第41話 出張 ⑤ (麗子視点)

 夕食まで少し時間が空いた。

 できれば今のうちに汗を流しておきたい。


「あら? 藍葉さん?」


 私が温泉に入ろうとしたら。

 湯船の中に藍葉さんらしき人影が見えた。


 近づいてみると。

 やっぱりそれは藍葉さんだった。


「藍葉さんも来てたのね」


「え、あ、どうも」


 話しかけてみると。

 何だかその口調はぎこちない。


 湯気でハッキリとは見えなかったけど、私とわかった瞬間、藍葉さんの表情が少し曇った気がした。


(やはり嫌われているのかしら)


 以前からそんな雰囲気は感じてた。

 私のことをよく思ってないんだろうなって。

 何となくだけど自覚はしていたつもり。


 今回の出張は泊まる部屋が同じで、藍葉さんと一緒に過ごす時間も多かったように思う。


 でも彼女とは仕事以外の話をした記憶はほとんどない。


 藍葉さんが保坂くんにだけ見せるあの表情。

 心を開いているとわかる態度を私には向けてくれない。


 それを考えると、複雑な感情になるのは毎度のことだった。


「ご一緒してもいいかしら」


「別にいいですけど」


 目を合わせてはもらえないけど、だからと言って温泉に浸からず戻るわけにもいかない。


 藍葉さんには悪いと思いながらも、私は少し離れた場所に腰を下ろした。


「はぁぁ……気持ちいい」


 ここの温泉はやっぱりたまらない。

 肩まで浸かると思わず声が漏れてしまった。


 周りを見たところ、私たち以外に人はいない。

 藍葉さんとも特に会話はないので、お湯の流れる音だけが聞こえるこの時間は、とても静かでゆっくりに感じられた。


 きっと藍葉さんはすぐに温泉から出て行ってしまう。


 そう思ったけど、私がいても湯船から出ようとする気配はなかった。


 気を遣わせていたら申し訳ない。

 私は罪悪感からできるだけ自然に声をかけてみることにした。


「今日は随分と歩いたわね」


「そうですね」


「足とか腰とか痛くはない?」


「いえ、別に」


「そう」


 でもやっぱり返事は少し冷たい。

 静かにしておこうかとも思ったけど。

 もう少しだけ懲りずに話しかけてみる。


「藍葉さんは若くていいわね」


「別に瀬川さんも私と変わりませんよ」


「そんなことないわよ。もう30間近のおばさんだもの」


 これでも一応は自虐のつもり。

 笑ってもらえたらよかったけど。

 藍葉さんの表情はピクリとも動かなかった。


(やっぱり私迷惑よね)


 知らなかったとはいえ、きっと私はただの邪魔者。

 胸の奥から申し訳ないという気持ちが溢れて来る。


「ごめんなさいね。私がいると落ち着かないでしょ」


「別にそんなことないですけど」


「え、そうなの?」


「はい、特に気にしませんよ」


「な、ならよかったわ」


 てっきりうざがられてると思ってたけど。

 意外にも藍葉さんは平気な顔をしてくれていた。


(ひょっとして優しい子なのかしら?)


 そう思って微笑みかけてみると。

 藍葉さんは露骨に私から目を背けてしまった。


「まだちょっと嫌われてるわね」


 今はまだ少し距離を感じてしまうけど。いつかは保坂くんみたいに藍葉さんとも話せたら嬉しい。


 そう思いながら、私たちは静かな時間を過ごした。




 * * *




「あの、瀬川さん」


 私がじっと空を見上げていると。

 不意に藍葉さんに声をかけられた。


「何かしら」


「一つ聞いてもいいですか」


「ええ、何なりと」


「センパイのどこが好きなんですか?」


「ふぇえ⁉︎」


 思わず素っ頓狂な声が漏れた。


 何を聞かれるのかと思えば。

 まさかまさかの保坂くんのことだった。


「い、いきなりどうしたの?」


「ちょっと気になったんで」


「そ、そう」


 戸惑う私とは裏腹に平気な顔の藍葉さん。

 そう言えばこの子は、こないだの二次会でもこんな感じだった。


 普通なら躊躇うような質問を迷いなくして来る子。

 そういうイメージを持ったのを私は今でも覚えてる。


「真面目で誰にでも優しいところかしら」


 だからと言って怖気付く必要はない。

 私が保坂くんを好きな気持ちは本物だから。


「あとは何かないんですか」


「んー、そうね。人に寄り添うことができるところ、とか」


「人に寄り添う、ですか」


「ええ、私はそれが彼の魅力なのだと思うわ」


 私が思う保坂くんの魅力。

 それを打ち明けると、藍葉さんは難しそうな顔で口を詰むんだ。


 今の質問で改めて思い返してみたけど。

 やっぱり彼はすごく素敵な人だと思う。


 瞳はどこまでもまっすぐで。

 誰にでも公平に接することができる優しさがある。


 劣っているからといって蔑むわけでもなく。

 逆に優秀だからといって妬むわけでもない。


 相手の考え、そして人間性を何よりも尊重し。

 自分よりも他人を一番に思いやることができる人。


 当たり前のことを当たり前だと言える。

 そんな人だからこそ私は好きになったんだ。


「他にもたくさんあるけど、今はこのくらいにしておくわね」


 本当はもっとたくさん自慢したいことはある。

 でもこれ以上私の思いを打ち明けるのは少し恥ずかしいし、まだまだ若い藍葉さんに自分の価値観を押し付けているような気がして、自然とブレーキがかかった。


「逆に藍葉さんはどうかしら?」


「えっ」


「保坂くんはあなたにとって良い先輩?」


 私も質問されたことだし。

 この機会に思い切って聞いてみよう。

 つい流れで私は聞いてしまったのだけど。


(いきなりこんなことを聞くのはまずかったかしら……)


 藍葉さんは露骨に眉間にしわを寄せ「えっ」と一言。

 そのまま何を言うわけでもなく黙り込んでしまった。

 もしかしたら癪に障ったのかもしれない。


「ご、ごめんなさい。彼にあなたの指導係を任せたのは私だから、上司として彼の印象とか少し気になってしまって」


「ああはい。別に謝らなくてもいいですけど」


「お、怒ってない?」


「別に怒ってないです。でもそうですね〜印象ですか〜」


 幸い平静な藍葉さんは顎に手を置くと。

「ん〜」としばらく悩んだ末、こんなことを言った。


「怒られた時はムカつきますけど、奢ってくれるんで都合よくはありますね」


 すごくリアクションに困る内容だった。

 都合がいいというのは、つまりそう言う意味なのかな。


「よ、よく2人はご飯に行くものね」


「まあ最近はそんなこともありましたね」


「藍葉さんくらい可愛い後輩がいたら、きっと男性としては奢りたくもなるのよ」


「そうですかね。あんだけ都合いい人間センパイだけな気がしますけど」


「そ、そんなことないわよ〜」


 あははっ、と笑ってみたけど。

 思った以上に藍葉さんはガツガツした人みたい。


 自分の先輩のことを都合がいいだなんて。

 保坂くんの前でもいつもこんな感じなのかな。


「藍葉さんは保坂くんを慕っているのね」


「そこまでじゃないですけど。話しやすくはあります」


 そう言って少し照れる彼女。

 その表情を見ればよくわかる。


 きっと藍葉さんは保坂くんを慕っているんだと。

 彼が絡む時だけこの子の素が表に出る気がする。


「仲良くやれているようなら私としても良かったわ」


 思いついたまま私は言った。

 仲が良いことに越したことはないと思ったから。


「これからも2人仲良くね」


 多分これが私の本心。

 だから何も嫌なことはなかった。


 いくら藍葉さんが保坂くんと親しくても。

 藍葉さんのために保坂くんが優しくしても。

 私にとって嫌なことは何もない……。


 ……何もないはずだった。




 * * *




「それ本気で言ってるんですか」


「えっ?」


 なぜか腑に落ちない不快感。

 藍葉さんの言葉でそれが確かなものだと証明される。


「これからも仲良くって、今瀬川さん言いましたよね」


「え、ええ」


「それは本心で言ってるんですか」


「も、もちろんそうよ」


「そうですか。わかりました」


 すると藍葉さんは不意に立ち上がる。

 そして何かを見据えたような表情で……。


「多分私、センパイのこと好きですよ」


 思いもしなかった。

 私が一番恐れていたことを口にした。







「あ、藍葉さんそれって……」


「もちろん異性としてです」


 異性として好き。

 真っ白な私の頭の中にその言葉の意味が浮かぶ。


 人としてではなく。先輩としてでもなく。

 彼女は1人の男性として保坂くんのことが好き。


「なんで今私にそんなことを……」


 気づけば私から声にもならない言葉が出ていた。


 それを聞いて一体何になる。

 わからないけど、私の焦りがその言葉を生んだ。


 そして——。


 去り際に彼女が言った一言。

 その意味を私はずっと誰もいない湯船の中で考え続けた。


「私は瀬川さんみたいに臆病ではないので」

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