第9話
「……さて、と。大丈夫か?」
去っていく背中を見送った藍は、しゃがみこんで地面に座り込んでいる少年たちに目線を合わせる。
「怪我は……擦り傷くらいか。燁、水とあと布出して。あれば消毒も」
藍に言われて、燁は慌てて腰に下げている小さな鞄から白い布を取り出し、下げていた買い物袋の中から取り出した水の入った容器と合わせて藍に渡す。あいにく消毒液は持ち合わせていなかった。
「サンキュ。先に兄ちゃん見させてくれな」
少年の腕から抜け出した少女の頭を藍は優しく撫でて微笑む。少女はくすぐったそうに目を細めてふわりと笑った。
可愛い少女だ。少し癖のある黒い髪と浅黒い肌の色は、この辺りでは少し珍しい。南方の血が混じっているのかもしれない。丸っこい大きな目で黒い瞳は星のように輝いている。
「触んじゃねぇ!」
少女の頭を撫でる藍の手を少年はパシっと叩いてはたき落とす。それを見た少女は、少し俯いて眉根を寄せる。
「おっと……悪かった」
そう言いながら藍は慣れた様子で少年の傷口を水と布で洗い流していく。
怪我は大したことない……か…
擦り傷もそんなに多くなく深くもない。打撲も軽いもののようだ。何より、藍に手を上げるだけの元気がある。
「そんだけ元気があれば大丈夫だな」
藍は少女にしたのと同じように頭を撫でようとするが、寸前で再びパシッと手を払われてしまう。
「触んな……」
「はいはい。ごめんごめん」
適当に返事をしながら、藍は少年の横に立つ少女にも怪我がないか手早く確認をする。
「はい、バンザイしてー。よーし、いい子だ。腕は上がるな。足は?痛いところないか?」
藍の指示通りに両手を大きく上げたり、その場で足踏みをしたりしながら少女はコクコクと頷く。
……あれ?この子もしかして……
「はーい。オッケー。お嬢ちゃんはどこも怪我ないな」
にっこり笑って大きく頷く少女を見て、燁は確信をする。
「藍……この子……」
「ん?」
グゥ〜〜ッ
燁が藍に耳打ちをしようとしたところで、重低音が大きくその場に響く。ふと見ると、少年が顔を真っ赤にして自分のお腹を抑えていた。
「腹減ってんのか?じゃあこれやるよ」
燁は少年に持っていた紙袋を差し出した。中には翌日の朝食用にと買ったパンがいくつか入っている。腹いっぱいとはいかないかもしれないが、多少の足しにはなるだろう。
「いらねぇよ!!」
藍の手を払ったときと同じように少年は差し出された袋を払った。紙袋は燁の手から飛び出し、地面へと落ちる。その勢いで中に入っていたパンも飛び出し地面へと落ちた。
あーあ……もったいない
ふわふわでいい色に焼かれたパンが無残にも地面に散らばっている。せっかく美味しそうなパンだったのに……
燁はしゃがみこんでパンを一つ手に取った。
大丈夫そうだ
表面にちょっとついた埃や砂をパタパタと叩いて、飛んでいった紙袋を拾って中に入れる。少し遠くに飛んだものに手を伸ばすと小さな手がそれを取り燁へと手渡した。
「ありがとな」
にっこり笑顔を向けると少女はフルフルと首を横に振る。そして、ペコリと深く頭を下げた。
ごめんなさい
形の良い唇がそう動くが、そこに音はない。
やっぱり……
少女は話せないようだった。「話せない」というと語弊があるかもしれない。きっと正確には「声が出ない」のだろう。
「いいよ。気にすんな。兄ちゃんいらねぇみたいだからオレが食うよ」
言葉が出なくなる病はいくつかある。原因はさまざまで、身体的なダメージから来る場合もあれば、精神的なダメージからくる場合もある。彼女の場合はどちらだろうか……
ニッと笑んでみせる燁に、少女はひたすらに申し訳なさそうな表情を向けてくる。
本当に気にしないでほしい。
軍人は、街の人から嫌われていることも少なくない。それはこの街でも同じだろう。軍属の学校に通い、軍人になるために日夜学んでいる燁たちもその影響を受けることがある。軍人を嫌う人たちの多くは、旧政府時代が良かったとか、新政府になって色々厳しくなったとか、政府は戦争をしようとしているとか……何だか良くわからない、ふわっとした不満を抱えているようだった。
良かったという人の中には、旧政府時代に甘い汁を吸っていた人もいるのだろう。厳しくなったのは、旧政府時代にグダグダだった税制や教育などの整備をするためだったり、汚職や粉飾なんかを厳密に取り締まるようになったりしたせいだろう。戦争をするために軍を強くしようとしているわけではない。国を……人々を守るために必要な力もあるのだ。 でも、それを知っている人ばかりではない。事実、新政府になって周囲の国との国境線で大小様々な衝突はあるし、内部でも表に出ないだけでいくつもの争いはあるのだ。
藍は小さく息を吐いて、空を見上げた。
視線の先に広がる星空は、吸い込まれてしまいそうな錯覚を与えてくれる。
ともかく。
「兄ちゃんも嬢ちゃんも大丈夫そうだし、夜ももう遅い。家まで送るよ」
そう言うと藍は兄である少年の方に向き直る。
「家どこだ?近くか?」
その言葉に少女は少し困ったように眉を下げ、少年は一瞬眉を吊り上げるがすぐに俯いてボソボソと小さな声を零した。
「家なんかなねぇよ……」
しゅんと肩を下げる少女の頭を軽く撫でて、少年は顔を上げる。
「……家はない。でも、勘違いするなよ。家はないけど、寝るところはあるし、仕事もしてる……一応だけど……」
「そうか……なら、大丈夫だな?」
まっすぐに少年の顔を見て、藍は尋ねる。
大丈夫
その一言にはいろいろな思いが含まれているように思う。
少年は、大きく頷いて少女の肩を抱く。
「わかった。じゃあ、最後に名前だけ聞いていいか?オレは藍・トリーム。こっちの赤いのは燁・ライファだ」
「……ナユタ・カーナイ。こいつはマナ。……助けてくれてありがとう……」
ナユタは真っ直ぐにこちらを見て言う。その黒い瞳宿る光は強く、彼の心根が真っ直ぐで曇りないものだということを感じさせる。
「ナユタとマナだな。覚えた」
ニッと笑ってみせる藍に二人はホッと肩の力を抜いたように見えた。
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