第30話

 落ちていく。落ちていく。落ちていく。

 どこまでも続く闇。どこまで続くのかわからない闇。ただ、自分の体が落ちていることだけがわかる。

 けれど、ようの心に恐怖はない。ここがどこかはわからないけれど、燁への悪意は感じないからだろうか。

 突然。燁は闇から光の中に放り出された。闇の中にいるときは、体が落ちている感覚があったけれど、ここではどちらが上でどちらが下なのかよく分からない。

 ……ここ……?

 知っているような、知らないような。そんな不思議な空間だ。ただただ、白い世界が続いている。

「やっほーーー!!」

 とりあえず叫んでみるけれど、燁の声は空間に吸い取られてしまうように響かない。ぐるりと見回してみてももちろん誰もいない。ダッと駆けてみても何も起こらない。

「……ふむ」

 燁はひとまずその場に腰を降ろした。

 どこまで行っても変わらないし、立っていても座っていても何も変わらない。だったら座っていたほうが体力は温存できる。体力さえあれば、何か起きた時にどうにかできる可能性は高い。それならいっそ寝転んでしまったほうがいいだろうか?いやいや、それはいざと言う時にとっさの動きが取れない可能性がある。

 そんなことを考えていると、ほんの少し空気が揺れた。誰かが小さく笑ったような、そんな気配を感じて燁はバッと立ち上がって振り返る。

 クスクスと小さく笑う姿を燁は知っていた。白く長い髪を揺らして、目を細めて笑う顔は、燁が知っているものよりもずっと大人びているけれど、その瞳は変わらない。燁自身と同じ紅玉のように輝く赤い瞳。

「……こう……」

 燁が言葉を続ける前に煌は泣きそうな顔で微笑んだ。

「燁……ごめんね?」

 鈴の音が鳴るような声で煌は言った。

 フッと目を覚ますと見慣れた天井が広がっていた。

 ……戻ってきた……

 体を起こそうとすると全身に怠さが広がり、燁はそのまま体を丸める。

 煌……だった……

 あれは夢の中だ。自分が煌の夢の中に行ったのか、煌がこちらに来たのか……それはよくわからないけれど、どうやら燁は強制的に夢渡ゆめわたりをさせられたようだ。

 すげーしんどいんだな……

 元々能力を持たない者が、なけなしの力を無理矢理引き出されたのだから無理はないかもしれない。頭からシーツを被って、燁はギュッと自分自身を強く抱きしめる。

 もっと、細かったな……

 久しぶりに見た煌の体は、燁よりもずっと華奢で細かった。今にも消えてしまいそうな儚さすら感じた。でも……

 生きてた……

 ちゃんと食べているんだろうか?どんなところで、どんな暮らしをしているんだろうか……。 考え始めると次々と聞きたいことが浮かんでくる。けれど、何よりも……

 生きててくれた……

 それだけで、燁は……燁は……。


 その建物は、火事のあった集落からそう遠くない森の中にあった。近くに大きな湖があり、その周辺は高級別荘地として知られていた。

 静かに、音も立てずに、床を這うようにして植物が屋内を侵食している。建物そのものや置かれている家具などは決して古いものではない。それなのに、建物を覆うように蔦が絡み、部屋の中の至るところに草木が芽生え、今も二階へ続く階段を上っていこうとうごめいている。

「いくら早く帰りたいからって……」

「うるさい」

 思わず漏れたらんの声を遮るようにあおいが言う。その様子を見て苦笑を浮かべるのははるかだ。

「お……お前たちは何者だ!?」

 階段の踊り場から三人を見下ろすように見ているのは、この家の主だろうか。グレイヘアの男に向かって、植物たちは少しずつ伸びていく。男の顔は、恐怖と驚きの混じった複雑な表情になっている。

「誰だって聞かれても答えてやる義理はないけどなぁ」

「そうねぇ……でも、せっかくだから答えてあげたら?」

 右手の人差指で空に円を描きながら、どこか間延びしたような声で言う藍に、杳も同じようなトーンで返す。何というか……

「お、お前ら!!緊張感ってものはないのか!?」

 叫ぶのは足元からギリギリと植物に巻き付かれつつある眼の前の男だ。年齢は初老に差し掛かった中年……といったところだろうか。藍たちよりも随分年上のように見えるが、その口調は若者のようだった。

「なんでオレたちが緊張する必要があるんだよ」

 残念ながら今の状況をみると、明らかに優勢なのは藍たちの方だ。正直、身動きを封じられつつある人間に負ける気はしない。くるくると小さな円を描いていた藍の右手の人差し指の先には、小さな水の渦が生まれている。

「なぁ、知ってる?自然界の力って、機械マシーン使わなくても操ることできるんだぜ」

 どこか人の悪い笑みをニヤリと浮かべる藍の言葉に、男の肩がビクッと震える。それを見た藍は内心『おや?』と首を傾げた。

「……アンタ、知ってるな……」

 藍たちの目の前にいるこの男は、自然界の力……フォースを、機械マシーンを使うことなく操ることができる人間がいることを知っている。

「……火群ほむらか……」

 正確には、『元』だけれど。

 目の前の男の肩がビクッと激しく揺れ、驚いた表情で藍たち三人を見つめる。

 そんな目で見られても……

 火群の存在は、世間の人たちから隠されていた。そのため、その名はおろかその存在すら知らない人もいるだろう。ただ、風の噂で『政府直轄の隠密組織』があることを知っている者はいたかもしれない。それでも、その数は決して多くはない。各アィルの幹部たちが耳にしたことがあるくらいだろう。

 しかし、火群の組織自体は意外と巨大だ。巴をトップに四隊長の指揮する四つの軍があり、軍はさらに十ほどの部隊に分かれていた。

 四隊長という大きな軸を持つ自分たちを火群の人間は樹木にたとえていた。四隊長をトランクとすると、部隊長はブランチ、さらにその下についている隊員をリーフと呼んだ。

「オレたちを知らないってことは、リーフか…」

 呟く蒼の声に、男はさらに大きく目を見開いた。

「そうねぇ……割とリーフのほうにも顔は出してたと思うんだけど……」

若葉バージャーだったんじゃないか?」

 『若葉バージャー』という言葉に反応したのか、男は顔を上げてキッと目つきを鋭くすると、食って掛かるように藍に向かって言う。

「ふざけるな!誰が若葉だ!オレはなぁ、火群炎軍第十二番隊の副長補佐代理候補だったんだぞ!!」

 …………

「うん。なんかごめん。オレが悪かったわ」

 ギュウギュウと植物の蔓に締め上げられて身動きが取れなくなっている男の肩を、藍はポンポンと優しく叩く。

「燁がいたらお前のこと知ってるかもしれないけど、オレたちさすがに他所の隊の葉のことまでは把握してなくってな」

 ヒュルヒュルと小さな音を立てて、藍の指先では水の渦が回っている。

「元お仲間みたいだし、手荒な真似はしたくないから、とりあえずそのオモチャの出どころ、ゲロってくれる?」

 キラキラとした笑顔で藍は言うけれど、こういうときの藍のそういう笑顔は何よりも恐ろしい。

 南無……

 杳と蒼は心のなかでソッと手を合わせた。


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