第10話 藍葉才加
「センパ〜イ!」
出社して間もなく。
背後から聞き覚えのある甲高い声が飛んできた。
「お久しぶりです! センパイ!」
「おお藍葉。そういや昨日出張から帰ってきたんだっけ」
「そうですよ〜! それはもう疲れましたよ〜」
「その割には随分と元気そうだけどな」
こいつの名は
今年うちの会社に入社したばかりの新人社員だ。
歳は23で俺の3つ下の学年。
身体が華奢で小さい割には、いつもテンションが高い。
うちの部署では、妹のように扱われてる姿をよく見かける。
若いだけあって、特におじさんたちからの人気が高く。
その可愛らしいルックスの虜となった男性社員は数多い。
瀬川さんに次いで、うちの部署の看板娘的存在だと言えよう。
そんな藍葉は、先週から初出張に出かけており。
約1週間の業務を終えて、昨日こっちに戻ったらしい。
「センパイ、私出張頑張ったんで何かご褒美くださ〜い」
「働いたぶん給料出るだろ。それで我慢しろ」
「えぇぇ〜」
顔をむすっとさせる藍葉。
高級焼肉食べたいとか、回らない寿司が食いたいだとか。
俺のお財布事情も知らずに、好き放題駄々をこねやがる。
「はぁ……わかったわかった」
「えっ⁉︎ 高級焼肉連れてってくれるんですか⁉︎」
「高級じゃない肉なら食わせてやる」
「ホントですか⁉︎ やったぁぁぁぁ!!」
俺が焼肉を奢ると言った瞬間。
藍葉のテンションは更に上限を突き抜けた。
こいつは本当にわかりやすい奴だと改めて思う。
そういえば俺も初出張終わりは、肩の荷が降りる感じがした。
あの時は瀬川さんに、美味い飯をご馳走してもらったっけ。
(あれからもう3年か。懐かしいな)
俺は今年、藍葉の指導係を任されている。
そのせいで普段は厳しく接することが多いのだが。
たまには後輩を甘やかす時があってもいいのかもしれない。
「それじゃセンパイ、今日行きましょ!」
「今日って……お前疲れてんじゃねぇのかよ」
「ついさっき取れました! 善は急げですよ!」
「そうは言ってもだな……」
このように藍葉は俺相手だと、かなりグイグイくる。
先輩ではあるが、正直俺の方が立場が下な気がしてならない。
「センパイ今日は何か用事でもあるんですか?」
「別に用事があるってわけじゃないんだが」
「ならいいじゃないですか! 行きましょうよ焼肉!」
「んんー……」
今のところ、これと言って用事があるわけじゃない。
用事があるわけじゃないのだが、一つだけ問題点が。
俺は昨日、瀬川さんを怒らせてしまっている。
仲直りはしたが、今日会社に来てからまだ一度も話せてはいない。
そんな状況で藍葉と焼肉なんか行って、本当に大丈夫なのだろうか。
「んんんんー……」
俺が頭を悩ませていると。
ブー。
マナーモードにしていた俺のケータイが鳴った。
開いてみるとそこには、瀬川さんからのメッセージが。
『連れて行ってあげなさい』
その内容は、今まさに俺が欲していた答えだった。
何事かと思い瀬川さんのデスクの方に目を向ければ。
彼女はPCの裏から、じっと俺たちの様子を眺めていたのだ。
(聞かれてたのか……)
油断していたから流石に肝を冷やした。
一体いつから俺たちの会話を聞いていたんだ。
ブー。
すると。
再び俺のケータイがメッセージを着信した。
『その代わり今日のお昼は待ってるから』
「瀬川さん……!!」
それはとても安心できる内容だった。
てっきり怒られるのかと思っていたから。
いつもの瀬川さんらしい優しい文章で、少しホッとした。
『駅前の喫茶店はどうですか?』
俺はすぐさまそう返し。
瀬川さんからの返信を待った。
(どうやら機嫌治ってるみたいだな)
一時はどうなることかと思ったが。
とりあえず瀬川さんの機嫌が直ったようで本当に良かった。
とはいえ。
これ以上社内食堂に行って、目立つわけにもいかない。
故に俺は瀬川さんに、駅前の喫茶店に行くことを提案した。
『わかった。楽しみにしてる』
「よっし」
その返事を見て思わず声が漏れる。
昨日は瀬川さんをがっかりさせてしまったから。
今日こそは2人で、美味しいコーヒーでも飲もう。
「センパイ、聞いてますー?」
「おお、悪い。で、何だっけ」
「何だっけじゃないですよ。焼肉です、や、き、に、く!」
「ああ、そうだったな。そしたら今日の仕事終わりにでも行くか」
「言いましたね! 約束ですからね!」
「ああ、わかってる」
そうして焼肉に連れて行くことを約束をすると。
藍葉は子供のようにわかりやすくはしゃいでいた。
「焼肉くらいではしゃぎ過ぎだろ」
「だって焼肉ですよ! じゅ〜じゅ〜するんですよ! 人のお金で美味しいお肉が食べられるなんて、もう最高じゃないですか〜!」
「お前……そういうのは裏で言え裏で」
相変わらずの生意気さにため息が漏れる。
もう少し俺を先輩らしく扱ってもらいたいものだが。
いつしか藍葉は、俺に対してこんな調子になっていた。
(ちょっと甘やかし過ぎなのかもな)
しかしまあ、何とか事が収まったようで良かった。
これで俺も心置きなく今日の仕事に集中ができる。
「ういっすー」
「おお堀。うっす」
するとここで堀が出社してきた。
堀にしては珍しく、始業時間ギリギリの出社だ。
「お、才加ちゃん久しぶり!」
「あ、どうも。お久しぶりです」
「お前がこの時間に来るなんて珍しいな」
「ちょっと電車に乗り遅れちゃってなー。そう言えば才加ちゃん、初めての出張お疲れ様。ウエイトレスなんて大変だったでしょー!」
「いや、別に普通ですけど」
「そ、そう? それなら良かったんだけど」
堀はいつも通りのテンションなのだが……。
なんだろう。
堀が来た瞬間、明らかに藍葉が静かになった気がする。
先ほどまではあれだけ焼肉ではしゃいでいたのに、今はまるで世界の終焉を目の当たりにしたかのような、恐ろしく暗い顔をしているように見える。
いつもは甲高くて活気のある声のはずだが。
今は生気をほとんど感じない、トーンが低く無愛想な声だった。
「それじゃセンパイ。今日はよろしくで〜す」
「お、おう」
そう言ってそそくさと自分のデスクに戻る藍葉。
「俺、あの子に何かしたっけ……?」
と、堀は苦笑いを浮かべながら聞いて来たが。
あいにく俺には「わからない」と言うことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます