第38話 雨②
紅生はそのまま青竜を抱き上げて彼の両足を自分の腰に跨がせた。息が上がり、腕に力が入る。心臓の鼓動は頭の中で雷のように五月蠅く響き、目は爛々と赤く光っていた。持ち上げられた青竜は紅生の形相に吃驚して厚い胸板に手を突っぱねる。
だがその抵抗をいとも簡単に指で払うと、紅生は青竜の白い頬に自分の頬を擦り寄せた。そのまま首筋に噛みつくのかと思う程鼻から勢いよく馨りを吸い込んで、獣のように大きな息を吐いた。頬は冷たく心地が良いと紅生はもう一度頬を摺り寄せようとしたが、青竜は真っ赤になって睨みつけ、バチンッと紅生の頬を叩いた。
「離せ!」
紅生は一瞬で我に返り何度も目を瞬かせた。
「す、すまん、無意識に……」
「何が無意識だ、下ろせ!」
紅生は力を緩めてそっと青竜を床に下ろした。青竜は凄い剣幕で怒っている。
「お前俺をどうするつもりだ」
「ど、どうする……何もしない!」
「嘘つけ!頬摺り寄せて俺にいやらしい事しようとしたんだろ!」
「そんなつもりは……」
「いや、しようとしてた。俺、そう言うの分かるんだ」
そう言いかけて青竜は後ろを向き、白衣の前を閉じて帯を締めた。耳が真っ赤に染まって肩が小さく震えている。
「青竜、すまない……許してくれ、この通りだ」
紅生は膝をついて頭を垂れた。無意識とはいえ、青竜を怖がらせてしまったのかと思うと申し訳なくて堪らなかった。肌に触れただけで理性を失うとは。酒泉が見ていたら不甲斐ない奴だと笑い飛ばしているだろう。
青竜を見上げると、美しい顔に似つかわぬ形相で紅生を睨め付けていた。しかしその怒り方が何とも子供っぽく可愛らしく見えて、紅生は不謹慎にも微笑んでしまった。
「おい、俺怒ってるんだぞ」
腕を組んで怖い顔をしているがちっとも怖くない。
「いや、本当に申し訳なかったと思っている。ただ、お前が余りにも愛らしいから……」
「愛らしい?反省してないのか。もうお前と逢うの今日で止めだ」
「そ、それは困る!」
「何で困るんだよ」
「お前と、もっと……一緒に過ごしたい」
「俺の顔が好きなヤツにそっくりだからか。だから俺にいやらしい事しようとしたんだろ。お前の目的はそれか」
「違う!弁財天神様にそのような大それた事をした事もない。神はもっと厳かで怒る事もなく歯を見せて笑う事もなく、ただ静かに人を想い、世を憂いておられる崇高な存在だ」
「何だそれ。俺は俗な存在だって言いたいのか?だから手を出しても良いって事かよ」
「そうではない。ただ、お前と神は違うと……」
神と瓜二つな顔に魅かれた事は間違いない。ずっと寵愛を受けていたい、ずっと神に仕えていたい、叶うなら自分の命が尽きるまで傍にいたいと願った。麗しい容姿に天眼を持つ無敵の完全体。自分の命など、神の為なら投げ出して良いと真剣に思っていた。
しかし青竜と時間を過ごす程に、初めこそ混同していたが、神を想う気持ちと青竜といる時に生まれる感情は似て非なるものなのだと自覚し始めていた。今まで抱いた事の無い、激しく生々しい人間らしい感情だ。まるで感情が孵化したような、いや、これを鬼の本性と言うのだろうか。
神様、童子様、救世主様、半妖、鬼、畜生。今まで色んな呼ばれ方をされてきた。崇められ、持ち上げられ、蔑まれ、疎まれ、周りは呼び名が変わる度に態度を変えた。
人の役に立ちたかった。姉弟たちを守りたかった。不完全な自分を認めて欲しかった。だが鬼を殺し物の怪を退治し、返り血を浴びて苦しんでも、角が生えてしまえば鬼だと恐れられ蔑まれた。半妖であるが故に湧きたつ鬼の血を聖なる力で抑制しても、血に抗えず鬼となり、神に見捨てられた情けない鬼を蔑むことなく同情するでもなく、ただ真っすぐに見てくれる青竜の存在は他の誰とも違っていた。彼といると封印していた酒泉の笑顔でさえ蘇る。青竜だけが自分を対等に見て、枠を超えて恐れる事無く真っすぐに向き合ってくれる。悪い事をしていたら悪いのだと教えてくれる。彼の前ではありのままで居ても大丈夫だと思えた。
「青竜、もっとお前を知りたい」
紅生は真摯に伝えた。雷はまだ鳴り続けている。
「な、何だよ、いきなり。俺まだ怒ってんだぞ」
「俺はお前といると自分でいられる気がするんだ」
「何勝手な事言ってるんだ」
「勝手でもいいだろう。お前をもっと知りたいし、俺の事をもっと知って欲しいと思う」
「鬼の神様なのに変な事言うんだな」
「ああ、俺は変な鬼だ」
「自分で認めちまってどうするんだよ」
縋る様な目で見つめる紅生を見て青竜の心臓は鼓動を速めた。食べられるかと思って怖かったはずなのに、恐怖よりも熱が体を支配していた。自分の掌から水を飲んだ美しい鬼の唇が近づいて、そのまま口を吸われるのかと思った。熱い体に抱きすくめられ、肌が重なり、何かを期待している自分が怖くなった。そしてよく知りもしない自分を求めるのは慕っていたと言っていた神様と自分の顔が同じせいだからだと思うと無性に腹が立った。でも神とは違うと、もっと知りたいと言われて許してやらないでもないと思った。
「じゃぁ約束しろよ。俺を食べないって」
「誓う」
「無意識に抱きつくのも無しだ」
「善処する」
「そこも”誓う”だろ?」
「お前は良い匂いがするんだ。鬼には堪らない」
「だからって無意識に色々されると困る」
「俺は人間を食べた事はない。心配するな」
「なら、いいけど……」
「いいのか」
「いいよ!」
ふんと青竜は紅生に背を向けたがもう怒っていなかった。
二人はお堂の中で夜通し話し込んだ。雨で月明りは見えずとも紅生の心の中にはぼんやりと明かりが灯り始めていた。時折中から笑い声が聞こえ、青竜が眠いと言い始めた頃に雨は止み、紅生は青竜を家まで送った。
「この水瓶をひっくり返しておくんだな」
そうして合図を確認して、青竜が家に入るのを見届けると紅生は帰路についた。
*
同じ雨の降る夜、町の外れにある人気のない寂れた寺の中に褥が敷いてあった。中で二つの影が蠢いている。頭巾を被った美しい男は身体を揺さぶられながら、もっと欲しいとわざとらしく甘い声を上げ、体躯の大きな男は汗だくになりながら美しい男の両腕を捉えて腰を打ち付け嬉しそうに囁いた。
「具合が良いとは聞いていたがここまでとは……また、逢ってくれるか」
「約束を守れるなら」
「守るとも」
そう言いながら白い肌を弄られ下卑た笑みを見せられると、頭巾の男は吐き気をもよおした。しかし事が終わるまでは我慢する。善がるのは相手を刺激して興奮させる為。相手の強い欲情は濃い精気を生む。
全ては彼の為だ。精気を分け合うと称して美しい体に触れる為。その為には自分の体の中にいつでも分け与えることのできる精気を蓄えて置かなければならない。
愛しい方はまだ気づいていない。鬼は生きているだけで精気を消費し、それは減り続ける。交わっても精気は双方を行ったり来たりするだけで増えるものではない。身体の中に精気がなければ相手の精気を奪うだけ。減っていくものは補わなければ。鬼から精気は生まれはしないのだから。
彼は肌を重ねる理由を必要としていた。自分が欲しいと言わねば倒れてしまうまで精気を摂らない。稚児だった過去を気にしていつも体を繋げる行為を罪な事だと思っているからだ。半妖なのだから精気を採らなくても本当は生きていける筈なのに、一度人間の味を知ってしまったからにはそれなしではいられなくなった。口にしてしまったが最後永遠に渇望する。紅生は人だった敬翠の精気を貪り禁断の果実を食べた。そう仕向けたのは敬翠で、彼の渇きを癒すのは自分の責務だと信じて止まない。そして責務を果たすと言う言い訳で愛しい人と肌を重ねる事が出来るのだから全ては願い通りだった。
精気を分け合い、助け合っているのだと信じ込ませなければ体を繋げて貰えない。腹が減ったと言えば、傷塗れの美しい体で満たそうとしてくれる。本当は搾取しているだけだと知れば、二度と触れてくれなくなるだろう。だからいつも精気を補充しに町へおりる。人間たちを誘い、精気を吸って山へ帰る。
鬼だとばれぬようにツノを手ぬぐいで覆って隠し、相手にはいくらでも良いからと金や物を強請る。ただほど怖いものはないのだから怪しまれないようにしている。貧しいあまりに身売りをしていると思って貰えばそれでいい。こちらが欲しいのは精気だけなのだから。
薪を持って、森で薪を下ろし、町へ繰り出しては逢瀬を重ね、手に入れる金や物を薪と交換したのだと言って持ち帰る。必要なものを手に入れる事も出来たし怪しまれずに精気を補充する事が出来た。敬翠の持って帰る物の中に含まれる希少なものは大体が彼に惚れ込んだ男たちからの貢ぎ物だった。
色んな人間の精気を吸っている自分が浅ましい生き物に思えて初めはつらかった。こうする事でしか紅生の精気を補ってやれないのに、体中に消えない墨が彫られていて、その烙印がある限りいつまで経っても逃れられないような気がした。自分にはこれしか取り柄が無いのかと悲しくもなった。それでも紅生と肌を重ねれば、涙が出る程心が満たされる。
自ら鬼に堕ちたせいで憐憫の目を向けられている事も分かっている。だがこうするしか彼の傍にいる事が出来なかった。彼を悲しみから救う為には人間のままでは駄目だった。彼の肉を受ける強靭な体、長い命。精気を与え続けるには鬼にならねばならなかった。神であれば何でもできたのだろうが、生憎敬翠は童子とは言えただの人だった。
最善を尽くしているとは思わない。だが紅生の傍にいられる事を選んだ。だから体を売っている事も、嘘を吐いて精気を分け与えている事も、紅生には全部秘密だ。知らなくていい。
両親を亡くし妹を亡くし、友人を殺し、なりたくもない鬼に堕ち、神を羨望しながら苦しんで生きている紅生。牢獄から救ってくれた美しい生命童子の末路を醜い鬼などにさせはしない。醜いものを知らぬまま、美しいまま共に朽ちていくのだ。
「ああ、早くあの方の肌に触れたい……」
腹が十二分に充たされた夜半、雨は上がった。
敬翠は川に入る。
町や村に出かけた後はいつも皮膚がめくれそうになるまで何度も何度も体を擦って洗った。
どうせ家に着く頃には傷ついた皮膚も再生している。
鬼の体は強靭だ。
鉛のような心を引きずって敬翠は帰路についた。
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