第19話

 寝台から起き上がると、はるかは両手に顔を埋めて大きく息を吐く。

「はぁーー」

 それから顔を上げて思いっきり息を吸うと、それは溜め息ではなく深呼吸になる。

 落ち着け、落ち着け……

 溜息は幸せが逃げていくけれど、深呼吸は心を落ち着けてくれるというのは、杳の持論だ。

 久しぶりの夢渡ゆめわたり。受信側なので、そんなに力の消費はないけれど、若干の気怠さが体には残っている。

 もう一度、大きく息を吐いて吸うと杳は寝台を降りて、服を仕舞ってあるキャビネットへと向かう。簡素な寝間着を脱ぎ、パフスリーブのシャツとサスペンダーのついた膝上丈のプリーツスカートへと着替えると扉を開けて階段を軽い足取りで降りる。彼女の部屋は、車の付いた台車の上に乗った小さな小屋だ。移動をしながら生活をしている杳の小屋の周りには同じような小屋がいくつもある。それらの間を縫って進んだ先には、簡易的に石を積んで作られたかまどとそれを囲む数名の人々がいた。その中心……長く伸ばした赤茶の髪を高い位置で束ねた女性に杳は声をかけた。

「リーダー!ちょっと良い?相談があるんだけど」

 リーダーと呼ばれた彼女の名はゆいと言う。結は、杳の声に顔を上げるとすぐに座っていた長椅子から立ち上がり、杳の方にやってきた。杳の顔を見た結は、少し眉根を寄せる。

「……込み入った話になりそうだね。あたしの部屋においで」

 そう言ってスタスタと歩き始める結の後を杳は小走りで追う。

 結の小屋は他の小屋よりも一回り大きく、寝台とキャビネットの他にもソファと小さなテーブルが置いてあった。

 ……ここに入るもの久しぶりだなぁ……

 火群解散に伴って他の隊長たちと別れ、新たな人生を歩み始めたとき偶然出会ったのが結率いる旅一座サーカスだった。火群で鍛えた身軽さが結の目に留まりスカウトされ、そのまま一座の一員となった。そのときもこうして、結の小屋に案内されて二人きりで話をした。

 あれから五年。

「とうとうそのときが来たってことかね……」

 クッションの効いたソファにその長身を投げ出して、結は言う。その声はどこか寂し気にも聞こえる。

「……リーダーには、本当にお世話になりました。でも、行かなきゃ」

 まっすぐに結の目を見つめて、杳は言う。

「いいんだよ。最初に約束してたからね。あんたは、”そのとき”までの預かりの身ってね」

 詳しく過去を話した訳ではない。けれど、結は何も聞かずに笑って受け入れてくれた。

『ウチは訳ありのヤツばっかりだからね。あんたの過去なんて、誰も気にしやしないよ』

 結の言葉通り、一座の仲間たちもすぐに杳を受け入れてくれたし、過去を詮索する者もいなかった。

「感謝してます」

「……良いんだよ。そんな辛気臭い顔しないでおくれ。……でも、今夜のショーは出てくれるんだろ?」

「もちろんです」

 今夜は大企業のお偉いさんの邸宅に招かれての公演が控えている。杳はその花形の演目を任されていた。その仕事に穴を開けるつもりはない。というか、今から他の演目に変えることもできないし、それに……

「頼んだよ」

 微笑んで大きく頷くと杳は立ち上がる。

「わがままきいていただいてありがとうございました。このご恩は、いつか必ず……」

「良いんだよ。あんたには随分稼がせてもらったしね。……また、気が向いたら帰っておいで」

 優しい結の笑みと言葉に、杳は胸がぎゅっとなって鼻の奥がツンと痛くなるのを感じて慌ててペコリとおじぎをする。

「それじゃ、また後で」

「あいよ」

 飛び出すように結の小屋を出ると、杳はザクザクと土を踏みしめながら足早に人気ひとけの少ないところを探す。

 大丈夫だと思ってたんだけどな……

 人のいない木の陰に隠れて、杳はスンっと鼻をすする。

 泣くつもりなんてなかった。笑って話をして、笑顔で別れるつもりだったのに。自分が思っていた以上に、杳はこの旅一座のことが好きだったようだ。

「そりゃそうかー」

 五年。

 火群が解散してから、『帰る場所』のなくなった杳の『居場所』になったのがこの一座だった。芸の練習は厳しかったし、つらいことや嫌なことだってあったはずだけれど、一座の仲間たちはいつも笑っていた。

『泣いたって、何も変わりゃしないんだよ』

 そう言って、結もいつも笑っていた。

「……帰ってこれるかな?」

 仮住まいだと思っていたところに、帰ってきてもいいのだろうか。……自分は、ここに帰ってきたいと思うのだろうか。

 ……先のことはわからない。

「はぁ……」

 小さく息を吐いて、杳は迷いを振り払うように小さく首を振る。

 何にせよ、今はできることをしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る