第20話 羽虫の下調べ

 影の羽虫はお父様と共に部屋を出る際に壁へと残していった。

 やはりヘラを出したままだと細かな命令は難しいので、ひとまず見つかりにくい物陰に入り込むように、とだけ指示しておいた。ヤモリの時のようにベストポジションを探さなくていいから少しだけ楽だ。


 そうして昼食を終え、お父様が剣の訓練に入ったのを見届けてから、私は家庭教師のドロテーアを見上げる。

 昼食の後は礼儀作法の授業があった。

 そろそろ座学として知識を溜め込むだけでなく実技に移る頃だが、ドロテーアの教え方は的確であり私も物覚えが良かった――この年齢にしては良かったので、授業としては予定より大分進んでいる。

 吸収のいい若い脳にノウハウを持った魂が合わさればこの結果も納得よね、二十歳過ぎれば只の人を体現することになりそうだけれど。

 兎にも角にもそんな状況なので――


「ねえドロテーア、じつはランチを少し食べ過ぎちゃって……お昼からの授業の開始時間を少しだけ遅らせてもらってもいいかしら?」


 ――こういった我儘を言うだけの余裕があった。

 ドロテーアはクールな面持ちながら困ったような雰囲気で答える。


「腹八分目を心がけてくださいと言いましたのに……」

「ごめんなさい、家族と一緒だとどうしても色んなものが美味しく感じられちゃって」

「そんなこと言って、あまり胃腸が強くはないのでしょう? お薬を飲んでいるところを何度か見かけましたよ」


 ギクッとしたがなんとか顔に出ないように堪えた。まさか見られていたとは。

 しかし私が言い訳をする前にドロテーアは「いいでしょう」と言って私に手を差し出した。


「本当に食べ過ぎたとしても、じつはお加減が良くないとしても、そして前者だった場合でもそのせいでお加減が悪くなる可能性があるなら……少しだけ長めに休憩してから授業に入りましょうか」

「! ありがとう、ドロテーア!」

「肉体が健全でなければ学んだことも身につきません。その代わり、しっかり休んだらサボらずお勉強してくださいね」


 お休みになられている間に次の授業の準備を入念にしておくので、とドロテーアはにっこりと笑う。

 私はそんな彼女と約束をし、休憩と称して開けてもらった時間を活かすべく自室へと戻った。

 そしてヘラを一旦帰し、ベッドに横になって羽虫へと意識を同調させる。傍目からは寝ているように見えるはずだ。


(ここは……本棚の隙間かしら? 良い子ね、見つからないところにしっかり隠れてくれたみたい)


 心の中で羽虫を褒めながら部屋の中を見回す。

 よし、お父様は帰ってない。


 羽虫の翅で飛ぶというのは鳥とはまた違った感覚だった。

 空気の抵抗感が少なくかなり素早く飛び回れる。視野が広いのも最初は戸惑ったけれど次第に慣れていった。視力が人間のものになることといい、魔法で何らかの調整がされているのかもしれない。

 まず鍵のありそうな場所を目視で確認。

 棚の隙間は……それっぽいものは無し。鍵専用の収納キーボックスらしきものも無い。

 鍵付きではないひきだしも机と棚のものがあるので、位置と数を覚えておく。さすがにひきだしの鍵を隠すための入れ物に鍵をかけている、ということがないといいけれど。


 ひきだしの鍵自体は閉め忘れている時に何度か見た。黒くて小さくて丸っこい鍵だ。キーホルダー的なものは付いていない。

 似たものがないかつぶさに観察していく。


(あれ……)


 机の上に羽ペンとインク、そして便箋が用意してある。

 しかし一文字も書かれていない。

 お父様の部屋は仕事にも使うため手紙を出す機会は多いけれど、もしかして暗殺の件に関しての返事だろうか。無地で質素な便箋が気になって凝視していたが、そうしていればお父様が書こうとしていた文字が見えるようになるわけでもないので、一旦見切りをつけて他の場所も見て回った。


 今回は鍵そのものを見つけられなくてもいい。

 自分で探しに入った時にスムーズに調べるための下調べなのだから、物的な収穫がなくても落ち込むことはないのだ。こうして探し回っている間にも情報は蓄積されている。


(ぱっと見えるところにはなさそう……だとしたらやっぱり自分で調べる時は鍵のない棚とひきだしと、時間があれば隠し場所になりそうな隙間や本の間とかね。そこにももしなかったら――)


 お父様が普段から持ち歩いている可能性があった。

 しかしあんなうっかりをするお父様だ、今まで一度も部屋の外で鍵を落としていないところを見るに可能性は低いような気もする。まあこれも実際に確認しないことには始まらないわよね。


 そうしてその日は下調べだけで終わり、目覚めた私は約束通りドロテーアの授業へと向かったのだった。


 レネが再びロジェッタ夫人と共に訪問する、そしてそれは一週間後だと聞いたのは授業後のことである。

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