第31話 あなたが認めてくれた夢を

 明らかに異様な姿になったアニエラを前に、お父様は唇を震わせて呟いた。


「あの禁薬は闇市で手に入れたものだ。計画に使う予定だったが、理性を無くし暴れ続けることがわかって却下したんだ」


 お父様とアニエラ、どちらが潰れても一族の復興は叶わなくなるからだわ。

 けれどアニエラは隠し玉としてずっと持ち歩いていたらしい。

 そこで『もうアロウズは戻ってこない』と確定した今、このまま捕まるくらいならと自ら禁薬を飲んだんだろう。――冥土の土産として私を殺すために。


 お父様は剣を握ったまま私の前に立った。

 青白くなった肌と流れ落ちる冷や汗で痛みに耐えているのがわかる。


「アニエラ、君も被害者だ」

「お父様……」

「生まれた時から復讐を教え込まれていた。僕もそうだったからよくわかる。……そんなことになる前に止めてやれなくてごめんよ」


 そうアニエラへと謝罪して、お父様は深呼吸をし震えを止めて剣を構えた。

 アニエラはもうお父様の声すら聞こえていないのか、人語を話すこともなく獣のような呼吸を繰り返している。


「だから、せめて最後は僕が手を下して終わりにするよ」


 言い終わったと同時にお父様とアニエラが弾かれたように走り出す。

 お父様の一閃は目で追えなかったけれど、アニエラの首に赤い線が走った。しかしアニエラはそんなことは一切気にせずに右手をみしみしと軋ませて殴り掛かる。

 禁薬は身体能力を恐ろしいほど向上させる類のものらしく、クロヒョウを消したのも魔法不使用の純粋な蹴りだったようだ。


 あんなものを生身で食らったらどうなるか、とゾッとしたものの、お父様はぎりぎりまで引きつけてから躱すとアニエラの脇をすり抜けた。


 獣のような直線的な動きをしていたアニエラはそのまま壁に激突したけれど、瓦礫がすべて地面に落下する前に跳び出す。

 彼女は獣のような単純さと、獣のようなタフさと瞬発力を兼ね備えていた。

 それでも無理な体勢からの一撃は十割の力を出しきれなかったらしく、お父様は靴の裏がすり減るほど後退しながらも剣でアニエラの拳を受け止める。


「拳は硬化されてるのか、その様子だと足もかな……」


 お父様の言葉にアニエラは反応しない。

 完全に人間としての理性は失われているようで、もう呻き声すら出さなかった。


「聞こえていないかもしれないが」


 お父様がアニエラに語りかける。


 力が一瞬だけ緩んだ隙に自ら後ろへ引き、アニエラとの拮抗状態から抜け出したお父様は剣を振り下ろそうとする。狙うのは頭部だ。

 それを察知したアニエラは咄嗟に腕で頭を庇おうと動く。

 固い手は武器にも盾にもなるらしい。


 しかし、そこへ伝わったのは斬撃にしてはあまりにも弱い衝撃だった。

 お父様が放り投げる形で剣を手放したのだ。


 そのまま身軽になったお父様は壁を蹴って一気にアニエラの背後へと回り込み、護身用の小さなナイフを取り出す。

 ――フェイントだ。


「さっき変わらないと言っていたけれど……僕も、君の知るアロウズから成長しているんだ」


 フェイントを仕掛けたアニエラにフェイントを仕掛け返す。

 それは意趣返しであり、お父様がアニエラの元から離れていた間も鍛錬し、苦手を克服しようとしながら変わっていたことを示していた。


 中庭で剣を振り続けるお父様の姿を思い返す。

 あれは王族に披露するためだけでなく、いつか訪れるかもしれないこの日のために鍛錬を続けていたのね。

 その成果が実を結んだかのように、お父様のナイフはアニエラの背中に深々と突き刺さっていた。


 そのままどさりと地面に倒れ込む音がふたつ響く。


「お父様!」


 アニエラとは反対の方向へ倒れたお父様に駆け寄ると、もう唇まで真っ青になっていた。足からの出血が思った以上に酷い。

 激しい動きでまた傷が開いたんだわ。それどころか悪化してる。

 なにか止血できるものは、と周囲を確認したけれど役立ちそうなものはなかった。


 私は自分のスカートをタオル代わりに傷口に押し当て、全体重をかけて止血を試みる。――けれどこのままじゃどうしようもない。


 あの酒場の店長さんなら協力してくれるかも。

 けれど、ここからどうやって呼べばいい?

 そう狼狽えていると、私の耳にレネの声が飛び込んできた。


「ヘルガ! 遅くなってごめんよ!」

「レネ!」


 暗い道の向こうから駆けてきたレネはフード代わりの布だけでなく、なぜかあちこちボロボロになっていた。

 しかも誰かに突き飛ばされでもしたのか頬が青くなっている。


「酒場の乱闘が道端の連中にまで伝播してしまって、邪魔をされ――、っ! これはいったいどういう状況なんだ……?」


 出血して倒れたお父様、うずくまる私、そしてレネからすれば見知らぬ女性が酷い状態で倒れている光景に彼は目を瞬かせた。

 けれど詳しくは説明していられない。急いで用件を伝えないと。


「お、お父様の止血をしたいの。なにかいい方法は」


 ない? と。

 そう問う前に全身を悪寒が走った。


 私とレネの間でアニエラが立ち上がる。それはまるで幽鬼のような動きだった。

 朦朧とした意識の中でもアニエラは復讐を遂げようと考えているらしく、眉根を寄せて殺気を迸らせている。

 けれど目がよく見えていない様子で、ふらふらしながらこの場にいる『子供の姿』を探していた。


 そして私より大きいとはいえ、レネの背格好は私によく似ていた。


「レネッ!」

「……!」


 飛び掛かるアニエラの姿がスローモーションのように見える。

 けれど私が素早く動けるわけでもなく、瞬きひとつの間にレネはアニエラに噛みつかれていた。

 人間の歯とはいえ禁薬で強化された顎の力は凄まじい。


 私の叫び声にお父様が上半身を起こす。

 しかし再びナイフを手に取る前にアニエラは力尽き、レネに覆い被さったまま力なく両腕をぶら下げた。


 その足元から流れ落ちた血は彼女だけのものじゃない。

 アニエラを突き飛ばし、呻きながらその場に倒れ込んだレネは肩に大きな傷を負っていた。直視できないくらい服ごとごっそりと無くなっている。


「レ……レネ! 大丈夫!?」

「ごめんヘルガ、僕が……迂闊に近づいたからだ」


 明らかにおかしかったのに、とレネは震える声で謝ったけれど、私はそんな言葉は聞きたくなかった。


 お父様もレネもこのままでは死んでしまう。

 私の夢のせいだわ。


 罪悪感で胸がいっぱいになる。

 私が大人しく殺される運命を受け入れていれば、そして平穏に暮らすことを諦めていればこんなことにはならなかった。

 そう口にし、私の方が謝るべきだと頭を下げるとレネが笑った。


「そんなことはないよ」

「レネ……」

「ヘルガの願いは、悪じゃない」


 絶対に。

 そう言ってくれたレネの目が虚ろになる。


 ――こんなのはだめだ。


「……あなたが認めてくれた夢を、私は諦めない」


 魔法でならふたりを助けるすべがあるかもしれない。

 私は自分の体の中の魔力に訴えかける。


「お父様も、レネも、ふたりのことだって絶対に諦めない」


 夢を持ったままふたりとも救いたい。

 魔力にそう訴えかける。

 影の魔法でどうすれば救えるのか私には思いつかなかった。――でも、そう、私にはもうひとつ家系魔法がある。


 眉根を寄せたお父様がハッとした声で叫んだ。


「ヘルガ、まだお前はそれを使えるような年齢じゃ……!」


 未熟な状態で使用した時のリスクは影魔法の比じゃない。お父様の声はそう感じさせる声音だった。

 けれど大きな騒ぎにせず、私の力だけで切り抜けるにはもうこれしかない。

 私は覚悟を決めて自分の中の魔力に訴えかけ続ける。


 このふたりを。

 大切なお父様と、大事な恩人を治癒して命を救いたい、と。

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