第7話 温かい手

 妹が生まれるまでは私がこの家のお姫様だった。


 けれどそれは数年で上書きされ、大好きなお父様も私だけのものではなくなった。

 その時の悔しさは今でも昨日のことのように思い出せる。

 悲しくて、けれどお父様たちにそんなことを言えば嫌われてしまいそうで、私は次第に隠れて妹を貶し遠ざけるようになった。妹もそれをわかっているはずだったけれど、なぜか最近おかしい。


 妹は、ヘルガは私のことが大好きだという。


 嘘だと思っていた。

 媚びを売っているだけだとも思った。

 けれど毎日毎日それを伝えてくる。これだけ言ったら嘘も本当になっちゃうんじゃないの、と思ってからは前よりは少し、ほんの少しだけ妹のことが嫌じゃなくなった。


 でも私は子供でも頭が良いから知っているの。

 いくら今の気持ちが変わっても、それまでに私があの子にしたことは無くなったりしないって。

 だからこれは罰なんだろうと思った。

 誰も私を罰しないから、代わりに神様が罰したに違いない。


「ミカリエラ、ミカリエラ! ちゃんと起きてる?」


 崖の下に声をかけると返事があった。

 ――あの日森へ遊びに出た私は珍しい蝶を見つけて夢中で追ったの。ミカリエラは止めたけど、こんな機会滅多にないと思ってどんどん森の奥へ進んでいった。

 けれど蝶と共に道も見失って、来た道を戻っていたつもりなのに更に奥に迷い込んで、今では一体森のどこにいるのかさえわからない。

 それでもミカリエラは励ましてくれたけれど、途中で崖から足を踏み外して怪我をしてしまった。


 崖の下に行く方法がわからず、かといってお父様たちを呼びに行くことも出来なくて、私はこうして時々ミカリエラに声をかけるだけでこの場から動けずにいた。

 ……私ひとりでも助けを呼びに行くべきなのかもしれないけれど、怖くて傍から離れられない。

 それにミカリエラをひとりぼっちにしたら森の獣に食べられてしまう気がして、それも怖くて堪らなかった。


「お嬢様、すみません。私がこんなところに落ちなければ今頃……」

「な、なに言ってるのよ。あなた優秀なメイドでしょ、謝るところはちゃんと見極めなさいよ」


 つい憎まれ口を叩いてしまい、後悔しながら私は近くの大木に近寄る。

 大きな木の根の隙間が隠れるのに丁度良く、休憩する時はここへ腰を下ろしていた。

 変な物音がした時や夜中もここに収まっている。――なんとなく、今よりもっと小さな頃に迷子になったことを思い出した。あの時も別の木の根に隠れていたのだけれど、その時はお父様が迎えにきてくれたの。

 差し出された手はすごく温かかった。


 今の私の手は冷たい。

 お父様の手が恋しい。


 鼻を啜っていると黒い影が頭上を横切り、思わず小さな声を上げてしまう。

 ――鳥だったみたい。肉食の獣じゃなくて良かったけれど、心細かった私は立つのすら怖くなってしまった。

 やっぱりこれは罰なんだ。

 自分のやったことを償わずに勝手にやり直そうとしたから神様が怒ってる。

 だって私、妹を邪険にしただけじゃなくて……


(あの子を、ヘルガを殺そうとした)


 ……もちろん今すぐじゃないし、それだけ軽く考えていたけれど、大きくなったら凄い暗殺者に依頼して消えてもらうわ、とあの時は感情に任せて本気で考えていた。

 ヘルガがいなくなればお父様たちは悲しむかもしれないけど、私がいるんだから大丈夫だなんて思いながら。

 謝ったら許してくれるだろうか。

 あの暖かい家に帰してもらえるだろうか。

 ミカリエラを助けてもらえるだろうか。


 ごめんなさい、と小さく呟いても神様は何も言ってくれず、時間だけが過ぎていく。

 もう喉がからからでこれ以上出ないのだけれど、もっと大きな声で言えば届くだろうか。

 そんなことを考えていると――足音がした。獣が地面を踏み締める音じゃない。けれど何か恐ろしいものなんじゃないかと私は怖くなって身を縮めていた。

 外からは見えづらいはずなのに、その足音は一直線にこちらへ走ってくる。息遣いが聞こえる距離まで近づいた時、視界に現れたのは柔らかい金色の髪だった。


 お父様と同じ色。

 なのに真っ先に頭に浮かんだのは妹だった。


「お姉様!」

「ヘ……ルガ……?」


 明るい緑色の瞳がこちらを見ている。幻覚じゃない。

 ヘルガは私に手を差し伸べると、あのやけに眩しい笑顔で言った。


「お姉様、見つけましたよ。さぁ帰りましょう!」


 それは昔私を探しにきてくれたお父様と同じ光景だった。

 その時より何倍も小さな手の平を見つめているうちに、視界がぐにゃぐにゃになってよく見えなくなる。ヘルガの後ろにお父様たちもいたけれど、今の私には目の前にあるヘルガの手しか見えなかった。

 神様は許してくれたんだろうか。

 その答えはわからない。もし許してくれていても許されてなくても、帰ったらこの子に自分の口で謝ろう。


 そんな思いで握った小さな手は、心の底に届くくらい温かかった。

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