどんな意図があるのかわからない。
わからないが……。
今の彼女を見ていると、胸の辺りがざわついた。
* * *
「センパイ2000円でいいですよ。あとは私が出すんで」
「そ、そうか?」
「はい。誘ったのは私なので」
藍葉は本当に会計をしてくれた。
今日の会計は2人で5千円弱。
にもかかわらず藍葉は2千円いいと言ってくれたのだ。
(どうなってんだよ本当……)
いきなり好きだと言われたりだとか。あれだけ集りたがっていたのにいきなり金払うとか。この子がどんな思いでそうしているのかがわからない。
——センパイは私のことどう思ってますか。
その質問の答えだってきっと藍葉はわかってた。わかっていたはずなのに、それでも俺に答えを求めた。
自分が傷つくとわかっているのに、なぜそうまでしてこの子は、前に進もうとするんだ。
「それじゃセンパイ。今日はありがとうございました」
「駅まで送る」
「いいえ。今日は1人でも帰れますんで」
「そ、そうか?」
「いつまでもセンパイに甘えてられないですからね」
ひらひらと手を振って去っていく藍葉。
でもその後ろ姿は、なんだか彼女らしくない。
表情が見えるわけじゃない。
だけど俺はわかってしまった。
俺に背を向けたその瞬間。
抑えていた何かが溢れ出るその様が。
力のない背中から、それが伝わってしまった。
「ごめんな……藍葉」
不意に出た意味のない謝罪。
彼女の想いに応えられなかったという無力感、そして情けない自分の生き様に、俺はしばらく、空を見上げながら立ち尽くしたのだった。
ブルッ。
ポケットに入れていたケータイが鳴った。
その振動で呆けていた俺はふと我に返る。
「堀?」
ケータイを開けば。
どうやら堀からの着信のようだ。
すぐさまタップしてメッセージを開いた。
『保坂、今大丈夫か』
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