第9話 蒸返し

 一緒に昼食を食べることになった俺たち。

 しかし時間的には外出して食べる余裕はないので、今回は仕方なく、1階の社内食堂を利用することにした。


 うちの会社の社内食堂は、かなり広く席数も多い。

 その上メニューは日替わりで、値段も安い上にそこそこ美味いので、おそらく社員の半数以上は、この社内食堂で昼食を済ませていると思われる。


「お、今日のAセットのメインは味噌ラーメンか」


 基本のメニューは2種類のセット料理。

 今日のAセットは、味噌ラーメンチャーハンセット600円。

 そしてBセットが、味噌汁と漬物がついた生姜焼き定食580円。


 どちらもご飯のおかわりが自由な上。

 Bセットに関しては、なんと味噌汁も飲み放題。

 量が多いという人の為、単品での提供もしている。


 言わばコストパフォーマンスの鬼。

 貧乏社会人に優しい、実に素晴らしい食堂だ。


「俺、Aセットにしますね」


「それじゃ、私は味噌ラーメンを単品で」

 

 まず券売機でそれぞれの食券を買い。

 入り口までずらっと伸びた列の最後尾に並んだ。


 久しぶりにこの食堂に来た気がするが。

 やはりここの利用者は、男性社員がほとんどのようだ。


 女性の利用者もいないことはないが。

 食堂の端の方でひっそりと食べてる姿がよく目立つ。

 これだけの男に囲まれていたら、さぞ息苦しかろう。


「瀬川さんって普段あまり食堂来ないですよね」


「そうね。最近は購買で買うことが多いかしら」


「なんかすみません。いきなり誘っちゃって……」


「気にしないでいいのよ。私、ここのラーメン結構好きだから」


「そうなんですか。それは意外ですね」


 ラーメンを好きとはよくわかっておられる。

 以前はよくここを利用していたのだろうか。


「それよりも保坂くん。この間はごめんね」


「えっ……? それはどういう……」


「私、あなたに迷惑をかけてしまったから」


 この間というのは、あの時のことだろう。

 瀬川さんと初めて喧嘩してしまったあの日。

 確かに俺は彼女から普通じゃないものを感じてしまった。


「ずっと謝ろうと思ってたのだけど、なかなか言い出せなくて……。あの時の私は心に余裕がなくて、周りを見ることができなくなっていたの。そのせいで保坂くんにはとても悪いことをしてしまったわ。本当にごめんなさい」


「い、いや、俺の方こそ。もっと瀬川さんの気持ちを理解してあげられてたら、あんなことにはならなかったのに」


 瀬川さんはメンヘラだと。

 この人と付き合っていくのは大変なことだと。

 俺は自分の観点から、勝手にそう決めつけてしまっていた。


 でも——。


「ううん、あなたは悪くないの。悪いのは全部私だから」


 瀬川さんはこうして素直に謝罪してくれた。

 自分のせいであなたに迷惑をかけてしまったと。

 彼女もまたあの日のことを気にかけてくれていたのだ。


 落ち込んでいるその姿を見て思う。

 今までの俺は大きな勘違いしていたのだと。


 あの日のことを悩んでいたのは自分だけだって。

 きっと瀬川さんは気にもしていないのだろうって。

 そうやって被害者面をして自分を正当化していただけだった。


 だから俺は、関係のない堀に助言を求めた。

 瀬川さんの本当の気持ちを知ろうともせずに。

 俺だけが他の誰かに助けを求めてしまったのだ。


 そんなの卑怯者以外の何者でもないじゃないか。


 共感して欲しさに人を頼り。

 瀬川さんをメンヘラだと勝手に決めつけて。

 自分こそが普通で正しいと思い込んでいたのだから。


「本当、ダメですね俺は」


「保坂くん……?」


 自分が情けなくて仕方がない。

 瀬川さんには申し訳ない思いでいっぱいだ。


 でも。


 それ以上に俺は心底安心できた。

 瀬川さんがちゃんと俺のことを考えていてくれたから。

 メンヘラなんかじゃなく、思いやりのある優しい女性だったから。


「俺、もっと頑張りますね」


「と、突然どうしたの?」


「いえ、何でもないです」


 だから俺は再度誓った。

 この人のことをちゃんと幸せにしようって。

 もう今回みたいなことで、瀬川さんを疑うのは辞めにする。


(堀には勘違いさせちまったな)


 あいつにも少なからず迷惑をかけた。

 きっとまだ瀬川さんをメンヘラだと思ってるだろうし。

 その誤解は早いうちに訂正しておいたほうが良さそうだ。


「Aセットおまち〜」


 そんな話をしているうちに。

 気づけば俺たちは列の先頭にいた。


 食堂のおばちゃんからAセットを受け取り。

 瀬川さんのラーメンが出来上がった後、テーブルへと向かう。


「それじゃ行きましょう」


「そうね。私、お腹空いちゃった」


「俺もだいぶキテます。久しぶりの食堂飯楽しみっす」


 そうして俺たちの喧嘩は、本当の意味で収束し。

 瀬川さんに対する誤解も解け、俺たちの絆は更に深まった。





 と、思っていた。


「堀がテーブル取ってくれてるんで」


「えっ」


 俺が堀の名前を口にするその時までは。




 * * *




 堀の名前を出した瞬間。

 あれほど機嫌の良かった瀬川さんから笑顔が失われた。


「2人で食べるって話じゃ」


「え、あ、いや、その……」


 美しくも恐ろしいその顔を見て思い出す。

 そういえば堀のことを伝えるのを忘れていたと。


「堀くんも誘っていたのね」


「……さ、さすがに2人で食べるのはまずいかなと(噂にもなるし)」


「ふーん。そうだったの」


 瀬川さんの声には覇気がない。

 まるで雪女の冷たい吐息のようだった。


 これはおそらく……いや間違いない。

 どうやら俺は、地雷を踏み抜いてしまったらしい。

 瀬川さんは今、確実に激おこぷんぷん丸だ。


「ラーメンが伸びるのでとりあえず行きましょう……」


 そう言って何とか誤魔化そうとしたが。

 瀬川さんの機嫌は一向に良くなる気配はなし。

 その上食堂内のどこを探しても堀の姿はなかった。


(あいつ……逃げやがった……)


 勘のいいあいつのことだ。

 不穏な空気に気づいて逃げたのだろう。


「ふ、2人ですね……」


「………………………」


 結局2人になった俺たち。

 できるだけ話を弾ませようとするも。

 先ほどとは明らかに空気の重みが違った。


 息をするだけで喉が焼けるような。

 まるで地獄にでも足を踏み入れたような、そんな気分だ。


(味しねぇ……)


 せっかくの味噌ラーメンは無味。

 俺と瀬川さんは終始無言の葬式状態。

 その上周りからの怪訝な視線に当てられ、俺のメンタルはズタボロだった。


(まあ俺が悪いんですけどね……)


 結局瀬川さんは最後の最後まで機嫌を直すことはなく、『保坂が何かとんでもないことをやらかした』という噂が部署内全域に広まるのは、そう時間のかかることではなかった。

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