第21話

 カチャン……と小さく音を立てて、フォークはあおいの手から滑り落ちる。

「……嘘だろ……」

 招待客たちのテーブルから少し離れた末席に座る蒼の呟きを拾う者はいない。

 華やかなショーの行われているステージ。今日のステージは養父母の知り合いの旅一座が務めていると言う。玉乗りや手品、綱渡りといった見慣れたものからナイフ投げや猛獣の火の輪くぐりなどあまりみることのないものまで様々なショーが行われていた。その最後。大トリとも言える場面で出てきたのは、蒼が見知った顔だった。

 すらりと伸びた手足は、かつて共に過ごしていた頃よりも成長していることを感じさせる。しかし、客席に向けられる楽しそうな笑みや翼があるかのような身のこなしは、蒼がよく知っているものだった。銀色の髪も黒い瞳も蒼にとっては懐かしい。

 軽い足取りでステージに建てられた足場に登り、高い位置に吊られた持ち手に手をかけると、彼女……はるかは勢いをつけて足場を蹴った。

 わーー!!と歓声が響く。音楽に合わせて、杳は右に左にと移動したり、足を引っ掛けて宙吊りになったりする。そして、ふっと持ち手から手を離すと空中に身を躍らせる。きゃーー!という悲鳴とも歓声ともとれる声を浴びながら、杳は宙でくるりと回転して風のようにふわりとステージへと着地するのに合わせて、衣装の裾と美しい銀髪もふわりと広がる。

 杳がにこりと微笑むと観客たちは立ち上がって大きな歓声と拍手を彼女へと送る。その歓声と拍手を受けて、杳は客席への各所へ向けて深くお辞儀をする。……と、一瞬動きを止めた杳は、目を細めると心から嬉しそうに微笑んだ。

 変わらないな……

 軽い身のこなしやその容姿だけでなく、彼女の内面を蒼が知っている杳のままのようだ。遠征から帰ってきたとき、仲間の姿を見つけると杳は目を細めて頬を少し紅潮させて本当に心から嬉しそうに微笑んだ。その笑みを蒼は忘れることはない。

 杳の笑みにつられて蒼が小さく笑むと杳はニコリと笑みを変えて他の観客へと手を振り始めた。

 変わらない……でも、こんなところで会うなんて……

 それは、偶然かはたまた必然か。

 何かを暗示するように、木々がざわりと風に揺れた。


 ショーが終わると会場である庭では、来客たちとの歓談の時間となる。蒼も養父と共に各所へと挨拶をして回る。

「いやーー、こんな素晴らしい息子さんがいらっしゃるなんて。フュード財閥は今後も安泰ですな」

「ありがとうございます。まだまだ学生ですから……息子に継いでもらうまで、わたしもがんばりますよ」

 振りまかれるおべっかに対して、いつものように笑顔と共に養父ちちは言葉を返す。躊躇いもなく「息子」と言われることに、蒼はまだ慣れない。どこかくすぐったさを感じながら、蒼も養父に合わせて微笑む。

「悪いね、疲れただろう。部屋に戻っても大丈夫だよ」

 ひとしきり挨拶を終えたところで、養父は蒼に向かって微笑んだ。会場は盛り上がっており、ステージでショーを行った演者たちも混ざって、まだまだこれから……といった雰囲気だ。

「帰ってきたばかりだし、今日は早めに休んだら?」

 招待客への対応をしていた養母も蒼の側にやってきて微笑む。

 疲れている自覚はない。けれど、二人がそう言うのならもしかしたら疲れが顔に出ているのかも知れない。

「じゃあお言葉に甘えて、部屋に戻ることにします」

「えぇえぇ、そうなさい」

「少し外が賑やかかもしれないけれど、ゆっくり休むんだよ」

 二人に礼をして、蒼は室内へと戻る。大階段を上がり、長い廊下の突き当りに蒼の部屋はある。扉を押し、室内に入ると広い空間が広がる。大きな寝心地の良さそうな天蓋つきのベッドと洋服ダンス、窓の近くには机とクッションの効いた椅子が置かれ、それとは別に長椅子とテーブルのセットもある。部屋の隅には、この休暇に必要な荷物がいくつか積まれていた。

 はぁ……

 蒼は小さく息を吐いて、ジャケットを脱ぐと締めていたネクタイを少し緩めた。

 窓から庭に目をやると、ステージの上ではまた何か催しが始まったようだった。アルコールも入って酔いも回り始めた客の中には、テーブルから離れてステージのすぐ側でかぶりつきで見ている者もいる。そこから少し離れた場所で、どこかの企業の重役だろうか……太鼓腹を抱えた男とロマンスグレイの髪をした年齢の割には背の高い紳士と話す養父の姿が見えた。鋭い光を放つ切れ長の瞳が、その手腕を伺わせる。

コンコン……

「どうぞ」

 小さく響くノックの音に返事を返すと、すぐにドアが開き誰かが入ってくる気配がする。

 蒼は外しかけた袖のカフスを止め直して、入ってきた人物の方へと向き直った。

「蒼くん久しぶりーー」

 明るい声で言いながら、彼女……杳は蒼の前に立った。

 肩先で揃えた銀色の髪と少し吊った黒い瞳。スラリと伸びる手足は、健康的な小麦色をいている。

「杳……」

「『どうしてここに?』って聞かないの?」

 杳は少しいたずらっぽく笑みを浮かべて言う。

「仕事だろ?さっきステージに上がってるところ見てた」

「見てくれたんだ♪嬉しいな〜。どうだった?どうだった?」

 ニコニコと嬉しそうに笑いながら、杳はズンズンと蒼の方に迫ってくる。

「……どうもこうも……杳ならあれくらいできて当然だ」

 迫ってくる杳に気圧されながら蒼は答えた。

 高い位置にあるブランコにぶら下がることくらい杳ならできる。もちろん、隣のブランコに飛び移ることだってできるし、そこから怪我をすることなく着地することももっと高いところへ飛び移ることもできるだろう。……というか、杳でなく蒼もできる。もっと言えば、火群の隊員ならできる。できるように訓練を受けてきた。

「あはは♪蒼くんならそう言うと思ったのーー」

 楽しそうに笑う杳を見て、蒼は肩の力が少し抜けるのを感じる。

 緊張していたつもりはないし、緊張をする必要もない。自宅でのパーティーだ。帰ってきたばかりの蒼を養父母りょうしんも気遣ってくれていた。それでも、少し方に力が入っていたのかもしれない。

 ふっと息を吐いて、蒼は視線を杳へと戻した。

「……で?」

「……で?」

 蒼の言葉を繰り返して、杳は首を傾げる。

「何か用があるからここに来たんだろ?」

 『ここ』が指すのは人気ひとけのない蒼の部屋のことだ。旅一座の仕事でこの家に来たのだろうけれど、この部屋に来たからには何か蒼に言いたいことがあるのだろう。でなければきっと杳は、たとえ旧知の仲の蒼の家に仕事できたとしても、この部屋に上がってくるとは思えない。お互いに連絡先を告げずに別れた。またいつか、皆揃って会えるまで。『そのとき』が来れば、わかる。『そのとき』でないならば、どこかで見かけても決して話しかけることはしない。そういう線引をきちんとできるのが杳だ。

「……そうね」

 杳の返事はどこか歯切れが悪い。

「……巴か?」

 蒼の声に杳はぴくっと肩を震わせる。

 かつて蒼のいた火群のリーダーである巴と杳は、メンバーの中でも珍しい『夢渡ゆめわたり』をすることができる。特別な能力を持つ集団である火群の中でもさらに特殊な能力で、それは持って生まれた才能の為せる技だという。

「蒼くんは……今、幸せ?」

 絞り出すような声音で、少し困ったように眉を寄せて、どこか不安そうに瞳を揺らしながら杳は問う。

 『幸せか』と聞かれると、蒼はいつも返答に困ってしまう。火群を離れたのが十二にの頃。ほとんど着の身着のままのよな状態だった自分を引き取ってくれたのが養父母りょうしんだった。養父母の家に来ることができ、二人に愛され、学校に通わせてもらっているのは蒼にとって幸運なことだろう。

 でも、蒼には『幸せ』が何なのかがわからない。楽しいとか嬉しいとかそういう感情を感じることはできる。ただ、『幸せか』と問われると、どこか心の奥底にぽっかりと空いた穴に冷たい風が吹き込むような思いに駆られる。何かが足りない。その『何か』はわかっていても今は手にすることができない。

 難しい質問だったかな……

 黙りこくってしまった蒼を見て、杳は眉根をさらに寄せる。

 わかりきった質問だったかもしれない。今の蒼には、とても大切で重要なピースが足りない。それが何かも杳は知っている。それでも、蒼が『幸せだ』と答えるのであれば、杳は続きを話すのをやめたかもしれない。

「巴くんがね、手伝ってほしいんだって」

 窓から差し込む月の光が、二人の横顔を照らす。その横顔は、まるで鏡のようによく似ていた。

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