第49話 バー (麗子視点)

 司くんのバーはとても雰囲気がよかった。


 内装はオシャレで落ち着いていて、完全個室なので周りのお客さんを気にする必要もない。


 彼の好意でオススメのお酒をサービスしてもらったけど、普通の居酒屋で飲むようなお酒とは味も質も大違いで、思わずゴクゴクと飲み進めてしまった。


「最近ずっと落ち込んでるみたいだけど。何かあった?」


 しばらくして。

 司くんは神妙な顔で私にそう尋ねてきた。


 私も誰かに相談したいところだけど、元彼にこんな話をするのはどうなのだろう。


(本当にこの人を信用してもいいのかな)


 一瞬躊躇いなんかもあったけど。

 お店の落ち着いた雰囲気。そして美味しいお酒。酔っているのか、私は思わず悩みを打ち明けてしまった。


「ちょっと今、彼氏と上手くいってなくて」


「そうなんだ。相手は会社の人?」


「うん、会社の後輩。とても真面目な子なの」


「そっかー。それは色々と大変そうだね。僕でよければ話だけでも聞くよ?」


 初めはちょっと話を聞いてもらうだけのつもりだった。


 でも司くんは思ってた以上に話を聞くのが上手で、いつしか私は世間話の要領で、彼に全てを話してしまっていた。


 出張先で起きたあの日の出来事。

 保坂くんが別な女性に好意を抱かれていること。そしてしばらくの間、彼とまともに話せていないこと。


 少し話し過ぎかもとは思った。

 でも司くんは親身になって私の話を聞いてくれた。


 めんどくさい私の力になってくれる。

 私の目線になって的確なアドバイスをくれる。

 司くんと話している時間だけは、辛いことを忘れられた。


 こんな私のことを気にかけてもらえる。

 それだけで私は救われてるような気にさえなって。やがて私は彼との雑談を心の底から楽しいと思っていた。






「麗子も辛かったんだね」


 私が全て話し終えた後。

 司くんは神妙な顔つきでそう言った。


「でもごめんね。僕は君に会った時、幸せそうで良かったなんて、知ったようなこと言っちゃった」


 嬉しかった。

 共感してもらえる人がいて。

 わかってもらえる人がいて、とても心強かった。


「君は今、とても傷ついているんだね」


 私を心配してくれる。このどうしようもなく弱い私を、直しようのないこの心の傷を、この人の手は優しく包み込んでくれる。


 それが今の私にとっては何よりもの救いで、疼いていたはずの傷が少しずつ塞がっていくような感覚だった。


「でももう大丈夫」


 そう言って、司くんは席を立つ。

 すると落ち込む私に寄り添うようにすぐ隣に。

 肩を寄せると、不意に私の手を優しく握った。


「君には僕がついてるから」


 とても優しい表情だった。

 傷だらけの私の心に、彼の言葉は染み渡った。


 手を握られたのは驚いたけど。

 でも不思議と振り払おうとはしなかった。






 ブー。


 そんな時、またケータイが鳴った。

 ポケットから取り出し画面を立ち上げると。


『今どこにいますか?』


 また保坂くんからのメッセージ。

 もしかして彼は今、私を探してるのかな。


(でも私は今……)

 

 保坂くんは今、私が司くんといることを知らない。元彼と一緒にいたら、勘違いされたりしないかな。それで私のこと嫌いになったりしないかな。


 嫌、嫌われたくない。


 せっかく司くんに相談に乗ってもらって、やっと落ち込んでいた気持ちが和らいだのに。最後は彼に嫌われて終わりなんて私は絶対に嫌。


 でも勘違いされるようなことをしてる私も悪いんだよね。手を握ってもらったり、優しい言葉をかけてもらったり……。





 ……ちょっとまって。

 もしかして今の私って。


「ダメだよ麗子。今僕が話してるんだから」


「えっ……」


 私が返信しようとすると。

 司くんは私の手から強引にケータイを奪った。


「か、返して欲しいのだけど」


「そうはいかないよ? だって君、今彼氏さんと連絡とってるでしょ?」


「そうだけど。私が彼と連絡とったらまずいの?」


「まずいとかじゃないけど。今は僕との時間だからさ」


 そう言うと司くんは、私のケータイを遠くに置いた。これじゃ手が届かなくて、保坂くんに返信ができない。


「それよりも麗子。あの時の償い、今ここでさせてくれないかな」


「償い?」


「そうだよ。君に渡せなかった愛を今ここで渡したいんだ」


「えっ……」


 不意に司くんは私の背中に腕を回してくる。


「な……何⁉︎」


「いいから。君はじっとしているだけでいいんだ」


「だ、だめよ。私には保坂くんが……!」


「君はその彼に一度だって抱かれたことはあるかい?」


「……っっ!!」


 何も言い返せなかった。


 確かに私たちはまだ、そういうことをしていない。でもそれは保坂くんが真面目で、ちょっぴり奥手な人だからであって。


 決して私のことを愛していないわけじゃ……。


「きっと彼は、君のことを愛していなかったんだよ」


「そ、そんなこと——!」


「じゃなかったら美しい君を求めない理由がわからない」


 こうも淡々と言われてしまうと、言い返すにも言葉がない。


 そんなの当然信じたくはないけど。でも……言われてみればそうかもしれないと、心の何処かで思ってしまう。


 普通好き同士のカップルなら、そういうことはしたいはずだと思う。私だって保坂くんとならしてもいいと本気で思ってた。


 でも彼は一度も私を求めない。

 手を繋ぐくらいで、キスだってしたことはない。

 そんなの本当にカップルって呼べるのかな。


「愛されてないから求められないんだよ」


 そうかもしれない。

 私は彼にたくさんのことを求めてるのに。

 でも彼は何一つ見返りを求めようとはしない。


「きっと相手にとって君は特別じゃないんだ」


 そうかもしれない。

 私は彼だけが特別で大切なのに。


 きっと彼は今でも私と藍葉さんで心が揺れてる。だから今日だって藍葉さんと食事に行ったんじゃないかな。


「そうじゃないなら、他の女性に言い寄られてもすぐに断るはずでしょ?」


 そうかもしれない。

 私はもう彼に愛されてはいないから。

 だからあの夜、何も言ってくれなかったのかもしれない。


 だからこうして1週間も1人ぼっちになって、凄く辛い思いを……。

 





 考えれば考えるほど、心が張り裂けるように辛かった。そんな悪夢のような事実、本当は信じたくも考えたくもなかった。


 でも。


 今の私の心はどこを見ても傷だらけ。

 そんな状態でこんなことを言われたらもう……いくら信じたくなくても、私の弱さが、司くんの言葉を受け入れてしまっていた。


「だから君が欲しかったもの。この僕が全てあげるからさ」


 そう言って微笑みかける彼。

 気づいた時にはもう……私は上着を着ていなかった。


 下着姿でも尚、私の背中に手を回してくるこの感じ。言わずともその手の行き先には、確信に近い予想がついてしまった。


 このまま私はこの人に……。


 脳裏に渦巻くこの罪悪感。

 それと共に私が事の全てを察した。


 その時——。


 ふと頭の中にあの時の藍葉さんの言葉が蘇る。



 ——私は瀬川さんみたいに臆病ではないので。



 そうだ。私は臆病。すごく臆病。


 だから1週間経った今も何も踏ん切れないままでいる。昔捨てられたはずの人で、どうしようもなく疼く心の傷を少しでも埋めようとしてる。


(私、最低だわ……)


 浮気という私を変えたあの悍ましい出来事。それを今度は私自身が繰り返そうとしてる。私を信じてくれている彼を裏切ろうとしている。


「これ、外してもいいかな」


 複雑に思考が交差する中。

 司くんは落ち着いた口調でそう言った。


 本当は嫌だった。したくはなかった。

 保坂くん以外の人に触れられるなんて、ありえなかった。


 ……でも。


 こんな最低な私じゃもう。

 彼の彼女なんて務まらない。


 藍葉さんの方がきっと。

 優しい彼にふさわしい女性なんだ。


 藍葉さんの方がきっと。

 彼のことを幸せにしてあげられる。





 私をまっすぐに見つめる司くんの瞳。

 その彼の望みに私は……静かに頷いてしまった。


 これでもう、保坂くんの隣にはいられない。

 真面目で優しい彼にはきっと嫌われてしまう。


(ごめん保坂くん……)


 心でいくら謝ってもその声が届くはずもない。


 大好きな彼の顔を思い出すと、私の瞳からは悲しみなのか、諦めなのかもわからない、大粒の涙が溢れ落ちたのだった。








「麗子さん……!」


 不意に頭に響いてくる声。

 その声に私は、恐る恐る閉じていた瞼をあげる。


「麗子さん……!!」


 ガラガラっと勢い良く開いた個室の扉。

 涙で歪んだ視界の中にぼんやりと映る人影。


 私を呼ぶその声は……そこにいるのはまさか……。


「……ほ、保坂くん?」


 そのたった一言、たった数秒の出来事で、微かな火が消えるように、私から正気は消え失せた。


 なぜなら目の前には、私が裏切ってしまった。もう隣にいられないはずの彼が、息を切らし立ち尽くしていたのだから。

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