第48話
ゆっくりと目を開くと、森の向こうに沈む赤い夕日が見えた。燃えるようなその色は、燁の髪の色に似ている。
パシャっと水音が聞こえ、そちらを向くと金色の髪の青年が立っていた。
「……ハジメマシテ?」
「初めまして」
小首を傾げる煌を見て、小さく彼は苦笑を浮かべた。その瞳は、晴れた日の青空のように澄んでいて優しい。初めて会うはずなのに、ずっと前から知っているようなそんな気がする。
「抱えてもいいか?」
久しぶりに地面を踏んだ煌の足は、筋肉の衰えのせいか立っているのでやっとだった。コクンと頷いた煌を藍は軽々と抱え上げ、水の上をスタスタと軽く歩いていく。その動きは、地面の上を歩くのとほぼ変わらない。泉のほとりでは、額に少し汗を浮かべた巴と灰色の髪の少女が待っていた。
「外の世界では初めましてだね」
伸ばされた手をそっと握ると、力強く握り返される。その感触が、煌が表の世界に出てくることができたことを強く実感させた。
「待ってたよ」
外の世界で、煌に会えるのを待っていた。この無意味な戦いを終わらせることができるのは、きっと煌だけだろう。
巴と藍の腕に支えられて煌は、大地に足を下ろした。裸足の足裏に触れる土と草の感触、肌を撫でる風と風で波立った水面の水音。沈んでいく赤い太陽がわずかに残した熱。
「……燁は?」
「向こうだよ」
煌の言葉に、巴は視線を泉の反対側へ向ける。焼け焦げたような陣の上に横たえられた燁とその隣にしゃがみ込んでいる青年が見えた。巴と藍に支えられ、
早く……急がないと……
煌の中に残された力は、もうそう多くはない。きっと、もう燁を戻すくらいしか残っていない。その力もいつ消えてしまうかわからない。いつしか煌の手は巴と藍の腕を離れ、歩調は早くなって、駆け足で煌は燁の元へと急ぐ。
「!!」
突然、煌の前に人影が現れる。
「煌!!」
大地に沈む最後の光を反射して、蜂蜜色の髪が輝く。煌の紅い瞳を映した焦げ茶色の瞳は、どこか浮ついた色が見えた。
「……アーベット」
煌の口から漏れた言葉に、彼……アルフ・アーベットは双眸を緩ませて蕩けるような笑みを浮かべた。
「目が覚めたんだね……」
感極まる……というのは、今のアーベットに相応しい言葉かもしれない。瞳を潤ませ、身を小さく震わせながら震える腕を煌に伸ばす。その唇の端から唾液が一筋流れるが、アーベットは気にする様子がない。
煌は思わず……といったふうにビクリと身を竦ませ、一歩足を引いた。その体を優しく抱きとめたのは巴だった。すかさず、藍がアーベットとの間に入る。
「アーベット、君の願いは叶ったかな?」
巴の黄金色の瞳が、夕闇の中で鋭く輝く。その瞳に見つめられたアーベットは、瞳の光を消して低い唸るような声を上げる。
「……」
それは獣の鳴き声のようで、前に立つ藍は少し眉を潜めた。瞬きをしたアーベットの瞳も、瞳孔が細くなりまるで獣のそれのようだ。
……どこかおかしい……
「アルフ……」
グギギギッ……と歯を剥き出してこちらを睨んでいたアーベットが煌の声にピクリと肩を震わせた。頭を小さく振ると、前傾姿勢になっていた背中を伸ばす。小さく息を吐いてこちらを見たアーベットは、藍たちの良く知る彼の顔をしていた。
「……煌……こっちへおいで……」
穏やかな声で伸ばされる手。それに小さく首を振って煌は答える。
「ごめんなさい。今は行けない……」
「!!」
それを聞いたアーベットが獣のように歯を剥き出すのとほぼ同時に悲鳴のような叫び声が響いた。
「燁!!」
斬撃の音とそれを跳ね返すような音と何かが折れるような音。薄闇の中でも見えた、昇ってきた月の光を反射して輝く折れた刃。その後に打撃音が続く。
「燁!?」
煌は声の方に向かって走りだそうとするが、足がもつれて転んでしまう。その横を巴と杳が走り抜けて行くのを煌は唇を引き結んで見送った。
動かない体が、足がもどかしい。誰よりも先に燁の元に行きたいのに……
思わずダンッと拳で足を叩くけれど、その力すら弱々しくて煌は泣きたい気分になる。
ふわりと体が浮き顔を上げると、空色の瞳にぶつかった。
「ショートカットするから、掴まってろよ?」
煌が頷くと藍はニッと笑みを浮かべて、水の上を駆け抜けた。煌が藍に抱えられて燁の元にたどり着いたとき、倒れた燁を灰色の髪の少女……杳が
「……代わる……」
そう言うと煌は血の気の引いた顔の杳と代わった。煌は大きく息を吐くと、巴の方に視線を向ける。巴は煌が見ていることに気付くと大きく頷いた。
これが最後になるかもしれない……
そう思いながら煌は燁に手をかざした。煌の中に残された力はそう多くない。柔らかい光が煌と燁を包む。頭のてっぺんから足の先まで、体を流れるエネルギーを燁に向かって解き放つ。
燁は大丈夫だ……
煌がついているから。煌の力があれば、燁が死んでしまうことはないだろう。問題は……
藍が目をやるのは巴と巴が羽交い締めにしている相手……蒼だった。激しく肩で息をする蒼の視線の先には、辛うじて原型がわかる程度にボコボコに殴られ、仰向けに倒れている男の姿があった。
「……もう、意識はないよ」
巴のどこにそんな力があったのだろうか。自分と同じくらいの背丈の蒼を、後ろから抱えるようにして羽交い締めにしている。ついこの間までの布団とお友達だった姿からは想像できない。
巴の言葉に大きく息を吐いた蒼は、その両腕を力なく下ろした。
「……」
何か言葉を発しようと口を開きかけて、失敗したように蒼はまた口を閉ざしてしまう。
「……バカね」
ダラリと下がる両の拳は、傷ついて血だらけだ。杳はその拳をそっと包み込んで治療を始めた。もっともそのほとんどは、倒れている相手のものかもしれないが。
「……だった……」
「え?」
ボソッと吐き出すように言われた言葉が聞き取れず、藍は蒼に聞き返す。
「……ターゼだった……」
蒼の視線は、自分から少し離れたところに倒れている男に向けられていた。藍は、サッと顔色を変えると蒼の視線の先の男の方へと足を伸ばす。黒く長い髪が地面に広がっている。藍が男の顔にかかっていた髪を避けると……「……!!」
その顔はアーベットの部下シャルル・ターゼのものだった。
「でも……ターゼは……」
あのビルで、燁の炎の刃で貫かれて、もう助かる見込みなんてなかったはずだ。まさか、あの深い傷から短期間で回復したというのだろうか。いや……でも、炎を纏った刃で貫かれたあの傷は、簡単には治療できないし、できたとしても歩けるほどに体力が戻るには年単位の時間が必要だろう。
男がゴホッと咳き込み、藍は混乱した思考を一時停止させた。横たわったまま肩で息をしながら男……シャルル・ターゼは切れ切れに言葉を吐く。
「……わた……しは……アルフ……さま……の……にんぎょ……う……ある……じが……のぞむ……ので……あれば……なんど……でも……」
ゆらりと立ち上がるとターゼは、再び燁の方へ手を伸ばそうとする。服の袖から覗いた腕には無数の手術痕があり、藍は息を飲む。良く見ると、傷跡は腕だけではない。髪の間から見える首筋や顔にも縫合の痕がいくつもあった。
「……ターゼ、君は
蒼を羽交い締めにしていた腕を解いた巴は、真っ直ぐにターゼを見ながら言う。
「腕が震えているね。それは
止めようとしているのだろうか。ターゼは震える腕を反対の腕でギュッと押さえつける。よく見ると、片足を引きずるように体を斜めにして立っている。足も同じようにやられているのかもしれない。
「……ターゼ……」
ゼーゼーヒューヒューと耳障りな呼吸音をさせながら、アーベットがターゼの近くに来る。
「アルフ様!!」
前に跪き頭を垂れるターゼを一閃。アーベットが蹴り飛ばした。
「ガハッ!!」
地面に叩きつけられたターゼは、上半身を丸くして咳き込む。その吐物には赤いものも混じっていた。
「お前の役目を忘れたのか!!この役立たずめが!!」
ターゼを詰るアーベットは、藍たちが見たことのないような形相だった。歯を剥き出し、眉を吊り上げて唾液を飛ばしながらターゼを貶す。
金色の瞳を氷のように鋭く光らせながらその様子を見ていた巴が静かに口を開いた。
「……アーベット、君も
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