第41話 秘③



 

 

「やっぱり青竜は神様の生まれ変わり、生き神様じゃ」


「青竜がこの村にいてくれて良かった。ありがたい事だ」


「物の怪の子だなんて誰が言ったんだ、罰当たりめ」


 田畑が襲われなくなり、村に平穏が戻ると村人たちはまるで自分たちは初めから青竜を信じていたのだと言わんばかりに大げさに感謝した。


 紅い髪の鬼の横には瞳の奥に青い海を携えた美しい少年が座る。二人は神の泉の裏側にある倒木に腰を下ろして清らかな源泉を眺めながら話していた。


「紅生、本当にありがとう。村の皆も喜んでるし母ちゃんも俺の変な噂がやんで安心してるよ」


 青竜はそう言って紅生を見た。清潔な着物を身に纏う凛々しい顔立ちの麗しい男には立派な角が生えていて、精霊の王が具現してそこに座っているようだった。


「三人が助かって良かった。俺は彼らを山から下ろしてきただけで医者を呼んだのはお前だ。医者の処置が遅ければ命は危うかっただろう。お前が助けたようなものだ。俺は結局何もできなかった。それにしても人間はやはり現金だな。お前の噂を流布していたのも同じ村の者だろうに。腹は立たんのか」


 青竜は肩を竦めた。


「俺、昔自分は特別なんだって偉そうばって悪戯ばかりして随分皆に迷惑かけたんだ。罪滅ぼしみたいなもんだよ。三人助かったなら今までの悪戯全部帳消しかな、へへっ。今度は俺の番だな」


「お前の番?」


 紅生は首を傾げた。


「一度話しただろう、牛鬼って妖怪を助けたら命を掛けて俺と田んぼを守ってくれたって。土倉から救ってくれた紅生に俺が恩返ししないといけないのに逆に助けて貰ってばっかりだなと思って。恩返し、何がいい」


 紅生は首を横に振って笑った。


「恩返しをするのに何が良いと本人に訊く奴がいるか。フッ」


「何だよ、恩返しされるならして欲しい事をする方が良いに決まってるだろう」


「俺に恩返しなど不要だ。何も困っていない。気持ちだけ頂いておこう。お前は何かあれば遠慮なくいつでも言うといい。青竜の頼みならば何でも受け負うぞ。全ての困り事を解決できるわけではないが、最善を尽くす。お前の役に立てるだけで嬉しいのだ。俺は青竜専属の鬼の神だからな」


 優しくそう言われて青竜は俯いてしまった。


「どうした」


「いや、なんか……」


 耳まで真っ赤になった青竜は顔を上げられなかった。


「何だ」


「俺専属の神様って言うのがくすぐったいっていうか恥ずかしいっていうか……」


「お気に召しましたか、生き神様」


 紅生が楽しそうに顔を覗き込むので青竜は紅生の顔を手で覆った。


「揶揄うなよ、俺は神様じゃないって言っただろ。何も特別でありたいなんて思わない。平穏に生きていけたらそれでいいんだ。できれば母ちゃんも元気にしてやりたいけど……」


「それは……すまん、俺の力では及ばぬ事だ」


 青竜の手をそっと下ろしながら紅生は申し訳なさそうに眉を下げた。


「謝る必要なんてない。紅生にどうにかしてもらいたいって思ってる訳じゃないよ。父ちゃんが出てったのも俺のせいだし」


「お前のせい?仲違いでもしたのか?」


「いや、戻ってきても、もしかしてまた俺に……」


「どうした」


「やっぱりこの話はいい、ごめん」


「何だ、気になる。話してみろ」


 紅生が近づくと青竜は後ずさりした。瞳の奥の紅い炎が燃えるように揺らぎ青竜はその熱さを感じて息を吞む。


「どうした、顔が赤いぞ」


 耳に意識をやればいつもより早い青竜の鼓動が聞こえる。紅生は青竜の一挙一挙を逃さぬように見ていた。頬を擦り寄せて平手を喰らったあの夜から無闇に触れないようにしている。青竜の側にいられる時間が至福の時。それ以上は何も望むまい。だが自分を律しても愛しさは募るばかりだった。


 恥じらう姿がいじらしい。何も求めぬ無垢な存在。自分のことは二の次でいつも母親を思う優しい青竜。そんな彼の求めるものは平穏な暮らしだ。美しさ故に降りかかる火の粉も禍も、過ぎてしまえば過去のものと、転んで傷ついても前を向いて進んでいく。死にゆくからこそこんなにも懸命に生きるのだろうか。童子であった頃も今も、愛しい者の為に死ねるのならそれこそ本望だと思うのに、青竜を見ていると生きている事が尊いのだと知る。


 いつも青竜の事ばかりを考え、次に会える日はいつだろうと指折り数える感情は、いつまで抑えておけるだろうかと自問するが答えは出ない。想い人に心を打ち明けずにいる苦しさは生き続ける限り続く。しかし青竜は普通の人間、不老不死ではない。そして自分は鬼。共に過ごせる時間は限られている。ならば今言わねば後悔するかも知れない。許されぬ想いでも構わない。今伝えておかなければならないような気がして、紅生は青竜の手をそっと握った。

 

「恩返しと言う訳ではないが、許して欲しい事がある」


「許す?何を」


「俺の様な鬼が、人を愛する事を」


「人を愛する事?鬼は人を愛しちゃいけないのか」


「鬼は人の精気を喰らい生きていく。人と鬼とは相容れぬもの。鹿と獅子が共に暮らせるわけがない。鹿に焦がれても獅子は獅子。腹が減れば鹿を食ってしまうだろう。共に過ごす訳には行かない。だが許されるなら俺はお前の傍にいたい。お前の事が愛しい。お前を愛する事を、許して欲しい」


 青竜は目を見開いた。何故紅生が自分の許しを請うのか分からない。


「どうして俺の許可がいるんだ」


「愛する罪を許して欲しいのだ」


「どうして罪になるんだよ、わかんねぇ」


「俺は鬼、お前は神の一部を宿した清廉なる人。俺が傍にいていい訳がないのだ。おれおまえを愛することは罪なのだ。だが抗えなかった。お前のその清い心は濁りなく美しく、穢れた俺の血と心を洗い流し、俺が存在する事を許されているような気がする。傍にいるだけで力が湧く。ずっとお前の傍にいたいと願う。だが叶わぬ。だからお前を愛する事を許して欲しい。それだけで俺は……」


 向き直ると青竜は紅生をじっと見つめていた。


「青竜……」


「俺の事を愛しているというのは、俺が神様と同じ顔だからじゃないよな」


「当たり前だ。お前は怒りっぽいし、すぐに叩くし、ちょっと臆病で」


「おい」


「そして母親想いで優しく、恥ずかしがりの、歯を見せてよく笑う美しいおのこだ。同じ顔をしていても神とは似ても似つかぬ違う人。俺が慕うのは青竜、お前だ」


 真っすぐに目を見つめて言葉を紡ぐ紅生の肩にそっと腕を伸ばし青竜は逞しい胸の中に顔を埋めた。


「青竜……」


「俺、紅生を見ると心の臓が煩いほど鳴る」


「俺もだ……」


「毎日夕陽を見る度に紅生の髪の色を思い出す」


「俺は瑠璃色の黄昏時を見る度にお前を想う」


「そんでもって、紅生が頬を摺り寄せてきた事を思い出すと腹の下がちりちりするんだ」


「青竜……」


「俺、紅生と同じ気持ちだと思う」


「無理はしなくていい。ただ許すと、そう言ってくれればいい」


「無理なんてしてない。俺の許しが必要な事なんて何もない。お前は俺を愛してるんだろう。それが罪でも何でも、もうそうなっちまったんなら仕方ねぇんだよ、きっと」


「青竜……どこまでも潔い男だな」


「普通だよ」


「いや、お前ほど真っすぐな人間は師匠以来初めてだ。お前に出逢えた事を、神に感謝する」


「師匠って誰だよ……感謝するのは俺にだろう」 


 青竜はそう言うと紅生の唇に自分の唇を押し当てた。


 熱い波が押し寄せるように紅生の中に精気が流れ込む。青竜は普通の人間、そう思っていた。だがその唇から伝わる精気は感じたことのないほど濃く甘い精気だった。唇から耳へ、耳から頭の先へ、そしてそのまま肩を下りて指先まで走り抜けた気が腰に到達すると紅生は座っていたのにガクンと腰が抜けたように腹を竦めた。


「どうした」


「いや、お前の精気が余りにも甘いので腰が抜けたようだ」


「何だよ、それ。俺がまるで子どもだから甘いみたいな言い方じゃねぇか」


「……そういうお前の幼さもまた魅力的だ」


「なんだと!」


 怒る青竜の振り上げる拳を掴んで、今度は紅生が優しく青竜に口づけた。


 


 *




 静かな森の中、ぼたぼたと水分が土に落ちる音がする。だが小さな水滴が落ちる音など泉の水が流れていく音にかき消されて誰も気づかない。


 その音は、紅い鬼と美しい少年が泉に着いた時から始まっていた。二人が笑う度にぼたぼたと落ちてくるそこには水溜りが出来ていた。真っ赤な、深紅の水溜りだ。


 敬翠はそこにいた。二人が来る前からずっと木の陰に隠れて気配を殺し、獣の匂いを体中に擦りつけて誰にも見つからないようにじっと動かず待っていた。


 愛しい人の笑顔が零れる度、自分以外の者に向けられる度、己の拳を握り締める。握り締めた手の間から零れ落ちるのは真っ赤な血。


『兄様……』


 敬翠は声を殺して涙を流した。拳の中の傷はすぐに癒え、痛みも消えてしまうのに、心の傷は深く深く敬翠を傷つけていつまで経っても痛みが消えない。


『兄様、私の紅生様……

 どうして……私では駄目なのですか

 私はもう必要ありませんか……』


 手から赤い雫を零しながら敬翠は彷徨うように歩き出した。







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