第30話 残業 ①

 とある平日。


「藍葉。頼んでた宣伝資料は今どんな感じだ」


 いつも通りPCと向き合っていた俺だったが、藍葉に任せていたはずの資料が一向に上がってこないのを不審に思い、藍葉のデスクを訪れていた。


「ああ〜、あれですね。実はまだちょっと手こずってて〜」


「その後の処理とか色々あるんだ。遅くても昼までには頼むぞ」


「わかってますよ〜」


 お気楽そうな藍葉に念を押し。

 俺は深いため息と共にマイデスクへと戻った。


「才加ちゃん仕事遅れてるのか?」


「ああ。この間の出張の資料まだ上がってきてないんだよ」


「そいつは随分と大変そうだな」


「そう言うお前は気楽そうで良いな」


「まあうちの部下は優秀だからなー」


 堀は余裕げに笑っているが。

 俺としてはお世辞にも余裕と言える状況じゃなかった。


 藍葉から資料が上がってこないということは、次に控えている俺の仕事も全く進行しないということ。


 本当なら昼までに全て済ませるつもりだったが、どうやらこの調子だと、終わるのは定時ギリギリになりそうだ。


「気長に待ちますか」





 そうは言ったものの。

 1時間経っても2時間経っても藍葉からの連絡がない。


「あいつちゃんとやってるんだろうな」


「そんな気になるなら確認してきたらいいだろ」


「はぁ……仕方ない行くか」


 昼間近かになった頃。

 流石の俺もしびれを切らし重い腰を上げた。

 そして先ほど同様、藍葉に進捗を確認しに行く。


「なあ藍葉。資料まだかよ」


「資料?」


「昼までにってさっき言ったろ」


「……あっ」


 なぜかハッとした表情を浮かべる藍葉。

 この反応はもしや。


「まさかお前、忘れてたとか言わないよな」


「すっかり忘れてました……」


「はぁぁぁぁ⁉︎⁉︎」


 いくら待っても上がってこないと思っていたら。

 藍葉は資料のことをすっかり忘れていたらしいのだ。


「じゃあ今まで何してたんだよ……!」


「すみません。ぼーっとしてました」


「ぼーっとって……」


 呆れ過ぎて言葉も出ない。

 あれだけ口うるさく言っていたはずなのに。

 どうやったら仕事を放ってぼーっとできるんだ。


「俺ちゃんと昼までにって伝えたよな⁉︎」


「すみません……話聞いてませんでした」


「お前さっきわかりましたって言ったろ?」


「た、多分……」


「お前なぁ……」


 思わず溜息がこぼれる。

 問題児だとは思っていたがまさかここまでとは。

 指導係である俺の教え方が悪いのだろうか。


「どんくらい進んでるんだ」


「まだ半分くらいだと思います」


「半分か……そうなると昼までには無理だな」


「ホントすみません……」


 暗い表情で俯く藍葉。

 今回ばかりは流石に反省しているらしい。

 こいつがこんな顔をしているところを初めて見た。


「今日中には仕上げられるか」


「それならいけると思いますけど」


「なら今日中だ。今日中には必ず仕上げろよ」


「えっ……」


 俺が新たな期限を設けると。

 なぜか藍葉は拍子抜けしたような顔になる。


「何だよ。どうかしたのか」


「い、いやぁ〜。てっきりもっと怒られるものだと思ってたので」


「それでお前が真面目になるなら喜んでそうするが?」


「真面目なんてそんな〜。私には到底無理ですよ〜」


「だったらこれ以上怒ってもお互い気分が悪いだけだろ」


 どうやら怒られなかったのが意外だったらしい。


 確かに普段の俺ならもっと叱っているのかもしれないが、今回は初出張明けの普段とは違う仕事ということで、戸惑った部分も多かったと思う。


 それに以前、俺は藍葉に助けられた。

 あの助言がなかったらデートは成功しなかったかもしれない。だから今回ばかりは大目に見て、今後の彼女に期待することにした。


「今回だけだ。わかったら今度は遅れんな」


「は〜い」


 すっかり調子を戻した藍葉を信じ。

 俺はマイデスクへと戻ろうとした。


「あ、そういえばセンパイ。初デートは上手くいきました〜?」


 その時。

 おちょくった感じで藍葉はそう尋ねて来た。


「お揃いの物買えたんですかね〜」


「べ、別に何でもいいだろ」


「え〜、気になるじゃないですか〜」


「んん……」


 正直少し照れ臭くはあったが。

 助言を求めた身として報告するのが筋なのだろう。


「おかげさまでな」


「ふーん、そうですか。それは良かったですね」


 なぜか不機嫌そうな藍葉を尻目に、俺は再び踵を返した。


 デスクに戻ってすぐ隣の堀に「才加ちゃん甘やかすなんて意外だな」と言われたが、初めての仕事で必要以上に怒られるのは、藍葉的にも酷というものだろう。


 それに藍葉が優秀なのは知っている。

 なら必要以上に言わなくとも最低限度に怒ればいい。

 出る杭を打つような真似は、俺とてしたくはないのだ。


「まあこれで俺の残業は確定したんですけどね」


「ははっ、ドンマイ」




 * * *




「まだ帰らないんですか」


 俺が血眼ちまなこでPCを睨んでいると。

 帰り際であろう藍葉に声をかけられた。


「ああ。まだ資料の見直しが残ってるからな」


「それって多分私が提出したやつですよね」


「まあな。流石に定時には終わらなかったわ」


 藍葉が資料をあげてきたのは午後3時頃。

 そこから俺は超特急で残りの作業を片付けようとはしたものの、当然2時間程度では終わるわけもなく、定時を過ぎた今もこうして仕事に没頭しているわけだ。


「気にせず先帰っていいぞ」


「なんか……すいません」


「別にいい。俺もすぐ上がる」


 後ろに立たれても気が散るだけだ。

 なら気にせずさっさと帰ってもらった方がいい。


「ほら帰った帰った」


 手で追い払うようにすると。

 藍葉は申し訳なさそうな顔で帰って行った。


 ついでに周りを見渡してみると。

 残って仕事をしているのはどうやら俺だけのよう。


 堀も彼女どうこう言ってすぐ帰ったし。

 麗子さんも今日は私用で忙しいらしい。


「なんか新鮮だな」


 これだけ静かなオフィスは久しぶりだ。

 昔はよく1人で残業した時もあったが。

 最近は残った仕事は家に持ち帰るようにしていた。


 しかし今回はできればこの場で仕上げたい。

 もし家に持ち帰って明日忘れたりでもしたら、納期に間に合わなくなるので、それだけは避けたかった。


「っしゃ。あと少し頑張りますかー」


 グッと上に背伸びをして。

 俺は再びキーボードに手を置いた。




 * * *




 午後6時半過ぎ。

 ようやく俺は全ての仕事を終え会社を出た。


 やり忘れた仕事は無し。

 5回も見直したので資料も完璧だろう。

 あとは明日、俺が部長に提出して一件落着だ。


「何とかなって本当に良かった……」


 最寄り駅まで向かう途中。 

 俺は独り言と共に安堵の息を漏らした。


 これで大きな仕事はあらかた片付いたし。

 今日は家に帰って良いお酒でも開けるとしよう。


「……ん?」


 俺が1人達成感に浸っていたその時。

 視界の隅に藍葉らしき女性の姿が映った。

 だがその周りには見覚えのないが男3人。


「友達か?」


 手を引かれてどこかに向かっている様子だが。

 嫌がる藍葉を無理やり引っ張っているようにも見える。


「行ってみるか」


 何だか嫌な予感がした。

 俺は事情も知らぬままその後をつけ。

 藍葉を囲うその男たちに一言言った。


「うちの後輩に何か用ですか」

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