第42話
白波を立てて遠ざかっていく船に振っていた手を下ろして
「お疲れ様」
「……杳もな」
……アレに毎日付き合ってるのか……
自分で紹介したとは言え、ナユタに少し申し訳ないような気分になる藍だった。
とは言え、一番頑張っていたのは巴かもしれない。ワーカーホリックな気のある巴だが、紅のいた一週間は仕事に関することに触れることを一切禁じられていた。紅いわく『巴の体調が安定することが仕事をするための一番の近道』とのこと。
確かに。
巴が倒れてしまっては、進むものも進まない。紅のいる一週間だけという条件の元、巴の体調を整えるための時間が取られた。そのおかげで、巴の体調は島に来たばかりの頃よりも、かなりよくなっている。
「おかえり。無事に帰った?」
屋敷に戻ると、リビングのソファに座っていた巴が藍と杳を迎えた。その顔色は良く、体調の回復がうかがえる。
「元気に帰っていったよ。無理だけはするなって。次に倒れたら強制入院だって」
その言葉に巴は苦笑をしながら言う。
「肝に銘じとくよ」
「それで、
紅のいる間も燁が目を覚ますことはなかった。紅は毎日診察をしたり、体が衰弱しないように滋養に効果のある薬を与えたりと看病を続けていた。巴や藍、杳も毎日燁の部屋に足を運び、彼の手をとり、話しかけ、目覚めを待った。それでも燁は目を覚まさなかった。
「ん。やっぱり、わかってるみたいだって」
最終日の夜。巴と紅は、燁について話をしていた。
わかってるのか……
藍は思わず小さく唸る。
体はもう十分に癒され、いつ目が覚めてもおかしくない。多少筋肉が落ちているところはあるかもしれないけれど、燁の若さであれば短期間で元のように回復するはずだ。『わかっている』ということは、自らの意志で目を覚ますのを拒否しているということで……
「今夜、ちょっと行ってくるね」
「今夜?」
巴の言葉に藍は
「うん。前言ったでしょ?心当たりがあるって」
そんなことを話していたのは、紅が来たばかりの時だったか……
「夢を渡って、会いに行ってくるね」
「会いにってもしかして……」
「うん。夢を渡って、
目を見開いて驚く杳に巴は微笑む。答えを予想してたのだろうか、藍は少し口をきゅっと結んだあとに口を開いた。
「止めたって聞く気はないんだろ?」
「まぁね。何のために
大人しく紅の言うことを聞いていたのはこのためだったのか……と藍は今更ながらにおもってしまう。
「でも、わかるの?」
同じ夢渡の能力を持つ杳は、少し不安そうな顔をする。
夢渡をするときに、相手との関係性は重要だ。関係が深ければ深いほど、楽に夢を渡ることができる。
「大丈夫だよ。燁にもちょっと手伝ってもらうから」
未だ眠ったまま目覚める様子のない燁だが、体は至って健康だという。こちらに意識はないけれど、煌との繋がりは切れていない。その繋がりを使って夢を渡って煌の元へ行く。
巴が燁の意識に直接アクセスすることはできないけれど、煌ならきっと燁に巴の……
白い世界。その世界の片隅に膝を抱えてうずくまっている片割れを見つけて、煌は近付く。普段は高い位置で結ばれている赤く長いい髪が、膝を伝って地面にまで垂れている。彼……燁の目の前に立ち、腰に手を当てて見下ろすようにしながら煌は言う。
「いつまでここにいる気?」
ここは、煌の意識の一番深いところだ。
その声にピクッと一瞬肩を震わせた燁は、そのままさらに深く膝に顔を埋めてしまう。普段は明るく振る舞っていることの多い燁だが、根は結構暗い方だと煌は思っている。多分どちらかというと、煌のほうが明るい。
大きく息を吐くと、煌は燁の背後に回り、燁と同じように膝を抱えて座り燁にそっと背中を預ける。ほんのりと燁の温もりが煌へと伝わる。
「今日、巴が夢に来たよ」
その言葉に燁は体を固くする。
「待ってるって伝えてくれって」
待ってる……そんなふうに言われても、燁にどうしろというのだろうか。燁はここから出る
気付いたらいたこの世界は、夢の中とよく似ているけれど、夢の中ではなかった。昔経験したことがある。燁は何度もこの場所に来たことがある。燁が今いるこの場所は、煌の意識の中だ。
「大変みたいだよ……」
なぜ大変なのか。煌はそれを言わない。もしかしたら、知らされていないのかもしれない。燁はそれを知っている。
「……戻り方がわからない……し、戻ってもいないんだ……」
ボソボソと、煌にすらわずかにだけ聞こえるくらいの小さな声で燁は言う。
戻っても、
燁は自分の頭にそっと手をやる。
最後に、眠る燁の頭を優しく撫でてくれた温もりがまだ残っている気がした。けれど、そこには自分の真っ直ぐな髪の少しひんやりとしたスルスルと滑るような感触しかしない。
癖のない真っ直ぐな燁の髪を、蒼は綺麗だと言っていつも丁寧に梳かしてくれた。その優しい手付きが気持ちよくて、大好きだった。でも、もう二度とその手が燁に触れることはないのかもしれない。
「本当に、いいの?」
ここ……煌の深層意識にいる限り、燁が顔を合わせて話すことができるのは煌だけだ。燁の体は、きっと巴たちがいい状態を保つように見守ってくれるだろう。いつか燁が、戻ってきてくれると信じて、戻ったときに困らないように……
「ねぇ、離れてからの話を聞かせてよ。どうやって生きて、巴たちと会って、何をして、何を感じてきたのか教えてほしいな」
ずっとずっと意識の底で眠り続けていた煌は、外の世界を知らない。だから、燁の生きてきた世界を純粋に知りたかった。自分の知らない世界を生きてきた燁を知りたかった。そして、できれば……
外の世界で燁と会いたい……。
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