第32話 残業 ③ (才加視点)
仕事を終えて帰ろうとしていると。
たった1人PCと向き合うセンパイの姿が目に入った。
「まだ帰らないんですか」
「ああ。まだ資料の見直しが残ってるからな」
「それって多分私が提出したやつですよね」
「まあな。流石に定時には終わらなかったわ」
何となくそうだとは思ってたけど。
私が遅れたせいでセンパイはまだ帰れないらしい。
「気にせず先帰っていいぞ」
「なんか……すいません」
「別にいい。俺もすぐ上がる」
流石の私も申し訳ないとは思った。
でもセンパイに「帰った帰った」と手で合図されたので、確かな罪悪感を抱えつつも、私は軽くお辞儀をして、言われた通り帰ることにした。
会社を出たのはいいけど。
このまま家に帰るのは何だか少し不服だった。
別にセンパイに気を使ってる訳じゃない。
ただちょっとだけ外の空気を吸いたいだけ。
「まだ5時半……」
センパイは何時くらいに帰るんだろう。
そんなことを思いながら私はぼーっと街を歩く。
あえて駅とは反対方向に進んで。
意味もなく会社の周りをぐるっと1周してみる。
すると私の視界の端に、一際明るい建物が飛び込んできた。
「こんなところにゲームセンターなんてあったんだ」
普段この辺を歩かないので知らなかった。
まだちょっと帰る気分にはなれないし。
せっかくだから少し寄ってみるのもいいかも。
「って、全然人いないじゃん」
中に入ってみてわかったけど。
ここのゲームセンターは結構しょぼい。
おまけにお客さんは私1人みたいだった。
「これでいいや」
特にやりたいゲームとか欲しい景品とかはなかったので、私は適当にクマのぬいぐるみのクレーンゲームをすることにした。
お金を入れていい感じにレバーを倒す。
一度はぬいぐるみを持ち上げたりするけど。
アームが弱過ぎて結局最後はポロっと落っこちてしまう。
「こんなの取れる訳ないじゃん」
一度はそう思ったけど。
なんか悔しいのでもう一回。
すると当然、さっきと同じ感じで失敗する。
「ぐぬぬ……もう一回!」
4回、5回、6回。
何度も何度も挑戦したけど。
クマのぬいぐるみは一向に取れる気配がない。
それどころか持ち上がりすらもしなくなった。
こんなのただのお金の無駄遣いでしかないじゃん。
「次でラストにしよう……」
でもやっぱり悔しい。
絶対取れないのはわかっていたけど。
気づけば私は追加の百円玉を入れてしまっていた。
「へい彼女。もしかして1人〜?」
諦めようかなと思ったその時。
私の背後から知らない男の声がした。
とりあえずで振り返ってみると。
案の定私の知らない男が3人ほどいた。
「何か用ですか」
「いやさ、1人で何やってんのかなぁ〜って思って」
「何って、普通にゲームですけど」
見ればわかるだろ。
と、思わず言いそうになったけど。
流石に男3人相手に悪態をつく勇気はなかった。
「ここのゲームつまんないっしょ」
「まあ全然取れないですけど」
「でしょ〜⁉︎」
馴れ馴れしく会話を続ける1人の男。
私が話しているその隙に、なぜか他の2人が少しずつ距離を詰めてくる。そして気づけば私は、その男たちに包囲されてしまっていた。
このグイグイ来る感じからしておそらくは……。
「そんなつまんないゲームやってないで俺たちと遊ぼうよ」
ほらね、やっぱり。
これはめんどくさいナンパ。
今までの経験で何となくわかる。
「そういうのいいんで」
「固いこと言わないでさ〜、いいでしょ〜?」
こういう時は無視が一番。
真に受けたらそれこそ相手の思う壺だから。
「帰ります」
醜い男たちの隙間を縫って。
私は気にせず帰ろうとした。
でも——。
「遊ぼうって言ってるじゃん」
「ちょ、ちょっと触らないでよ……!」
男は私の腕を掴んできたのだ。
過去に何度かナンパの経験はあるけど。
こうして無理やり腕を掴まれるのは初めてだった。
「離してってば……!」
「よく見ると君めちゃくちゃ可愛いね! 何歳?」
「そんなの教える訳ないでしょ⁉︎」
「冷たいこと言わないでさ〜、教えてよ〜」
「いやっ……!!!!」
私を見て不吉な笑みを浮かべる男たち。
身体を舐め回すようなその視線が心底気持ち悪かった。
怖い。
咄嗟にそう感じた。
今までは適当に
こいつらは今までナンパしてきた男たちとは違う。
「俺たち楽しい場所知ってるからさ。今から一緒に行こうよ」
このままだと私は連れて行かれる。
こいつらの目を見たら一発でわかった。
ホントは助けを呼びたかったけど。
こういう時に限って周りに人は誰もいない。
それに恐怖のせいで、思うように声が出せなかった。
「金なら俺らが出すから、ねっ!」
「そ、そういう問題じゃ——」
「その代わり君にはお世話になるけど」
「…………⁉︎」
ニタニタと不吉に微笑む男たち。
やがて私は彼らに無理やり腕を引かれた。
今から連れて行かれる場所。
それを想像すると頭の中が不安で溢れかえる。
——その代わり君にはお世話になるけど。
そして男が吐いたあの言葉。
意味を考えると無性に吐き気がしてきた。
私は絶対にこんな男となんてしたくない。
こんな欲にまみれた男となんて絶対……。
……誰か助けて。
「うちの後輩に何か用ですか」
人気のない道に差し掛かったその時。
私の後ろから不意に声が聞こえてきた。
でも今度は聞き覚えのある声だ。
「あぁん? 誰だてめぇ」
乱暴なこいつらとは違う。
とても堅実で熱のある優しい声。
私を”後輩”と呼ぶのはきっとあの人しかない。
「……センパイ?」
その声に微かな希望を抱き。
私は恐る恐る後ろを振り返った。
すると——。
「大丈夫か藍葉」
私を気遣ってくれるその人。
彼のことを間違えるはずがない。
「センパイ!! 助けてください!!」
無意識のうちにそう叫んでいた。
さっきまでは上手く声を出せなかったのに。
センパイの顔を見た瞬間、私は確かな安心感を覚えたんだ。
「この人たちが無理やり連れて行こうとするんです!」
「無理やり? てことはこの人たちは知らない人なのか」
「1ミリも知りません! さっきナンパされて捕まったんです!」
「そうか。わかった」
するとセンパイはおもむろにケータイを取り出し。
「これ以上何かあるようなら警察呼びますよ」
躊躇なく男たちを脅してみせたのだ。
てっきり内気な人だと思っていたから。
こんなにも迷いがない姿には正直驚いた。
「ちっ、行くぞお前ら」
センパイが警察という単語を出した瞬間。
男たちは舌打ちをしてどこかへ去っていった。
私はようやく掴んでいた腕を解放され。
気づけばセンパイの腕にしがみついてしまっていた。
「大丈夫か」
「身体に力が入らなくて……」
「ならしばらくそうしてろ」
足が震えているのが自分でもわかる。
不本意ではあったけど。
センパイの腕を離すことできなかった。
「……すみません」
「気にしなくていい」
私らしくないのはわかってる。
ホントならこんな姿見せたくはない。
でもセンパイが側にいてくれる。
それだけで私は心から安心できた。
「とりあえず、落ち着くまでどこかで休もう」
* * *
センパイに連れられやって来たカフェ。
明るい店内にいると、少し気持ちが落ち着いた。
「ほら、コーヒー」
「あ、ありがとうございます」
私が座って待っていると。
センパイは温かいコーヒーを買って来てくれた。
「少しは落ち着いたか」
「はい、さっきよりは」
「そうか」
一体何があったのか。
どうしてあんなことになったのか。
センパイだってホントは知りたいはずなのに。
「何も聞かないんですか」
「お前が話したいなら話せばいい」
センパイは迷わずそう言ってくれた。
きっと私のことを気遣ってくれているんだと思う。
でも助けてもらった身で黙ってはいられない。
私は今日あったことを全てセンパイに話すことにした。
考え事をしていたせいで仕事が疎かになったこと。
それを不服に思い寄り道してあの男たちに捕まったこと。
思い返すと、私のしていることはまるで子供みたいだった。
「バカみたいですよね。散々迷惑かけて」
子供扱いされたくない。
ずっとそう思ってきたけど。
これじゃ大人と見られなくても仕方ない。
仕事でも迷惑をかけて。
それ以外でも迷惑をかけて。
いつもセンパイに助けてもらってる。
もしあの時センパイが来なかったら。
きっと私はあの男たちに犯されていたと思う。
「一つ聞きたいんですけど」
「なんだ」
「センパイは怖くはなかったんですか」
連れて行かれる私を見つけた時。
センパイはどう思ったのだろうか。
ナンパして来た男たちはかなりの強面だった。
なのにセンパイは躊躇なく私を助ける選択をしてくれた。
「多分ヤンキーですよねさっきの」
「そうだな。少なくとも一般人ではないな」
「そんな人を相手にしてセンパイは怖くなかったんですか」
気になった私が尋ねると。
センパイはコーヒーを一口飲んでこう言った。
「そんなの怖いに決まってるだろ」
意外だった。
嘘でも怖くないと言うと思っていた。
「じゃあなんで私を助けに……」
「何でって、後輩を助けるのに理由がいるのか?」
「えっ……」
まるで助けたのが当たり前のように。
センパイの言葉からは一切の迷いを感じなかった。
「困っている後輩を放っておく上司は普通いない」
「そういうものなんですか」
「ああ、そういうものだ」
センパイなりのプライドなんだと思う。
正直私には全てを理解することはできない。
でもこれだけは思う。
そうやって当たり前のように他人を助けられる人はそういない。他の誰でもなくセンパイだったから、迷わず私を助けてくれたんだ。
「ふふっ」
「なんだ。何かおかしかったか」
「何でもないですよ〜。でも」
なぜ自分がセンパイを意識していたのか。
なぜ瀬川さんとの関係を邪魔したくなったのか。
それが今、何となくだけどわかった気がする。
「センパイはお人好しですね」
こんな私と本気で向き合ってくれる。
人を助けるのが当たり前だと言える。
そういう人だからこそ、私は意識してしまう。
自分の中で欠かせない存在。
いつしかセンパイは私の特別になっていた。
それに気づいた今。
心に抱えていたモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。
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