第37話 雨
跪いて水を飲んだ際、神から命を受けた時の事を思い出した。だが頬を赤らめたのは神ではなく青い深淵の瞳を持つ優しい少年だった。
触れた手が熱く、そこだけ火傷したみたいに意識が集まる。ただの水を飲んだ筈なのに喉元が、腹の中が焼けて清められたように感じる。神の力だろうかそれともただの思い込みだろうか。
愛らしい顔が恥じらい、怒り、笑う。彼の表情一つ一つに心が揺れた。青竜は神ではなく喜怒哀楽を持つ人なのだと何度も何度も言い聞かされているようだった。もっと話していたかった。もっと見ていたかった。帰ろうと言われ寂しく感じた。反面その切なさが心地よく、生きていると感じた。
「美しい
紅生は知らず微笑んでいた。上弦の月はいつもより明るく夜道を照らす。別れ際、次にいつ逢えるかと訊いたらいつでも逢えると答えた。青竜の家は村の外れで神社に一番近い場所にあるらしい。戸を三度叩いて裏庭にある小さな茶色い水瓶の壺をひっくり返してくれればそれを合図だと思って泉へ向かうからと言った。青竜の顔の秘密を話してしまった今、逢う理由など何もないのに、二人ともまた逢うのが当たり前だと思っていた。次の上弦の日にと約束を交わし、後ろ姿でもわかるほどに耳を真っ赤に染めたまま振り返らずに青竜は帰っていった。
暫く思い出し笑いをしていたが家に近づく程に頬の緩みは消え、足取りは重くなっていった。敬翠の気持ちを知りながら青竜の事を正直に話さなかった呵責が足を引っ張る。何もなかったフリが出来るだろうか。自分でも正直自信がない。元々嘘の嫌いな
敬翠は寺から救い出されるまでずっと囲われた世界に閉じ込められていた。童子になってからも傍を離れず、鬼となった今も自分と暮らす。生まれたての雛鳥が初めて見た者を親だと思って付いて周るようにずっと自分しか見て来なかったから、きっと愛情をはき違えているのだ。だからいつまでも飛び方を知らないでいるのだと思った。
家に戻ると灯りは灯っておらず、紅生は無意識に胸を撫でおろし音を立てないよう静かに家の中に入った。褥が敷いてあり、敬翠は既に眠っている。暑さから雨戸は閉めずに開け放っていて、蚊帳の中で眠る端正な顔を月明りがぼんやりと照らし、寝返りを打つ敬翠は寝言を呟いた。
「兄様……」
敬翠の瞼から一筋涙が零れると紅生の心臓がずきんと痛んだ。
夢の中でも名を呼び、涙を流す程狂おしく思われている事に底知れぬ罪の深さを感じる。
咽び泣いて止めてくれと乞うても神と繋がる為と強いられた牢獄から彼を救った筈なのに、唯一童子であり続けた壮健な身を鬼に堕としめて、忌まわしい過去を思い出させる行為を強いている。
自分を探し出したりしなければ今頃普通に嫁をもらい、子を儲けて普通に生きていけたのに、自死も叶わず精気を貪りながら生き永らえる呪われた世界に彼を引き摺り込んでしまった。
他に頼るものを知らない美しい鳥は、鬼に魅入られて羽を失ったのだ。
美しい白い羽根をもいでしまったのは他の誰でもない自分。
助けた筈が生き地獄へ道連れだ。何という大罪。
紅生はそっと敬翠の頭を撫でて、置き去りにした弟の影を重ねた。弟の世話先は敬翠が探してくれた。何もかも彼に頼りっぱなし。なのにどれ程慕われ尽くされ求められようと、そしてその妖しい美しさと快楽に溺れてしまいそうになったとしても心の枷は外れない。同じように愛し返してやることができない。
鬼などに堕ちて、自分まで引きずり込んでどうしてくれるのだといっそなじってくれれば少しは気が楽になるのに、全て自分で選んだ道だ、兄様は悪くないのだと宥められると自己嫌悪が増して余計につらい。
「……お前が慕う男は薄情な奴だ」
掌を月光に翳し、透かして見た血潮に己の呪われた運命を視る。紅生はそのまま瞼を閉じて敬翠の横で眠った。
*
約束を交わした上弦の月の日、紅生は再び青竜に会いに出かけた。敬翠はまたですかと不満そうではあったが引き留める事はなかった。自分も町に出かけるからちょうどいいのだと言った。
見あげた空は薄暗く雲行きが怪しい。森の中に土や草の馨りが立ち籠め始め、空の色はどんどん暗くなっていった。普段はあちこちに
山を二つ越えた辺りでぽつぽつと木の葉に雫が落ち始め、しとしとと雨が降り出した。青竜が待ちぼうけて濡れてはならないと紅生は急いだ。濡れ落ち葉に時折足を滑らせながら走るが雨足はどんどん強くなり、到着した頃には雷を伴って
紅生は神社の裏側から周辺の様子を窺った。雨の中わざわざ神社へ来る人はそういないだろうがいつでも警戒しておかなければ見られたが最後、鬼が出たと村は大騒ぎになる。
覗いた先に予定外の先客は居らず、本殿裏の階段で雨宿りしている一人の少年の姿が見えた。
濡れた衣服の裾を絞り、濁った空を見上げている。稲妻が走り雷鳴が轟くと怖さからか両耳を手で塞いだ。紅生はゆっくりと近づく。
「怖いのか」
話しかけるとびくりと肩を竦めて、それが紅生だと分かると安堵した顔で頷いた。
「俺、雷嫌いなんだ」
「神立は怖いものだ」
紅生も着物の水を絞りながら階段に座る。
「うん……なんか、こう、腑の奥が浮くような嫌な感じがするんだ」
そう言って腹を押さえ青竜は肩を震わせていた。
雨に降られて濡れた体が熱を奪っているのだろう。紅生は草履を脱いで閉められていた本殿裏の扉を開けた。小さい神社だから神職たちは別の場所に住んでおり人は居ない。紅生は青竜にも入るように促したが、青竜は首を横に振った。
「勝手に入ったら怒られるよ」
「ここのご神体は人間達が造ったただの偶像だ。中に入ったからと言って
「でも……」
「俺は神に仕えていた男だ。お前よりは神事に詳しい。雨がさらに強くなって風も出てきた。このままではお前は風邪を引く」
有無を言わさぬ勢いで言われ、まるで悪い事でもしているかのように何度も中を覗き込んでから青竜はそっと中に入った。
ぼたぼたと水を零しながら紅生は勝手を知っているかのように作り付けの扉を開いた。中には神事を執り行う際、神主が身に着ける鮮やかな緑色の狩衣と白衣や袴が畳んで置いてあり、
「着ている物を脱いでこれを羽織っておけ」
「でも、これ神主さんの……」
「神主がこれを切るのは神事の時のみ。洗って返せばよい。」
青竜は言い返せずそのまま白衣を受け取り、濡れた衣服を脱ぎ始めた。
土砂降りの中を走ってずぶ濡れなのは紅生も一緒だが、紅生は風邪などひく事がない。体調が優れないと感じる時は精気が不足しているだけで、寒さにも暑さにも強い鬼の体は哀しくなる程頑丈だ。無駄に床を濡らしてはならないと自分も全ての着物を脱いで一度外で絞った。紅生が着れる大きさの衣服は無いからそのままま濡れた着物を羽織る。着物を脱ぎながら中から青竜が話しかけた。
「紅生は寒くないのか」
「俺は風邪をひかんから大丈夫だ」
『鬼だから』
そう声を合わせて言ったのが面白くて二人はくすくす笑ったが、次の瞬間一面が白く光り、空を割るような
「……っぁ」
「大丈夫だ」
声を飲み込んで体を強張らせた青竜を中に入った紅生が瞬時に引き寄せて抱きしめた。
青竜は湿気で滑りの悪い着物を羽織っただけでまだ帯を締めておらず、白衣の前は
雷の音は再び鳴り響き稲光が挿して本殿の中に鬼と人が抱き合う影を床に映し出した。
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