第47話 それぞれの思い ④ (麗子視点)

 頭から離れない藍葉さんの言葉。

 出張から帰って丸1日経った今でも、ずっとあの日のことを考えてる。


 ——私多分、先輩のことが好きですよ。


 あの言葉を聞いた時の頭が真っ白になる感覚。そして夕食の時に起きたあの悲劇。


 胸にぽっかりと穴が空いてしまったような。そんな虚しい感覚からずっと抜け出せないでいる。


 あの日のことを思い出しては落ち込み。

 思い出しては落ち込み……それの繰り返し。


 今日は日曜日だけど。

 こんなに休日が長く感じられたのは久しぶりだった。


 2日経ってわかった。

 多分家にいると余計に考えてしまう。暇であればあるほど、どうしても気持ちが落ち込んでしまう。


「出かけよ」


 特に行く宛てもないけど、このまま家にいるよりはずっとマシだと思う。


 そう思った私は手早く私服に着替えて、財布とケータイをバッグに詰めて家を出た。


 電車に揺られて、できるだけ人の多い場所へ。

 誘われるようにして私が降りたのは、あの時の街だった。


 保坂くんに過去を打ち明けたこの路地裏。

 あの時の私は、藍葉さんとのことで誤解しちゃったっけ。


 懐かしい。


 あれからもう少しで2ヶ月。

 長いようで凄くあっという間だった気がする。


 思い出に浸りながら、私はただぶらりと街を歩く。


 すると。


 視界の隅にオシャレな喫茶店が目に入った。


(コーヒーでも飲もう)


 ただ街を歩いているだけじゃ味気ない。

 そう思った私は、その喫茶店に入ってみた。


 お客さんはちらほら。

 私は窓側の一番角の席に腰を下ろす。


 とりあえずコーヒーを注文して、それを飲みながらただじっと窓の外を眺めていた。


 歩いている人をぼーっと目で追ってみる。

 そんなことをしているうちにふと思った。


 私は一体何をしているんだろうって。どうしてあの時、藍葉さんの問いに答えられなかったんだろうって。


 忘れようとしたはずの思いがふつふつと蒸し返してきて、考えれば考えるほど、自分に嫌気がさしてくる。


 保坂くんは私の彼氏。

 だから藍葉さんには絶対に渡したくない。


 心ではそう思ってたはずなのに、なぜ私は言葉にしなかったんだろう。私がもっとはっきりしてれば、こんなことにもならなかったのに。


「はぁ……」


 思わず溜息がこぼれる。


 藍葉さんを怒らせちゃったのも。

 保坂くんと気まずくなっちゃったのも。

 きっと全部、私の心の弱さが原因なんだ。


「本当だめね……私」


 誤魔化すように飲んだコーヒー。

 その苦味がなぜか少し虚しくも感じられた。







「あれ? 麗子?」


 私が1人落ち込んでいると。

 不意に男性に声をかけられた。


 その声につられ、そちらを向くと……。


「やっぱり麗子だ」


つかさくん……どうして……」


 あろうことか。

 そこにいたのは……5年前に別れたはずの『元彼』だった。






 * * *






「久しぶり。元気にしてた?」


 まだ信じられない。

 こんなところで彼と再会するなんて。


「麗子、昔と全然変わってないね」


 あの時のことがあるはずなのに。

 なんでそんなにも平気な顔で話せるの。


 彼の顔を見たその瞬間、私の奥底に押し殺していたはずの記憶、そして悍ましいほどの憎悪が一気に蘇ってくる。


「い、今更何よ」


 自分でもわかるほど声が震えていた。

 コーヒーを持つ手も小刻みにずっと震えてる。


 それを隠すように両手をテーブルの下へ。

 不吉なほど笑顔な彼に睨みつけるような視線を送る。


「そんなに怖い顔しないでよ。たまたま見つけて声かけてみただけだからさ」


 心底不思議だった。

 なぜこの人はこんなにもあっけらかんとしていられるのか。私はこんなにも、あなたの声で怯えているのに。


「ちょうどよかった。一緒に話しでもしようよ」


「わ、私はあなたと話すことなんてないわ」


「ははっ、そうだよね。でも少しだけだから」


 そう言うと、司くんは何食わぬ顔で私の迎えの席に。


「コーヒー一つ」


 更には飲み物まで注文した。


 一体この人は何を考えているのか。

 私の心はずっと怯え身構えていた。


「ほんと久しぶりだよね。5年ぶりくらい?」


 普通に会話を始めた司くん。

 今のところ彼に悪意などは感じられない。


「え、ええ。そうね」


「最近どう? 麗子のことだから相変わらず仕事頑張ってるのかな」


「まあそれなりに頑張ってはいるけど」


「そっか。本当に凄いな君は」


「凄いとか……別にそんなことないわよ」


 感心しているのか。

 それとも適当に言っているだけなのか。

 でも目の前の司くんの表情はとても穏やかだ。


 一つ一つの言葉にも嫌悪感がない。

 5年前のあの時のことは許せないけど。

 それでも彼との会話は、とても朗らかに感じた。







 コーヒーを飲みながら。

 思い出話を中心に彼と会話する。


 やがて司くんは不意に申し訳なさそうな顔を浮かべ、思い返すように言った。


「あの時はほんとごめん。僕、最低だったよね」


「えっ?」


 あの時というのは多分5年前。

 司くんの浮気現場を目撃した時のことだと思う。


「僕もまだ若かったからさ。麗子にはたくさん迷惑かけちゃった」


「ごめんて……今更謝られても困るだけよ」


 この人が負い目を感じているとは思わなかった。てっきり私はあの時のことなんて忘れられてるって……。


「そうだよね。でも僕はずっと君に謝りたかったんだ」


「謝りたかったって……」


 正直戸惑ったけど。

 司くんの表情はとても真剣だ。


 謝罪なんて今更欲しくないけど。

 謝りたいという気持ちはどうやら本当みたい。


「その後はどう。いい人見つけられた?」


「え、ええ。一応今はお付き合いしている人はいるけど」


「そっかー。僕は結局あの子とも別れて今は1人だよ。まあ、君を捨てたんだから当然の報いだけど」


「あ、あの人と別れたんだ」


「うん。3年前にね」


 随分と前に別れたらしい。

 てっきりこの人は、あの浮気相手と結婚するかと思ってたけど。


「でもよかったよ。君が幸せでいてくれて」


「何よそれ……」


「きっと今の彼氏は、僕なんかよりもずっと素敵な人なんだろうね」


 小さく微笑んだ司くんは、続けてこう言った。


「安心した」







 その曇りのない、真っ直ぐな笑み。

 そして司くんが言った優しい言葉。

 それを目の当たりにして私の心は奇しくも揺れた。


「やめて……」


「えっ?」


「あなたからそんな言葉は聞きたくない」


 5年前、私はこの人に捨てられた。

 そのせいでずっと辛い思いをしてきたのに。


 なのになんであなたは、そんな優しい顔ができるの。まるであの時のことがなかったみたいに、なんで平静でいられるの。


「私はもうあなたのことは忘れたの。だからやめて」


 優しくしてくれるのに酷いとは思った。

 でもこうしないと、私の心が迷っちゃいそうで。本当に大切な人を忘れてしまいそうで怖かった。


「そうだよね。君が僕を許せない気持ちはわかるよ」


 激昂するようなこともなく。

 司くんはあくまで落ち着いた口調で続けた。


「それでも生きてたら大変なことはあるだろうからさ。何かあったら気軽に僕を頼ってよ。せめて相談聞くくらいはしてあげたいからさ」


 凄く意外だった。

 てっきりこの人のことだから、怒って捨て台詞の一つでも残して、すぐにどこかへ言ってしまうかと思ったのに。


 司くんはとても真摯だった。

 私の目線で優しい言葉をかけてくれた。

 まるで昔の優しかった頃のように——。


「あなたはそれでいいの」


「もちろん。君のためなら全力で応援するよ」


 私のために応援してくれる。

 その言葉が本当なのかはわからないけど。


 でもどうしてだろう。

 彼の言葉を信じてみてもいい気がする。


「それじゃ僕はこの辺で」


 その後少しだけ話をして、店を出た私たちはその場で別れた。


 ここ数日胸につかえていたやるせない気持ち。司くんと話してから、それが少しだけ和らいだような、そんな気がした。

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