第32話

 目を開くと、眉根を下げた今にも泣きそうな顔が目に飛び込んできた。黒い瞳が潤んでいて、目尻がほんの少しだけ赤い。

「……何で泣いてんの?」

 ふっと笑って、その目尻に指先を滑らせると、驚いたように目を見開かれて、すぐにギュッと強く抱きしめられる。

よう!!」

 半ば叫ぶようなあおいの声に反応して、燁の周りに気配が増えた。

「はいはい、蒼ちょっと邪魔。一旦燁離せ」

 ガシッとしがみついて、燁から離れない蒼を引き剥がしにかかるのはらんだ。

「調子はどう?何か飲める?」

 そう言いながらはるかは、藍の後ろから飲み物を差し出す。蒼の腕から解放され、体を起こした燁は杳からカップを受け取る。ふわりと香る甘い匂い。程よい温かさのそれは、口に含むと少しだけ酸味もあって飲みやすい。

「熱はなさそうだな。吐き気とか怠さとか、そう言うのはどうだ?」

 燁の額に手を当てたり、脈を見たり、下まぶたを下げたりしていた藍が、燁に聞く。

「さっきまで、すげぇ怠かったけどもう大丈夫。疲れてたのかな?」

 『さっきまで』と言う燁に、ともえは苦笑する。

「三日も眠り続けてたら、疲れも取れると思うよ」

 そう、燁は巴が認識しているだけでも三日はね無理続けていた。巴が最後に燁が起きているのを確認したのは、燁以外の火群隊長たちが帰ってくる前日だった。たまたま飲み物を取りキッチンに上がったタイミングで、同じくたまたまキッチンに食べ物を探しにきていた燁と出くわした。そのときはまだそんなに衰弱した様子はなかったので安心して書庫にこもっていたのだけれど……

「何かあった?」

 その『何か』は、巴が知りたいことかもしれない。

「……何か……ってほどじゃないけど……。夢……見た」

 というか、初めて夢渡ゆめわたりを体験した。

「あれ、ずげー疲れるんだな」

 その言葉に夢渡の能力を持つ巴と杳は顔を見合わせる。

 通常、夢渡はその能力を持つ者同士でなければ行うことが難しい。他者の夢へと渡る途中で、『狭間はざま』に落ちかねない。そして、『狭間』に落ちてしまうと、二度と目を覚ますことがないと言われている。

「誰の夢に行ったんだい?」

「ん……」

 寝起きのせいだろうか、少しぼーっとした様子で燁は答える。

こう……がいた……」

「コウ……?それは誰?」

 巴の言葉に、顔を上げて燁は言った。

「煌は……オレの家族だよ」

 ……家族……

 燁に家族がいたなんて……誰も聞いたことのないことだった。もちろん、巴も初めて聞いた。燁の過去は誰も知らない。巴が燁を見つけたとき、燁は何も持たない少年で、町の人たちの手伝いやおつかいをして一人で生計を立てていた。隊長たちは、少なからず幼い頃にできた傷を抱えている。だから、自分から過去を語ることはなかったし、誰かの過去を聞くこともなかった。

「でも、煌……死んじゃったと思ってた……オレのせいで……死んじゃったと思ってた……」

 燁の赤い瞳は、どこか遠くのくうを見ている。

 ……燁のせい……?

 その言葉に、巴は少し違和感を覚える。

 燁は炎軍えんぐんの隊長であることからわかる通り、火のフォースを扱うことに長けている。もちろんその力は、戦闘でも使われることがあるので人を傷つけることもあるだろう。でも、その力で進んで誰かを傷つけるようなことを燁は決して好まない。燁が、自ら進んで誰かを手にかけるとは思えない。

 ……ていうか、火群に来る前って燁いくつだよ……

 藍が火群で燁に出会ったのは、彼がとおになるかならないかの頃だったはずだ。その頃から燁は、人を惹きつける明るさと笑顔を持っていた。でも、その笑顔の影に、自分自身のせいで家族を失った経験があるとは思ってもみなかった。

 旧政府の末期は、多くの民が光を失い、闇の中で心を寄せ合って生きていた。飢饉ききんや災害が起こることも少なくなかったし、争いもあった。そのせいで家族を失う人々も多かった。親を失った子どもたちは、蒼のように孤児院に引き取られたり、地主の家の小間使として使われたりした。そこからも漏れた子どもたちは、かつての燁のように町の大人たちの手伝いをして暮らしていた。

 藍自身は、家族の誰かを失った経験は覚えている限りではまだない。父は藍が生まれてすぐに亡くなったと聞いているが、覚えていない。きっと、ここにいる誰よりも恵まれた環境で育ってきたに違いない。それでも、自分自身のせいで家族の誰かを失ってしまうとしたら……

 きっと、自分を一生許せない……

 他の家族は、藍のことを許してくれるだろう。『仕方ない』『本意ではなかったのだから』と声をかけてくれるかもしれない。けれど、藍は自分を許すことができないだろう。……燁も、そんなふうに自分を責めていたのだろうか?幼い心と体で、周囲には笑顔を見せながら、一人で自分自身を責めたこともあったかもしれない。

「オレと煌は、『造られた』んだ」


 覚えている限りで燁の一番古い記憶は、窓越しに見た青空だった。大きなはめ殺しの窓から見える空。どこまでもどこまでも続いているように見えたそれを、煌の手を握って二人でいつまでもいつまでも見ていた。夜になると、煌と二人で部屋の隅っこでお互いを抱きしめるようにして眠った。

 広い部屋の中には、燁と煌以外にも同じ年頃の子どもたちがいた。部屋の中にはたくさんのおもちゃもあって、子どもたちはそれを使って自由に遊ぶことができた。けれど、皆どこか目がうつろで、楽しそうに遊んでいても心はここにいないようだった。それが不気味で怖くて、燁と煌は片時も離れることなく一緒にいた。離れてしまうと、何か嫌なことが起きるような予感があった。だからいつも燁と煌は一緒にいた。

 広い部屋には大きな窓の反対側にも窓があって、こちらの窓は、部屋の中を見下ろす形でつけられていた。窓の向こうには、別の部屋があるようだった。毎日毎日、白衣を着た大人たちがその大きな窓から、部屋にいる子どもたちを見下ろして観察していた。その瞳は、ほんの少しの哀れみと、それをかき消すような強く鋭い暗い光を帯びていた。

 次に覚えているのは、ガラスと液体越しに見えた煌の姿だ。

 大きな太い試験管のような機械に入った液体に入れられた。水中だというのに不思議に呼吸ができ、苦しくない。コポコポと小さな音を立てて、膝を抱えてうつらうつらする。時折目を開いて、隣で同じように液体の中で膝を抱える煌を見た。たまに煌と目が合うと、煌は嬉しそうに微笑んだ。白衣を着た大人たちが、自分と煌の前で何やら話し込んでいる。けれど、声は聞こえない。目を閉じると、コポコポという音と闇が広がる。この中にいれば、怖いことは何もない。けれど、煌の手を握ることができないのが寂しい。また煌の隣で、手を握って一緒に笑うことができる日が来るのを願いながら、燁は深い眠りへと落ちていく。

 激しい音と共に、壁が崩れ、天井が落ちる。目線の先には、床に倒れた自分の姿が見えた。煌は、声にならない声を上げている。その声に合わせて、地が震え、空が割れる。煌の白い髪が浮き上がり、まるで生きているかのようにうねうねと動く。

ーー煌!煌!煌!ーー

 燁の声は煌の耳には届かない。

 強い光のあと、燁の意識は闇の中へと落ちていった。


 燁の話を巴を始めとする火群ほむら隊長たちは、真剣な顔で聞いていた。時折、蒼が苦しそうな顔をするのが燁は気になった。

「もう、ずっとずっと前の話だよ」

 あれから随分経って、あの頃の記憶も薄れてきている。今はただ、煌が生きていてくれたことが嬉しい。あの日、自分と同じように、煌は死んでしまったと思っていたから。

「……ちょっと待って。確認していいかしら?」

 はい。と挙手をした杳に燁はコクンと頷く。

「燁は自分が倒れているのを見たって言ったわよね?それってどういうこと?」

 んーー……と少し考える様子見せ、燁は答える。

「多分だけど、オレの体が死んじゃったときに意識だけが煌の中に入っちゃったんだと思う。オレと煌は元々一つだったから」

 元々一つ

 また何だか良くわからない言葉が出てきた……と、藍は少し頭を抱えたくなる。

「オレたちは、ある研究所で実験として造られたんだ。ホントは一人だったんだけど、途中で二つに別れちゃって結果として二人になったから、小さい頃は意識がお互いの体を行き来することもよくあったよ」

 燁いわく、夢渡ゆめわたりに少し似ているかもしれないとのこと。ただ、夢渡は眠っている間限定だけど、燁と煌には関係ないようで比較的自由に行き来できていたとのこと。

「煌の体にいるときのオレの体は、心臓の動きがゆっくりになったり、体温が下がったりして半分死んでるようなものなんだ。だからあんまり長くはできないけど、秘密の話なんかをするときは便利だったんだよね」

 内緒話のために命かけるのはなぁ……

 何と言うか、燁らしくて藍は小さく苦笑を浮かべる。

「……燁の体が死んだってどういうことだ?死んだのならここにいる燁は何なんだ?燁は死んでるのか?」

 吐き出すように蒼が言う。少し顔色が悪いのが心配だ。そんな蒼を元気づけるように燁は笑顔を浮かべる。

「ちゃんと生きてるよ。一回死んだけど、生き返ったんだ」

「……どういうことだ?」

「ここからは僕が説明するね」

 三隊長の頭上に、複数の疑問符が浮かんだところで、巴が声をかけた。

「燁がいた研究施設は、人工的に能力を持った人間を造る研究をしていた施設なんだ。ここで言う能力は、僕たちの知っているフォースはもちろんだけど、もう一つ研究されていた力があったんだ。それが煌の能力だ」

 フォースは、人は誰しも生まれながらに持っている能力だ。扱える力の量には個体差はあるものの、全ての人が等しく持っていると言っても過言ではない。燁のいた研究施設では、扱えるフォースを極限まで大きくするための研究が行われていた。

「……その結果で作られたのがあのオモチャなの?」

「その通り」

 杳の問いに、巴が答える。

「目標は、力の絶対値を上げることだったみたいだけど、どうやらそれは難しいと判断されて、持っている力を無理矢理増幅させる方に切り替えたみたいだね」

 そうして作られた機械もまた、思うようなものではなかったようだ。

「生命力をフォースに変えるなんて荒業、ホントよく思いついたよね」

 まさに、命を削る行為だ。

「じゃあ、燁は?燁のフォースは?」

 蒼の瞳の色から、不安げな色は消えない。

「燁のフォースは、燁が元々持っているものだと思うよ。恐らく父方か母方かどちらかが、強い火のフォースの遺伝子を持っていたんだろうね」

「じゃあ煌って子は?」

 藍の問いに巴が答える。

「煌の力こそ、もう一つの力だよ」

 巴の答えに、燁以外の三人がゴクリと喉を鳴らす。

「もう一つの力の欠片……と言ったほうが正しいかな?」

 巴は確認するように燁の方を見る。

 燁はそれに対して、コクンと頷いて続けた。

「施設の人間たちが作りたかったのは、第六のフォースを操る能力を持つ人間だったんだ」

 第六のフォース……

「煌のフォースはその欠片……時を遡る力だよ」

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