第51話 元彼

「……がう……違うの……」


 声にもならない囁きが麗子さんから漏れる。

 それによって俺は、ハッと意識を取り戻した。


 冷静になると尚、押し寄せてくる衝撃。

 受け入れがたい現実を前に呼吸すらもままならない。いっそ逃げ出してやろうかと、弱気な自分がどんどん浮き彫りになっていく。


「どうしてこんなこと……」


 やがて俺が絞り出すように吐いたその言葉で、すがるようだった麗子さんの瞳が、絶望の色に染まったのがわかった。


 その瞬間、俺の中での意識が変わる。


 これはきっと浮気がバレてまずいとか、どう言い訳しようかとか、そういう類の表情じゃない。


 まるで何かを諦めてしまったかのような。

 大切なものを失ってしまったかのような。

 そんな悲しい、居た堪れない表情だった。


 依然として俺の視界には、下着姿の麗子さんと見知らぬ男。冷静さを欠いたせいで浮気にも思われたこの現場だが、泣いている彼女を見ればわかる気がする。


「この人、麗子さん知り合いですか」


 俺の質問に、無言でコクコクと頷く麗子さん。


「以前からこういう関係なんですか」


 続けて涙ながらに必死に首を横に振る。

 

「強要されてるんですね」


 そして最後は、ゆっくりと頷いて見せた。





 この男に強要されている。

 つまりこれは浮気じゃない。

 これで見限るには、あまりにも麗子さんが可哀想に映った。


「わかりました。あなたを信じます」


 都合が良いのかもしれない。

 でもそう考えた方が断然納得がいった。


 俺は怖気付いていた気持ちを叩き起こし。

 麗子さんに纏わりつく見知らぬ男を引き剥がした。


「ちょ、ちょ、いきなり入ってきて何、お前」


「あなたこそ、俺の彼女に何してるんですか」


 怒りを抑え、俺はあくまで冷静なまま言った。

 するとなぜか男は嘲笑うような笑みを浮かべる。


「あ〜なに? もしかして君が噂の彼氏くん?」


「そうですが」


「いや〜、まいったねこりゃ」


 ニヘラと笑い、態とらしく頭を掻く男。

 悪びれる素振りもないその態度に、俺の怒りは募るばかり。


「そういうあなたは一体何なんです」


 だから俺は尋ねた。

 あんたは一体誰なんだと。


「あぁ僕? 僕はねぇ——」







 あろうことか。

 予想だにしなかった答えが男から飛び出した。


「麗子の元カレだけど」


「元カレ……⁉︎」


 まさかだった。

 てっきりただのナンパだと思っていた。

 でもこの男は自分を”元カレ”だと言ったのだ。


「それって本当かよ」


「本当だよ。麗子にも聞いてみれば?」


 余裕ありげなその口調。

 あっけらかんとしたその態度からして多分嘘じゃない。


「……お前が麗子さんを捨てたのか」


 元彼と知って不意に思い出す。

 麗子さんを変えたあの5年前の話。結婚を約束した麗子さんを裏切り、浮気をしたというクズ男のことを。


「お前が麗子さんを傷つけたのか!」


 気づけば俺は怒鳴っていた。

 ふつふつと湧き上がってくる怒りに任せて。


「やだなぁ〜、いきなり怒り出すじゃん」


 憤る俺を前にしても尚、男はへらへらとした口調で言う。


「俺が5年前に何してようが、君には関係ないでしょ」


「関係ないわけないだろ。お前に捨てられた麗子さんがどれだけ悲しんで、どれだけ傷ついたのか、お前はわかってるのか⁉︎」


「いるいるこういう奴。他人の過去に必要以上に口を出してくる部外者」


「部外者だと⁉︎」


「だってそうでしょう? それとも君は僕が麗子と付き合っていた5年前から麗子の彼氏だったのかな? そうなると君も浮気してたことになるけど」


 確かに俺は5年前の麗子さんを知らない。

 実際何があって、この男がどんなことをしたのか。それによって、麗子さんがどんな思いをしたのか。


 話は聞いて大体は知っているつもりだった。

 でも俺はあくまで第三者にしかなれない。

 この男に部外者だと言われる理由も少しわかる。


 でも——。


「だからって人を傷つけて良い理由にはならないだろ」


 綺麗事を言っているのはわかる。

 この男にとってウザい存在である自覚もある。


 それでも俺は言ってやりたかった。


 この男と付き合っていた5年前。

 きっと麗子さんはこいつを信じていた。

 信じていたからこそ結婚の約束までした。


 なのにその信用を簡単に裏切って、麗子さんにトラウマを植え付けたこの男が許せない。彼女を心から愛している故に、どうしても見過ごさなかった。


「それでまた浮気紛いのことをして恥ずかしくないのか?」


 男からの返事はない。

 俺の顔をじーっと見て、口をつぐんでいる。


「なんとか言ったらどうなんだ」


 俺が威圧的にそう言うと。


「……プッッ」


 やがて。

 男は前振りもなく思いっきり吹き出した。


「あはははっっ!! もしかして説教のつもりかな?」


「なんだと」


「君の彼女を寝取ろうとしたのは謝るけど、それは君がこの一週間、麗子の側にいてあげなかったからだよ?」


「お前、何言って……」


「君の言う通り、5年前に僕が麗子にしたことは酷いかもしれないけど、そんな酷いことをした元カレを頼っちゃうくらい麗子は悩んでたんだよ? それを彼氏である君は知っていたのかな?」


 知っていた。もちろん知っていたが……それでもこの1週間、俺は彼女の力になることはできなかった。


「だから代わりに僕が麗子の側にいてあげたんだ。相談料として一回くらいやらせてもらっても僕は悪くないと思うけどな〜」


 ふざけるな!

 と、言ってやりたかった。


 でも。

 こいつの言っていることは、間違いとは言えない。


 麗子さんが悩んでいて、過去に自分を裏切った男を頼るほどに落ち込んでいたのだとしたら、こうなってしまったのは、他の誰でもなく俺の責任だ。


 こいつの代わりに俺が側に居てあげられれば。

 そう思うと怒りの中に僅かな罪悪感が浮かんだ。


 しかしだ……。


「それで更に傷つけたら元も子もないだろ」


「君はほんと、頭の中お花畑だね。僕にとって今更麗子がどうなろうと知ったことじゃないよ。むしろ元カノと久々に会ったら、一発くらいやるのが普通でしょ?」


「それ本気で言ってるのか」


「もちろん。現に僕はそうしてるしね」


 俺の責任だとしても、こいつだけは許せなかった。麗子さんのことを自分の欲をぶつける道具のようにしか思っていないこの男が。腹わたが煮え繰り返るほど腹立たしく思えた。


 結局この男にとっての麗子さんは、その程度の価値でしかない。まるで5年前彼女を襲った悲劇が、目の前で繰り返されているような気がして、心底胸糞悪かった。


「いい加減にしろよ……」


 だからこそ俺は引かなかった。

 人の心をもてあそぶこの男が許せなかったから。


「お前がそうやって麗子さんの純粋な気持ちを踏みにじってきたから、彼女は今も傷ついているんだぞ。確かに俺はこの1週間、麗子さんの側にはいてあげられなかった。でもお前は違うだろ。昔捨てた女とはいえ、一度は時間を共有した知り合いだろ。知り合いが自分を頼ってきてるんだ。それなのにお前はなぜ、彼女を更に傷つけるような真似をするんだ」


 綺麗事なのはわかっている。

 人任せが嫌いだと言いつつ、これは完全なる人任せ。ましてや5年前に付き合っていた男にする話じゃない。


 でも辛い過去に目を瞑り、自分を頼ってくれる人が目の前にいるなら、真剣に向き合ってあげるのが人としての優しさじゃないのか。


「誰かが頼ってきたなら、それに答えてやるのが筋じゃないのか。なぜお前は彼女の傷を抉ろうとする。正義感の強い彼女がこれでさらに傷つくことはわかってだだろ」


「わかってたら何。僕はただ麗子と一発やろうとしてだけ。ごちゃごちゃと御託を並べてたみたいだけどさ、僕にとっての女なんてそんなもんなんだよね。まあ、君みたいな頭のお堅い真面目くんにはわからないかもだけど」


 男は「はぁ」と大きめのため息をこぼす。

 そして呆れた表情のまま、おもむろに席を立った。


「あ〜あ。もう萎えた。誰かこの2人つまみ出しといてよ」


 何やら指示を出したかと思えば。

 俺はすぐ横にいた従業員に腕を掴まれた。


(もしかしてこの店、こいつの……?)


 じゃなかったら従業員が従うはずがない。こいつは自分の店に麗子さんを連れ込んで、襲おうとしていたのだ。


「クソ野郎……」


 不意に俺が吐いた一言が届いていたのか。男は不気味なほどの笑みを浮かべ、連れ出される俺たちを眺めていた。


「2度と来ないでね〜」


「お前も2度と麗子さんに手出そうとするんじゃねぇぞ」


「はいはい。もう手は出さないよ。君みたいなめんどくさいやつに絡まれるのは嫌だからね」


 ひらひらと手を振り、店の中に消えていく男。

 俺はあいつの戯けたような顔を一生忘れないだろう。

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