第20話

 着ていたコートを脱いで、ハンガーにかけようとしていると、後ろからしなやかな腕が伸びてきてコートを奪っていく。

「帰ってきて早々接待でごめんなさいね」

 そう言って養母ははは、少し申し訳無さそうに笑みを浮かべる。グレイヘアを結い上げて、華美ではないけれど上質なドレスを身にまとう姿はまさに良いところの奥様だ。

 奪われたコートは、ハンガーに掛けられ軽く洋服ブラシでブラッシングされ、玄関近くのクローゼットへと仕舞われる。

「ありがとうございます」

「いいえ。さぁ、ひとまずお茶にしましょう。サンルームに準備してるわ」

 上品な動きで前を進む養母のあとをあおいも追う。

 広い屋敷は、蒼がこの家に来ると決まったときに建てられたものだという。西方の建築様式を取り入れたもので、広い玄関ホールの奥には上階へと繋がる大階段がある。三人家族には広すぎるような気もするが、養父ちちの仕事を考えるとこのくらいの広さは必要なのかもしれない。

「学校はどう?楽しくしてるの?」

「問題ないです」

 五年前、蒼は養子縁組でこの家にやっていきた。大きな企業を経営する聡明な養父と穏やかで優しい養母。彼らは、身元のはっきりしない蒼を喜んで迎え入れてくれた。

『こんな素敵な子の母親になれるなんて、感激だわ』

 初めて顔を合わせたときに養母は言った。

『これからは、ここが君の家になる。わたしたちが親になる。君は、わたしたちの息子だ。遠慮する必要はないよ』

 養父は、その温かい手で蒼の手をしっかりと握って言った。元々は、艶のある黒髪だったという養父は、ロマンスグレイの髪と優しい黒い瞳をしていて、その瞳の奥に見える強い光を蒼は素直に好きだと思う。

 蒼を引き取りしばらく共に過ごしたあと、養父は蒼に言った。

『学校に入る気はないかい?』

 養父がそれを望むのであれば、と蒼は全寮制の高等学校に通うことになった。


 広い広い敷地の中に、校舎や講堂、図書館や寮がポツポツと点在し、森と言っても差し支えないような木々の先……外界との境には、高い壁がそびえ立っている。毎年、厳しい規則に耐えられず、脱走する生徒が少なからずいると言う。脱走者を防ぐ最後の砦が、この高く白い壁なのだ。高く、白い壁の上には、最新式のレーダーによる監視が行われているともっぱらの噂だ。取り巻きたちが、中途入学の蒼にまことしやかに囁かれる学校の怪談じみた噂を自慢気に語っていく。

「逃げ出すなんて、そんな無様なことができる神経を疑いますよね」

 どうでもいい……

 フンフンと鼻息も荒く言われても、蒼の心は一ミリも動かない。

 上流階級の子息が通うと言う全寮制のこの学園に蒼が入学したのは、今から四年ほど前のこと。初等部からの持ち上がり組がほとんどという学園で、中等部の途中で入学した蒼は、学園内での好奇の的となった。

 が、その容姿と群を抜いて優れた学力、養父の存在で蒼は一気に学園内でも一目置かれる存在となった。でも、生徒たちの尊敬や憧れ、嫉妬や羨望の眼差しも蒼にとっては全く意味をなさない。ここでの蒼に大切なのは、養父母の期待に応えること、つつがなく学園生活を終わらせること。そのためには、余計な煩わしい人間関係を築いている暇はない。

 ……箱の中にいるみたいだ……

 校舎と校舎をつなぐ渡り廊下から、空を見上げて蒼は思う。

 高い壁に囲われたここには、外界の情報はほとんど入ってこない。世間で何が起きているのか、世の中がどのように動いているのか。そんなことを知る方法はないに等しい。学園の生徒たちは、そのことに何の疑問も感じずに生きている。

 木々は、蒼に何かを伝えるように風に揺れてざわめく。

 迷惑はかけられない……

 蒼は小さく息を吐いて、足早に次の授業へと向かった。


 養父母は、蒼の親と言うには少し上の年齢かもしれない。詳しい話は知らないが、屋敷のメイドたちの話を総合すると養母が若い頃に患った病のせいで、子どもができない体になってしまった……とのことのようだった。長年、夫婦二人の生活を続けていたが、何を思ったのか突然どこの馬の骨とも知れない男を息子とすることに決めたとのこと。

 ……どうでもいい

 恩があるのは養父母に対してで、メイドたちにどう思われていようが関係ない。

 実際、どこの馬の骨かは知れないからな……

 幼い頃の記憶は、蒼にはほとんどない。物心がついたときには、貧しい孤児院にいた。あまり口数の多くない蒼は、他の孤児たちにとって格好の餌食だったらしく、さまざまな嫌がらせを受けた。それも、子どもたちの面倒をみていたシスターたちの目を盗んで。

 ただ、記憶ではそれも長くは続かなかったことを覚えている。子どもというのはいつの時代も飽きっぽく、残酷だ。嫌がらせに対して何の反応も示さない蒼への興味は、あっという間に失せてしまったようだった。

 長い廊下の突き当りにある扉を開くと、広いリビングが広がっている。置かれた家具はどれも洗練されていた、ファブリックも上質なものを使っているのがわかる。サンルームはその奥にあった。

 養母ははの管理する温室に隣接していて、入り口を開け放っているので咲き誇る花の香りが届いている。置かれている花瓶に挿されている花も、養母が育てたものなのだろう。

「綺麗な花ですね」

 蒼がそう言うと、養母は嬉しそうに微笑む。

「そうでしょ?あなたが帰ってくるのに間に合って良かったわ。さ、掛けて。今お茶を持ってくるわね」

 そう言って養母は、いつもよりも少しウキウキしたような足取りで、でも上品にキッチンの方へと向かっていった。

 蒼が長椅子に腰を下ろすと、正面の一人掛けのソファに深く座っていた養父ちちが、読んでいた新聞を閉じて蒼に声をかけた。

「おかえり。道中問題はなかったかい?」

「はい。少し汽車が遅れましたが、問題ありません。お陰で、本を一冊読み終わることができました」

「そうか、それは有意義な時間になったね」

 父というよりは、師のようだ

 かつて孤児院から連れ出してくれた人は、自分に生きる術を教えてくれた。養父からはは生き方というか、生き様を教えられている気がする。

 養父とうさんのような人間になりたい

 いつからか、それが蒼の目標になっていた。

 短い人生だが、正直人として正しい道から外れた行為をしたこともあった。それでも、養父ちちのような人になりたい。そのためには、どんな努力も惜しまない。そのために、蒼は今学んでいるのだ。

「さぁさぁ、お待たせ」

 明るい声とともに養母がメイドを引き連れてサンルームに戻ってくる。メイドは、塔のような台に菓子や軽食の乗った皿の置かれた台車を押している。

「今日は西方の作法でお茶をしましょう。アフタヌーンティーと言うそうよ」

 自分の前に置かれたカップには、赤いお茶が注がれ、ふわりと香りが立つ。好みで砂糖やミルク、レモンなどを入れて飲むこのお茶は、以前から養母が好んで飲んでいる。甘いお菓子に良く合うというのが、理由だそうだ。

 温かな光の下で、和やかな時間が過ぎていく。落ち着いた養父の声と明るい養母の笑い声。ポツポツと話す蒼の話を、二人はにこにこと聞いてくれる。

「そうか……楽しくやってるんだね」

 楽しく……というと語弊はあるかもしれないけれど、大きな問題はなく過ごしているので、蒼は素直に頷いておくことにする。

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