第76話 あなたが耳を傾けるように選んだ言葉

 真っ先に火事の可能性が脳裏を過る。

 この世界に不用品を敷地内で燃やすことを規制する法律はない。でもさすがにこんな夜中に燃やす人はいないはずよ。

 体を強張らせているとレネが私の手を引いて立ち上がった。


「臭いがするのはあっちだ。けど厨房がある方角じゃないね」

「も、もしかして客室で火事とか? お父様たちに知らせないと!」


 はっとして顔を上げると、ちょうどお父様がお母様とお姉様のふたりを連れて階段から降りてくるところだった。後ろには侍女や従者たちが荷物を持って続いている。

 なんでもいち早く異臭に気がついたお父様が避難指示を出したらしい。

 閉め切られた客室じゃ談話室よりわかりにくいはずなのに、さすがお父様だわ。


 お父様は私に駆け寄ると「早く外へ避難しよう」と出入り口へと誘導した。

 ここでやっと宿の主人とスタッフたちが慌てた様子で現れ、他の客に事態を知らせるべく奔走し始める。


「逃げる前に窓から確認したが、各所で白い煙が上がっているようだった。とりあえず広場の方へ逃げよう」

「各所で!? あの、それは」


 人為的な放火という可能性があるのでは。


 そんなことを言いかけた私の背を押し、お父様は「考察は後だ」と外へと向かう。

 そうだわ、気になることは多いけれど火事の可能性がある時に屋内に留まったままのほうが危ない。私はお姉様の手を引いて一緒に外へと出た。


 しかし出た先の暗い道も人でごった返しており、切羽詰まった声や叫び声が聞こえてこなければ祭りかなにかだと思ったかもしれない。

 お母様が眉を顰める。


「こっちより北のほうに広い道があったはずよ。なんでこんな……」

「――火事。火事だって北から聞こえる」


 ざわめきの中からその声を聞き分けたお父様は私たちを連れて南下しようと足を進めた。しかし走って逃げる人々はパニックになっているようで、そんな混乱した人波を掻き分けて進むのは至難の業だった。

 転びそうになった私の体をレネが支える。


「ヘルガ、なにかおかしい。あれだけ煙たかったんだ、この近くに火の手もあるはずなのに燃えている気配が、……!」


 その時、北の方角から人々を蹴散らしながら走ってくる馬車が見えた。

 昼間にレネが調べてくれた他の貴族の馬車だ。一瞬やっぱりお祖父様だったのかと思ったけれど、どうやら我先に火事から逃れようと無理やり走ってきたようだ。

 幸いにも軽傷者しか出なかったようだけれど、馬のいななきと悲鳴が更に恐怖心を掻き立てたのか、周囲の混乱は一層深まる。


 その時、手首をぐいっと引かれた。


 またレネやお父様かと思ったけれど、その荒々しさは絶対にふたりじゃないと一瞬で私に確信させる。

 驚いて振り返るとフードローブを目深に被った知らない人がいた。

 背格好と手の感触から男性だということはわかるけれど、それ以外の情報はない。


 不審者のことを思い出した私は本能的に竦んだ体を無理やり動かして逃げようとしたものの、避難しようと走ってきた人に思いきりぶつかられて視界がぶれる。

 両足が浮いたのはその時だった。


「ヘルガ!」

「レ……」


 名前を呼ぶ前にフードローブの男に担ぎ上げられ、肺が圧迫される。

 誘拐されそうになった瞬間のことがフラッシュバックした。でもあの時の二の舞にはなりたくない。

 でも今回は――こんな状態で影のヒョウを呼び出したら、パニックを起こした人たちがどんな反応をするかわからなかった。上手く動けないし上手く対策も取れない。


 もしかして、この状況もこの男が作り出したんだろうか。


 血の気が引く中、担がれても思い切り暴れたものの男はまったく揺るがず走り出す。レネが剣を抜くのが見えた。

 その一閃は的確に男の足を狙っていたけれど、男は殺気で予想したとでも言いたくなるような動きでそれを避ける。そこへ飛んできた二撃目はお父様のものだ。


 人々に邪魔をされながらも壁を蹴り、男の前に着地したお父様は切っ先を向ける。

 しかし男はそれに怯むことなく両足に力を込め――暗澹とした空に向かって跳んだ。そう、ただのジャンプだったはず。


 なのに屋根があっという間に下方へ消えて、男に担がれた私は思わず悲鳴を上げた。ヘラの視点で高所には慣れているけれど不意打ちだと話が変わってくる。

 まるで私たちが跳び上がったんじゃなくて、家々が奈落の底に落ちていったかのようだった。


 次に襲ってきたのは落下による重力だ。

 腹部がひゅんとして息が詰まる。明らかに害がある人物なのに、男の背中にしがみつくくらい怖かった。吐かなかったのが奇跡だわ。


「ッ!」


 着地の衝撃と共に視界が回転する。

 気づけば私はボロボロな小屋の中に突き飛ばされていた。

 廃屋で人は住んでいない、とすぐにわかったのは屋内に生活感が皆無だったからだ。それでも残された家具には数少ない生活感があったものの、暗闇に目を凝らすとそれらはすべて朽ちていた。


 それなのに、小屋の中から人の気配がする。

 後ろでドアの閉まる音と鍵のかかる音がした。つまりさっきの男はまだ後ろにいる。その向かい側、つまり私の真正面に――誰かが座っている。


 ああ、と納得した。


「……この騒動は……私を攫うために仕掛けたことなんですね、――お祖父様」


 人々の喧騒が遠い。

 レネやお父様からも遠く離されてしまった。

 どこにあるかもわからない小屋の中、部屋の真ん中に置かれたイスに静かに腰掛けていたのは……やっぱりお祖父様だった。

 少し疲れた顔をして、いつもより覇気が薄いけれど燃えるような意思を宿らせた目だけはしっかりとこちらを見つめている。


 お祖父様はほんの少し意外そうな声音で言った。


「思っていたよりも落ち着いているな」

「慣れているので」


 慣れた。慣れたわ。でも怖くないはずがない。

 自然と震える息を押さえつけて平常心に見せかける。助けがくるのかわからないから、自分でどうにかしなくちゃならないのもあるけれど。


(私は……)


 この状況でも、ぎりぎりまで和解を目指したかった。

 ここならいざとなれば影のアニマルたちを呼び出せる。周りにひと気が感じられないからパニックを誘発する危険も少ないはずよ。

 人間かどうか疑いたくなるような動きをした男が気になるけれど、それでも隙をつけば廃屋の壁くらいなら壊して逃げられる。


 ――戦闘訓練なんてしていない私にそこまで咄嗟の判断ができるかはわからないけれど、どのみちこの場でできることは限られているわ。


(だから怯えてはだめ。冷静にならなきゃ)


 這いつくばったままお祖父様を見上げる。

 この状況だからこそ話せることもあるわ。

 私は固まりそうになる舌を動かし、少しでもお祖父様がこちらの話に耳を傾けるように――興味を引かれるように言葉を選んで、それを口にした。


「お祖父様が私を忌み子と呼んで疎んでいること、私は七歳の頃から知ってました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る