第52話 メンヘラ彼女の治し方
店の外に立ち尽くす俺と麗子さん。
俯いている彼女との間に自然と沈黙が生まれる。
「とりあえず服着ましょうか」
「……う、うん」
俺たちは無理やり店から追い出された。
故に今の麗子さんは、上着を肩に羽織っている状態だった。
普段なら胸が高鳴るようなこのシュチュエーションも、今この時だけは、俺たちを気まずくする余計な要素でしかない。
俺が壁となり、その間に麗子さんは手早く上着を着直した。
「少し歩きましょう。ここは空気が悪いです」
そしてひとまず駅の方へと歩き出す。
不意に時計を見ると、午後11時を過ぎていた。
この時間ともなると、歩いている人はほとんどいない。昼間は活気のあるこの街だが、今はとても静かで儚げだった。
「ごめんなさい」
不意に麗子さんはそう呟く。
その横顔を見ると、今にも泣き出しそうだった。
「なんで麗子さんが謝るんですか」
「だって私、あなたがいるのにあの人と……」
言葉にするのも辛い。
それほどまでに自分の行いを悔いているのだと思う。
でもそれは俺とて同じこと。
彼氏なのに何もできなかった。
それがどれだけ情けないことなのか。
落ち込む彼女を前にすると、嫌でも理解させられる。
「俺の方こそごめんなさい。麗子さんが落ち込んでたのに何もできませんでした」
あんなクズ男を頼ってしまうほど追い込まれていた。もっと早くそれに気づいてあげられていたら、こんなことにもならなかったのに……。
……いや、俺は気づいていたはずなんだ。でもたった一歩踏み出す勇気がなかった。それは麗子さんに対して、十分に酷いことをしたと言える。
「だから今回のはお互い様ということで」
「そうはいかないわよ。だって私は……」
「もういいんですよ」
「よくないわ!」
麗子さんは語尾を強めた。
「私はあの人の浮気で自信を無くしてしまったのに、自分がされて嫌なことを今度は保坂くんにもしてしまった。あなたのことを傷つけてしまいそうになったのよ?」
「確かに麗子さんを見つけたときは驚きました。頭が真っ白になって、一瞬現実かどうかもわからなくなるくらい、俺にとってあの光景は不快だった。でも……」
でも、あの時の麗子さんの顔は鮮明に覚えてる。
悲しげな瞳から溢れるあの涙。
希望から絶望の色に変わる表情。
俺はそんな彼女を前にしてわかったんだ。
「あなたの泣いている姿を見て俺は思ったんです。俺はそこまで麗子さんを悲しませてしまったんだ……追い込んでしまったんだって」
出張最後の晩。
あの時の俺が何もできなかったから。だからこうして麗子さんを追い込んでしまった。俺がしっかりしていれば、あんな男に捕まらずに済んだはずなのに。
「本当はもっと早く俺が一歩踏み出さなきゃいけなかったんです。それができない弱い自分だからこそ、麗子さんを傷つけてしまった」
「そんなことないわよ。それを言うなら私も……」
「いえ、麗子さんは何も悪くないですよ。そもそも俺がはっきりしないのが悪かったんです。あの時俺を好きだと言った藍葉に、正直な答えを出せてたら」
俺はまだまだ人として、男として未熟だ。
女性との付き合い方というものをまるでわかっていない。
あの場面で自分の彼氏が他の女性から好きだと言われて、俺のようにすぐに否定しなかったら、そりゃ誰だって不安にもなるだろう。
特に麗子さんは繊細な人だ。
尚更俺が何かしらのアクションを起こすべきだった。でも未熟な俺には、どちらかを選ぶなんて、その場の判断では無理だった。
麗子さんと藍葉。どちらかは必ず傷つけてしまうあの選択。それに迷って、俺は答えを出すことを拒んでしまったんだ。
「でも、今はもう迷いません」
そうだ。
俺はもう迷わない。
「ずっと答えは決まってるんで」
「答え……?」
「俺が好きなのは麗子さん、あなただけです」
「それってつまり……」
「はい。藍葉にはハッキリと断りを入れて来ました。きっとあいつもこうなるってわかってたと思います」
俺はあくまで当然のことを言ったのだけど。
意外に思ったのか、なぜか麗子さんは目を丸くした。
「もしかして、捨てられるとか思いました?」
「え、ええ。てっきり私は嫌われたのかと……」
「そんなわけないです。俺の彼女は麗子さんだけですから」
俺の言葉に嘘偽りはない。
好きなのは麗子さんただ1人だけ。
他の誰でもなく、麗子さんだからいいんだ。
俺は今まで、麗子さんが負った傷を治してあげたい。塞いであげたいって思い続けて、今日まで彼女と付き合ってきた。
メンヘラ彼女の治し方は何か。
そればかりを考え、本当の意味で彼女に寄り添えていなかったのかもしれない。
でも今回のことでそれが間違いだとわかった。
俺は麗子さんの傷を治すのではなく、その傷を共に背負っていく彼氏にならなきゃいけなかった。彼女にとっての信頼できる居場所でなくてはならなかった。
「ゆっくりでいいです。俺はいつまででもあなたの側にいますから」
ずっと側にいてあげたい。
その確かな思いを胸にそっと彼女を抱きしめる。
彼女の柔らかな温もりを感じ、今日まで抱えていた心のモヤモヤが、少しずつ晴れていくような気がした。
俺はもうこの人を悲しませない。
どんなに辛い時でも隣にいれる強い男になる。
俺の胸で涙を零す彼女を見て固く心に誓った。
「えっとそれで、あの……」
「ん?」
「き、キスとか……もしあれなら」
思いつきで俺がそう呟くと。
麗子さんはキョトンとした顔で俺を見上げる。
(う、うぅ……なんか恥ずいな)
自分で言っておいて何だが、そんなに直視されると対応に困る。本当はもっと俺からガツガツ行けたらいいんだろうけど……俺にそんな男らしさは——
「……っっ!!」
唇にとても柔らかな感触が。
目を見開いても視界が真っ暗で何も見えない。
一体何が起こっているのか。
この甘くてとろけそうな感覚は何だ⁉︎
それを完全に理解するまでに数秒を要した。
「れ、麗子さん今……」
「うん、これが私の気持ち」
「き、気持ちって……き、キスしましたよね⁉︎」
あまりにも唐突過ぎて思考が定まらない。
今のって普通俺からする流れじゃ……⁉︎
てんやわんやしていると、麗子さんは眉間にしわを寄せた。
「もうっ、私のキスじゃ不満なわけ⁉︎」
「そ、そんなことないですけど……」
「じゃあ、嬉しい?」
薄っすらと頬を染め、上目遣いで聞いてくる。
そんな破壊力抜群の可愛い彼女を前にしたらもう。
「はい。超嬉しいっす」
「そっか。なら良かった」
俺の口角は、上がりきったまま戻らなかった。
* * *
翌週。
新たな気持ちで出勤した俺。
「はっ⁉︎」
いつも通りマイデスクに向かおうとすると。先に出社していた藍葉が視界に入り、思わず目を見開いた。
「お、お前……どうしたんだよその髪」
「どうしたって、染めたんですよ黒に」
あれほど若者ウケが良さそうな見た目だった藍葉は、見違えるような真面目美人に変わっていたのだ。
茶色だった髪は黒、そして垂れた髪は後ろで一つ結びという、なんとも社会人の模範的な髪型になっていた。
「何があってそんな見た目に……」
ここでふと俺の脳裏に一つの心当たりが浮かぶ。
「も、もしかしてだけど……俺のせい?」
「は、全然違いますけど。勘違いしないでください」
恐る恐る聞いたらめっちゃ睨まれた。
藍葉はこう言ってるけど、多分そうだよな。
それ以外の理由、全然思いつかないし。
でも目が怖過ぎるので、これ以上触れるのはやめておこう。
「それよりセンパイ。出張の資料まとめておくんで、後でチェックお願いします」
「資料? お前がか?」
「はい。だって必要ですよね」
「それはまあ、誰かしらはやらないとだけど」
「だったら私やっときます。センパイは適当に他の仕事しといてください」
「お、おう。わかった」
らしくないセリフを吐いたかと思えば。目が点になる俺に構わず、スタスタと瀬川さんの元へと向かってしまった。
「この間はすみませんでした」
そして藍葉は、深々と頭を下げる。
真面目な見た目も相まって、その姿は随分と様になっていた。
「い、いいのよ。気にしないで」
「いえ、ちょっと生意気過ぎました。反省します」
誠意は本物みたいだが、そりゃ当然麗子さんは戸惑う。あれだけ敵対視されていた藍葉に頭を下げられたのだから。あたふたするのも理解できる。
でも。
「よかった、本当」
2人のやりとりを見て、安心した自分がいた。
一度はギクシャクしてしまった俺たちの関係も、こうして無事元通り……いや、前以上の太くて丈夫な関係にすることができた気がする。
これは俺にとって一番望んでいた結末で。
きっとそれは、みんなも同じなんだと思う。
「ういっす、保坂ー」
「おお、堀。うっす」
「お、ちゃんとみんな仲直りできたみたいだな」
「ああ、おかげさまでな」
「そりゃよかったよかった」
麗子さん、藍葉、そして堀。
誰も欠けることなく、戻ってきたこの日常。
他愛もないこの関係は、きっといつまでも続くのだろう。
——おわり——
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