第19話 愛敬童子③-弓矢




 柚果には黙っていろと言われたが、山にはどんなものがいるのか知りたくなって寺の者に聞いて回った。大きな羽を持つ鳥は海の向こうにならいるだろうと言われたが海の向こうの意味が分からない。狸、狐、鼬は見た事があったが大きさが違うし、猪や鹿は木に登れない。ますます正体を暴きたくなって懸命に情報を集めようとした。余りに熱心に聞くので何か見たのかと和尚に聞かれ、大きな鴉を見たのだと話した。和尚は人を怖がらせるのが好きで、それは鴉天狗だろうと言う。天狗が何かを知らない鶴がどんなものかと聞くと、頭は鴉で背中に羽根があり人の体を持つ物の怪で可愛い子供や美しい人を攫っていってしまうのだと言う。鶴は怖くなって震えた。余りに怖がる様子を見せたので怖がらせすぎたと焦った和尚は、獣を殺してその肉を食べる狩人なる者がいるから鴉天狗なぞも見つけたら撃ち落してしまうだろうから安心しろと咄嗟に繕った。


 寺は殺生をしない宗派で、今まで肉や魚を食べた事がない鶴は肉がどのようなものか分からなかったが、弓矢で獲物を射てそれを食べたり、物の怪も射落してしまうなら狩人程強いものはいないのではないかと思った。すると今度はその狩人とやらが持っているという武器、つまり和尚が大事にしている弓矢を見たいと言いだした。字も読めない鶴は書物を何度も読み修行する小僧達とは違い、稽古を付けていても師範の都合上時間をもてあます。その時間を使って何度もしつこく頼むので和尚は大事にしている弓矢を触らせてやった。弦の張りや矢の羽を触りまじまじと見つめ、楽しそうに引っ張ったり射る真似をしてみる。これで獲物を狩るのですねと興奮していた。直ぐに弓矢を取り上げた和尚だったが暇が出来る度に触らせてくれと強請るようになった鶴は、断られると機嫌を悪くして部屋から出ようともしない。和尚も弓矢の手入れをして愛でるが使ったことはないし余り触らせたくない。しかし機嫌を損ねては儀式も嫌がり手間が増えるので、鶴を黙らせる為に絶対に人を傷つける様なことがあってはならないときつく言い聞かせて安い弓矢を用意して与えた。危なくないようにやじりは丸く加工されていて、弦は緩く撓んだ雑な作り物ものではあったが、鶴は飛んで喜んだ。


 毎日繰り返される修練という名の拷問から逃れたいと願うのに、逃げる勇気も度胸も持ち合わせず、全てを自分から諦めていた鶴だったがやっと楽しみを見つけた。遊ぶ振りをして弓矢を持って山中へ入ると緩んだ弦をぴんと張って、木を的に何度も練習を重ねる。そうして満足するまで打つとまた弦を撓ませて部屋に戻った。和尚が弓矢を愛でる様を気色悪いと思っていた鶴だったが、しなる弓で矢を射る時の高揚感は何とも言えず和尚に負けず劣らず丁寧に手入れして大事に使った。こんなに練習をしているのだから、もし鴉天狗に襲われてもこの弓矢で射落とせるかもしれない。狩人が来たら、もしかして自分を弟子にして連れ出してくれるかも知れない。そんな現実味のない妄想をしながらいつも山に入った。どこか楽しげになった鶴の様子を見て柚果は眉をひそめていた。


「おい、何をしている」


 木に向かって矢を射ようとして構えている後ろ姿に向かって声が掛けられ、鶴は飛び上がった。


「わぁっ!びっくりした。柚果、こんなところで何してるの」


「それは俺が今お前に聞いてるんだろう」


 鶴は辺りを見廻して柚果以外誰も居ない事を確かめると咄嗟に背中に隠した弓矢を見せて白状した。


「弓矢の練習、してるの……」


「そんなもん練習してどうするんだ。寺の奴ら皆殺にして逃げようってのか」


「そんな事する訳、ないでしょう」


「じゃぁどうすんだよ」


「別に……ただ射るのが楽しいんだ。だからしてるだけ」


 これで物の怪を打ち落とそうと思っている事や、狩人に出くわした際自分の弓の腕を認めてくれたら一緒に連れて逃げてくれるかも知れないという訳の分からない妄想を信じて練習しているなんて口が裂けても言えなかった。


「ふん、そんなもんの何が楽しいんだか。和尚の真似事みたいに紛い物の弓の手入れをし出したと聞いたからとうとう頭までいかれちまったのかと思ったが、矢を射て遊んでるなら、まぁ頭は大丈夫なんだな」


「酷い言いぐさ。柚果、口が悪くなった」


「悪くもなるさ、毎日捌け口にされてんだからな。口が悪くなったからなんだ。上品に振舞ってたってあいつらは止めてくれやしない」


「柚果……」


 淡い桃色の襦袢の上に白い刺繍の花紋様が入った白地の着物を羽織り、背中の襟元を大きく開いて噎せるような色香を漂わせる柚果は三年前とは別人に見えた。まるで三年で十も歳を経たように疲れた顔をしている。だが深い漆黒の瞳の奥には何かを秘めていた。それが何なのか鶴には分からなかったが噂に聞く妖鬼がいるとしたらこんな眼をしているんじゃないかと思う程綺麗で冷たい視線を投げて柚果は森の中へと足を進めた。


「どこ行くの」


「お前には関係ねぇだろ」


「もうすぐ夕餉だよ」


「あいつらは褥の時間に俺が居りゃそれでいいんだよ。何が御稚児様だ」


 振り向く事無く吐き捨てるように答えて去っていく柚果の気持ちが全部ではないが鶴にも分かる。柚果はきっと自分よりも辛い想いをしている。まだ小さい自分は修練のみだが、柚果は大人も相手にしている。柚果の苦痛を想像するといたたまれない。そしてその道はいずれ自分にも回って来るのだからこのまま逃げてしまいたい。だが逃げればどうなるか分からない。自分一人で生きていける訳もない。字も読めないのだからどの道誰かの世話になり、身体を使って生きていく事しか想像できない。であればこの寺に居る方が衣食住に困る事なく生きていけるのではないか。閉塞された世界で生きている鶴が思いつく事などたかが知れていた。柚果と兄弟の様に育ったと思っていたのにここ三年碌に話もしていない。幼い自分のせいで柚果一人が全ての捌け口を担っている事が腹立たしいのかもしれない。


「ごめんね、柚果」


 そう背中に投げかけたが柚果はとうに姿を消していた。鶴は必死に弓矢の練習を続けていたが、鶴が柚果と同じ苦しみを味わうのにそう長くは掛からなかった。


 *


 逢魔時になると白い社の中からくぐもった声が聞こえる。くつわを嵌められ言葉を発する事はできないのに苦痛に耐えられず音は漏れた。静かな山間に建てられた寺に夜近づく者は居ない。ただひたすらに堪え、時間が過ぎるのを待つばかり。

 事が終われば儀式が終わったと名ばかりのお経を唱えられ、満足そうに僧達は寝床に就き、怠い体を休める十一になった神の遣いは枕を濡らした。


 ――こんな辛い毎日を柚果はどうやって耐えたのだろう。


 別の部屋に移ってしまってから彼がどんな風にこの痛みと悲しさを受け止めてきたのか鶴は知らない。きっと心細かったに違いない。なのに柚果はその涙さえ鶴に見せる事は無かった。兄弟のように育ったはずなのに、そう思っていたのは自分だけなのか、同じ境遇の者同士支え合えないものか。柚果を頼りたい気持ちがある一方、一人で耐えてきた彼の事を考えれば自分だけが甘えて慰められたいと思う事は我侭にしか思えない。やはり一人で耐えなければ。鶴の苦しい日々は続いた。


 その年の夏から寺では変な事が起こり始めた。馬小屋から馬が放たれて逃げてしまったり、屋根の瓦がいくつも落されて叩き割られていたり、枯山水がものの見事に泥まみれにされていたり、仏像が倒されたり。悪戯のように思えたがどんどん酷くなっていく。墓石が倒され、僧侶の服がずたずたに切り裂かれ、とうとう馬の内臓が食べられるような凄惨な事件まで起きた。増長する悪戯は夜中に起こるようで夜に寝ずの番をしても犯人は見つからず悪戯は収まらない。これは困ったと和尚は鬼退治をしているという童子を呼んだ。


 竹で出来た笠を被って二人の童子は寺を訪れた。一人は見上げるほどの大きい男でその体を上回る長さの薙刀を背中に背負っている。もう一人は彼より幾分背は低いがしっかりとした体つきで腰に大きな剣を差し凜として志学の歳の頃に見える青年だった。


「和尚様に弁才天神に仕える童子が参ったとお伝え願えますかな」


「はい、今すぐに!」


 門前で掃除をしていた小僧は話しかけられると、童子が持つ神聖な気に当てられたのか一瞬で顔を真っ赤に染めて本堂はあちらですと指差し、慌てた様子で和尚を呼びに行った。本堂の中に入った二人は笠を取り、御本尊の前に胡坐を掻いて座って待った。開け放たれた戸から風が吹きぬけお堂の中を一巡すると線香の匂いが立ち込める。黒い鳶色の床は毎朝磨かれているのだろうぴかぴかに光っていた。


「随分奥まった場所にある寺ですね、師匠」


「うむ。その割には随分と立派な本堂だ。きっと敷地の奥には酒造があるぞ」


「またお酒ですか」


「僧侶は酒を造るらしいからな」


「まったく酒を飲まずに動けませんか」


「ワシは酒を呑む程に強くなるのだから仕方ないだろう」


 呆れ顔の青年の言葉を聞いても反省の色を見せずに男はがははと笑う。それを見て少し笑った青年は中央に座する如来を眺めて自分の崇める神を思った。直ぐに和尚はやってきた。


 「これはこれはよく来てくださいました」


 音静かにしかし急いだ様子で和尚らしき人物は袈裟の紐を括りながらやってきた。そのまま二人の前に正座をして座り、恭しく禿げた頭を下げる。


「此度は遠路はるばる、足を運んで頂きありがとうございます」


「鬼の悪さに困って居られるとの事。我らが来たからには安心なされませ。ワシは酒泉童子と申す」


「童子様に助けて頂けるなら心配無用ですな」


 そう言って袖から布を取り出し額の汗を拭きながら和尚はちらりと酒泉童子の横に座る美しい男を見た。


「こちらは……」


「歳は若うございますが、力は鬼にも負けぬつわもの、生命童子です。実践を多く積んで貰おうと思っておりましてな、此度鬼と闘うのは彼。ワシはお目付け役です」


「生命童子です」


 青年は背筋を伸ばしたまま軽く頭を下げて清らかな目で和尚を見据えた。


 




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