第22話

 穏やかな日の光の差し込むサンルーム。昨日と同じように養母ははの入れたお茶を飲む。今日のお茶は海を挟んだ隣国の大陸茶だという。小さな急須に茶葉と湯を入れ蓋をして、その上から熱い湯をかけて蒸らす。小さな茶碗に注がれた黄金色のお茶は香り高く、合わせて出された蒸し菓子や揚げ菓子によく合う。

 昨日と違うのは、この場所にはるかもいることだろうか。

「それで?話というのは?」

 少し険しい顔をした養父ちちの言葉に口を開こうとする杳を制して、あおいが言う。

「その前に、紹介をさせてください」

 蒼は自分の隣に座る杳に目をやって続ける。

「この子は、杳・ルピナス。僕の昔馴染みの友人です」

 蒼の言葉に丁寧に頭を下げた杳は、まっすぐに彼の養父母りょうしんを見つめて言う。

「初めまして。杳・ルピナスと申します。蒼くんとは、彼がこちらにお世話になる以前からの知り合いです。昨日のステージで再会して、ショーのあとに少しお話させていただきました」

 見た目とは違う落ち着いた声音は、養父母の気持ちを和らげるには十分なものだった。それでも、養母は少し不安そうな表情をしている。その表情をみて、蒼は少し胸の奥がキュッと痛む。

 ……申し訳ない

 きっとこの先の言葉は、養父母を傷つけてしまうだろう。下手をすると、即勘当を言い渡されてしまうかもしれない。

 けれど……それでも、譲れないものがある

「昨日、杳から旧友が助けを求めているという話を聞きました」

 丁寧に、言葉を選びながら蒼は続ける。

「オレに手伝ってほしいことがあるそうです」

 蒼に、というよりも、火群樹軍ほむらじゅぐんの隊長への依頼……といった方が語弊は少ないかもしれない。ただ、養父母りょうしんはこの家に来る前の蒼の素性を知らない。だから、敢えて火群のことを口にはしなかった。

「それは、あなたじゃなくてはいけないの?他の人に頼むことはできないの?」

 そう言う養母ははの声は少し震えていた。

「……他の人間に頼むのは、難しいと思います」

 世界を探し回れば、蒼と同じように、同じくらい能力のある人間はいるかもしれない。でも、そんな人物を探す時間はきっとないのだろう。

「だから、この家を離れるのを許していただけませんか?」

 眉間に深く皺を寄せている養母の硬い表情に蒼の胸が痛む。

 けれど。それでも……

「そのご友人は、君にとって大切な人なのかい?」

 沈黙を破るように、いつものように穏やかな声音で養父が口を開く。

 大切な人か、と尋ねられれば答えは決まっている。

「はい。オレがこの家に来ることができたのも、その人との出会いがあったからです」

 ともえと、火群の仲間と出会い、共に過ごし歩んだ日々があったからこそ、この家に来ることができた。巴と出会っていなければ、蒼はきっとこの世に生きてはいないだろう。そういう世界にかつて蒼はいた。

 幼い頃の記憶は多くはなく、その記憶すらも曖昧でぼんやりとしているものが多い。覚えているのは、薄暗い室内と暗い顔をした女性。彼女の周りの床には蒼と同じような年頃の子どもたちが何人かしゃがんでいたが、どの子どもの瞳を見ても生気がない。鬱々とした表情で床に転がる積み木を重ねたり、開いた絵本をぼんやりと眺めていたり、壁にもたれかかって何もない空を見つめて薄く笑んでいる子どももいた。

 ダンダンっと強く床を踏むような足音が部屋の外から響いてくると子どもたちはビクリと体を震わせ部屋の隅へと身を寄せる。バンっと激しい音を立ててドアが開くとガッチリとした体格の男がニヤニヤと笑いながら入って来る。男は、女性の体に腕を回すとそのまま部屋の真ん中にあるベッドへと倒れ込む。しばらくして女性に飽きると部屋にいる子どもたちの物色を始め、目についた子どもをベッドへと連れ込んだ。

 ある日、そうして幾時かを過ごした男は、子どもたちの中から一番年長と思われる少女を連れ出した。栄養が足りておらず、ガリガリに痩せて、暗い表情ではあったが、造作の整った少女だった。男に連れられて部屋から出ていった少女は二度と戻ってくることはなかった。連れていかれるのは、少女だけではない。少年も同じように連れて行かれると二度と戻ってはこない。蒼は、いつか自分も男に連れられて外に出るのだと思っていた。外に出て、その先はわからなかったけれど、二度と日の目をみることはないのだろうな……とうっすらと思っていた。

 けれど、そこから引き抜いてくれたのが巴だった。そして、巴と共に行った先で蒼は出会ってしまったのだ。

「……そうか。どうしても行きたいんだね」

「はい」

 養父の瞳をまっすぐに見つめながら蒼は返事をする。もしも駄目だと言われたら……それでも、巴の元に行かないという選択肢は蒼にはない。駄目だと言われてしまったら、もう……家を捨てるしかない。それを蒼は避けたかった。

 何も言わずに出ていくようなことはしたくない

 短い間だったかもしれないけれど、フュードの養父母りょうしんには育ててもらった恩がある。その恩を仇で返すようなことはしたくなかった。

「……行っておいで」

 ふわりと優しい笑みを浮かべて養父ちちは言った。

「あなた……!!」

 咎めるような養母ははの声に養父は小さく首を振る。

「蒼が初めてわたしたちに『お願い事』をしてきたんだよ。受け入れるに決まっているだろう?」

 その言葉を聞いて、養母はハッと目を見開いたあとにクシャリと顔を歪める。いつも明るく微笑んでいる養母にそんな顔をさせているのは自分だと思うと蒼の心はチクチクと痛む。

「ただし、条件がある」

 続けて放たれた言葉に、蒼は姿勢を正して養父を見つめる。その思慮深い光を帯びた瞳を蒼は尊敬している。

「必ず、帰っておいで」

 蒼は思わず目を見開く。

「蒼、君はわたしたちの息子で、ここは君の家だよ。だから、必ず帰っておいで」

 養母が堪らずといった様子で蒼に腕を伸ばして抱きしめる。その温もりを感じながら、蒼は養父に向かって大きく頷いた。

(必ず、帰ってくる……)

 蒼の返事を受けた養父は、杳の方へと体を向ける。

「杳さん……と言ったかな?」

「はい」

 優しい瞳の奥の強い光をみて、杳は背筋の伸びる思いがする。その強い眼差しは、大財閥を率いてきた敏腕経営者のものだ。

「蒼を頼んだよ」

 

 丸い月が高く昇る。屋敷を囲む高い壁の上に二つの影が踊る。音もなく屋敷の敷地の外に着地したのは、二人の若者のようだった。

 振り返って、シン…と静まった屋敷を見上げているのは屋敷の主であるフュード氏の養子むすこである蒼だ。艷やかな闇に溶けるような黒髪が月の光を反射して輝く。

「後悔してるの?」

 隣で少し見上げるようにして蒼を見つめているのは、銀髪の少女・杳だ。

「いや……後悔は、してない」

 そう、後悔なんてする必要はない。だって、約束したから……

 必ず、帰ってくる

「行くぞ……」

「はいはーい」

 二人は足音も立てずに、風のようにその場から去った。

 高い位置で輝く月は、何かを暗示するように瞬いた。

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