第45話

 ……生きてる……

 ほんの僅かに上下する胸と触れると伝わる温もり。それだけがあおいようが生きてここにいることを教えてくれる。閉じられた瞼の向こうにあるキラキラと紅玉のように輝く瞳を今はみることができない。白いシーツに真紅の髪を流して眠る姿は、人形のようにも見える。指先に触れる赤い髪は、変わらず絹糸のように滑らかだ。

 養父ちちともえたちを伴って家に戻ってきてからひと月ほどが過ぎた。その後の交渉の結果、火群ほむらは現在フュード家の一室を拠点としている。その部屋と扉一枚で繋がった部屋に燁はいた。フュードの屋敷の周辺には、巴が強力な結界を張っている。そのせいか、敷地内には清浄な気が満ちていて、養母ははの世話する庭の花々はいつも以上に美しく咲き誇っていた。燁も、目を覚ますことはないものの穏やかに眠っている。

『燁は目を覚ますためには、準備が必要なんだ』

 眠る燁の顔を見ながら巴は言った。

『……準備?』

『そう。準備。いくつか条件があってね、それをクリアしないと燁が目を覚ますことはない』

 その準備のためには、ホームよりもこちらのほうが都合が良いとのことだった。実際、巴とらんは最初の数日以来ほとんど屋敷にはいない。燁の側にははるかがついている。

「蒼くん、奥様がお茶にしましょうって」

 そっとドアを開けて、中を覗いた杳が燁を起こさないように控えめな声で蒼に声をかける。声を抑えなくても、きっと燁が目を覚ますことはないのだろうけれど、それでも燁が眠り続けるのであれば、穏やかに安らかに眠ってほしい。

「……わかった」

 小さく答えると、蒼はもう一度燁の頭を優しく撫でて部屋を出た。

 ……

 ふわりと風が起こる。

 燁の周りにぼんやりと赤い光の粒が現れて、それが僅かに何かの影のような形を作る。

 もしもそれを蒼が見ていたらきっと気付いただろう。その影は燁の形をしていた。


 白い世界でうずくまる燁を見下ろしながら、こうは少し呆れたように声をかける。

「……いい加減、起きたら?」

 その言葉に燁はピクッと肩を震わせるが、膝に顔を埋めたまま首を振る。

 だって、目を覚ましたって蒼はいない。目を覚ましたら、煌が消えてしまう……。

「……そんなんだから気付かないんだよ」

 ブツブツと呟きながら、煌はドカッと勢いよく燁の隣に座る。

「本気でそう思ってる?」

 燁が少しだけ顔を上げると、睨むように覗き込む煌の赤い瞳とぶつかった。鏡で見る自分の目は血溜まりのようだと思うけれど、煌の瞳は紅玉のように美しい。

「今、自分がどこにいるかわかってる?」

 どこって……?

 はぁーと大きめの溜め息を吐いた煌は、燁の手を引きながら立ち上がる。つられて燁も立ち上がる。

「はいはい、ちゃんと立って」

 背中をポンッと軽く叩かれて、燁は丸まっていた背中を少し伸ばす。

 煌は、燁の手のひらと自分の手のひらをピッタリと合わせると、目を閉じてそっと額を合わせる。ほんのりと伝わる温もりが気持ちいい。

「ちゃんと、自分の目で確認して?」

 煌がそう言うと、世界が変わった。真っ白な世界から一気に日常へと移ったようだった。

 ……あれ?

 見慣れない天井と見慣れない寝台。窓からは綺麗に手入れされた庭が見えている。……が、残念ながら燁がこれまでに見たことのない風景だ。

 ……ここ……どこ?

 カチャンと小さな音を立てて扉が閉まる気配がして、ハッとしてそちらの方に目をやる。一瞬、ほんの一瞬だけよく知る黒髪が見えた気がした。

『蒼……!!』

 慌てて寝台から飛び降りるが、何だか足元がふわふわしていておぼつかない。振り返った視線の先には、静かに眠る自分の姿……

 ……どういうことだ?

 疑問符が浮かぶけれど、燁は頭を振って気を取り直す。

 そんなことより蒼のほうが大事。

 扉を開けるためにドアノブを掴もうとするが、スルリと通り抜けてしまう。溜息を吐きながら両手を見下ろすと、ぼんやりとした赤い光の粒子の向こうに床が見える。どうやら燁の体は透けているようだった。

 ……つまり。

 扉に向かって手を伸ばすと、そのままスッと通り抜けて腕が半分廊下に飛び出した状態になる。なるほどなるほど。どうやったのかはわからないけれど、煌が燁の意識を体に送ってくれたようだ。けれど、その意識は体に戻ることなく漂っている。それはまるで幽霊のようだ。

 ……まだ生きてるから生霊か。

 そんなふうに思いながら、燁は扉を通り抜けて先程部屋を出ていった人物のあとを追う。

 広い屋敷だ。藍の実家も広かったけれど、ここも同じくらい広そうだ。けれどおもむきが随分違う。廊下の天井は高く、西洋風の造りのようだ。廊下の床にも絨毯が敷き詰められている。

 やっぱり、知らない場所だ。

 これまで燁が生きてきた中で、来たことのない場所のようだ。音も温度も感触も感じない。ただ、わずかに残された気配を感じる。その気配を追って、広い階段を降り、さらに廊下を進むと扉に行き当たった。燁が求めている気配は、この扉の先にいる。

 この向こうに蒼がいる。

 すーはーと大きく深呼吸をして、燁は扉をすり抜けた。

 眩しい……

 少し暗い廊下から入ると眩しさに目を奪われる。扉の先には、鮮やかな緑と光の溢れる空間が広がっていた。その奥、長椅子と低いテーブルの置かれた少し開けたところに蒼はいた。キラキラと天から降る光を黒髪が反射して天使の輪っかのように輝く。蒼の正面には、壮年の女性が穏やかな笑顔を浮かべて座っている。蒼の養母だという女性だろうか。年老いてもなお美しく、浮かべられた優しい笑みには蒼への慈愛に満ちている。二人のカップに赤いお茶を注いでいるのは、杳だった。

『蒼!!』

 名前を呼んで駆け出そうとするけれど、その声は蒼には届かない。燁はギュッと拳を握って唇を噛みしめた。

 もう、自分は必要ないのかもしれない。蒼の側には、家族がいる。自分には蒼が必要だけれど、彼が自分を必要としないのであれば、燁は彼の側に戻るべきではない。

 突然、談笑を楽しんでいたらしい三人の顔が燁の方へ向けられる。

 !?

 気付かれた??

 そう思ってどこか影に隠れようとした燁の背後に人の気配がした。

 振り返ると同時に重い音を立てて扉が開かれ、紺色の髪と金色の瞳を持った青年が姿を現す。

『巴……』

 巴は一瞬大きく目を見開いて動きを止めた。

 ……目が、合った気がする……

 けれど、きっとそれは燁の気のせいだろう。その証拠に、巴は柔らかく微笑みを浮かべて燁の隣を何事もないように通り過ぎていく。巴も話に加わり、穏やかな時間が流れているようだった。

 と、突然空気が変わった。燁に音は聞こえないが、激しい動きで扉が開き、藍が駆け込んでくる。何事かを巴の耳元で囁くと、巴の表情が少し鋭くなった。巴は丁寧に蒼の養母に礼をすると、藍を引き連れて部屋を出ていった。その後を杳と蒼も当然のように追っていく。無論、燁もその後を追った。

 皆が揃ったのは、窓際に広い机が置かれた部屋だった。応接セットも置かれたその部屋は、いつか見た校長室みたいだな……と燁はぼんやり考える。白い壁面に映像が映し出され、巴はそれに向かって何か会話をしているようだ。会話の相手は地軍……瞳が青いので海だろうか。

 ギュッと眉根を寄せて、厳しい表情を浮かべる巴の瞳は、火群を率いる隊長の目をしていた。

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