第33話 多生



 新しい名はしっくりこなかった。敬翠けいすいなんて仰々しくてあまり好きじゃない。だけど鶴という名前じゃないならなんでもいい。ただ前の名は童子の頃を思い出すから、二人とも新しい名を貰えたのは良かった。名前が変わっても相変わらず「敬」と呼ばれるので自分は変わり映えしないが、生命様というのはどうも言いにくかったし、「紅生べにお」は響きが良くて今の妖艶な彼の姿にぴったりだと思った。


 紅生は弁財天神が告げた別れを受け入れられずにいた。ふとした時に思い出して本当にもう会えないのだろうかと哀しそうに溜息を吐く。その姿は見ていて痛々しく、敬翠にしてみれば恋敵が消えたようなものだったが、愛しい者が悲しみに耽る姿を楽しむ趣味はない。物の怪たちや怖がる小鬼たちを捕まえて色々と聞いて周ったが、どこの国に行っても神はもう下界には下りて来ないのだと嘆いてた。何でももう人の願い事さえ聞き入れないとの噂だった。それでも七福神に選ばれた神であり、国中に社や祠があるため信仰は途絶える事無く、水害が起きる度に祈祷が行われたり供え物が捧げられるため弁財天の力は変わらず維持されているようだった。


「紅生様、やはり東の国でもあの夜以降、神を見た者は居ないそうです」


 そう報告すると紅生はまた深い溜息を吐いた。


 紅生の想いがどれ程燻ろうと、弁財天は姿を現す事なく、焦がれる男へ救いの手は伸ばされない。


 あの夜、そのまま弁財天の後を追ってどこかへ行ってしまうかと思うほど狼狽えた紅生だったが、神がいい加減な事を宣う訳もなく、月日が過ぎるごとに本人は受け入れようと努めて、今や諦めに近い心持でいるようだった。


 童子であった事を忘れ、鬼である事を忘れ、神を思い出さないように過ごす為には、常軌を逸した行為に走らぬよう人がするように日々の暮らしを少しでも人間の頃に近づけて過ごした。夜中にぎらつく本能を抑えるために朝早くに起きて自分たちで切り拓いた畑で働き、殺生はせずに満たされぬ食べ物で腹を満たし、人と関りを持てないため隠居者のような生活を送っていたが、敬翠は不満なく寧ろ今まで以上に幸せだった。


 気高く、悲しみを背負った美しい獣である紅生を慰められるのも、満たしてやれるのも自分だけ。人の為、神の為と偽られ、苦しく孤独な世界に閉じ込められていた自分を救い出してくれた麗しき救世主は、自分だけを見つめ、頼ってくれるようになった。彼の役に立ち、彼の孤独を癒してやれる。彼に必要なのは自分一人だと思うと敬翠はなんとも言えない独占欲に心が満たされた。


 稚児の頃にあれ程嫌がっていた行為も紅生とならば愛しい行為となり、二人にとっては必要なであるという言い訳が成り立ち、他者を傷つける事なく完結されるそれに罪悪感は不要だと、どこかしら抵抗感を持っているような紅生に敬翠は説明した。紅生は敬翠までも鬼へと貶めた己の存在に罪を感じており、鬼に必要な精気の摂取食事を嫌がることは決して無かったが、愛しさ故に体を繋げているのではないのだという姿勢は変わらなかった。


 それでも敬翠は不自然に思われぬ程度に食事の回数を増やしていった。鬼は精気を喰らう生き物。人よりも性欲が強い。回数が増加すれば否が応でも愛してくれるようになるだろうと踏んだ。 


 曇りのない瞳のまま体を貫かれると自分の罪穢が消えていく気がする。許されそして愛されているのだと身勝手にも感じられた。


 彼のために鬼になった事はやはり間違いではなかった。精気を貪られても人のように簡単には死なず、無理をしても鬼の肉を受け入れられる同等の強靭な肉体。そして何より彼を孤独にさせずに共に生きていける長い命。自分の抱える罪など、彼を愛するためならば幾らでも被っていられる。敬翠は甘く切ない余韻に浸りながら、互いの体が朽ち果てるまでこうして居られると、そしていつかは愛してくれると信じて止まなかった。


 *


 神を探す事を止め、人のように暮らし始めて十五年程が過ぎたある日の事。敬翠はいつもの様に背中に大量の薪を背負い山を下りて行った。自分達では作れない米、糸や布、鉄器は町へ降りて調達せねばならない。紅生は角が目立つのでどれ程深い竹笠を被ったとしても鬼である事を誤魔化せないため町に降りるのは角の短い敬翠の仕事だった。


 敬翠は薪を売る際に商人たちと沢山話をするらしく、見聞きした事や町で流行っている事、旅人との面白い話や、時には薪と交換したにしては高価過ぎると思えるほどの珍しい渡来物の香物や布を持って帰ったりした。 

 

 人の世界で起きている事の幾分かを敬翠が話してくれる事で世の中と間接的に関わり合いを持ち、人であった事を心に繋いでおきながら、紅生はたまに他の人間と話したい気分になった。人目を惹く赤い髪と長い角のせいで紅生はずっと山籠もりを続けている。人を見かけても怖がらせてしまうだろうと自ら身を隠しているので、鬼となってからは人外以外と話したことがない。敬翠がいても孤独は変わらず、人であった時の記憶を失わないのだから童子の頃と鬼である今との落差に時折気が重くなる日もあった。一人で考えても思い耽る事は変わらず、敬翠と話しても自分を肯定するばかり。たまには違う者と喋らねば息が詰まるようだった。


 鬼の足なら一日もあれば町中まで行けるのだが、人目につく所では人間のように振舞い、人間の速さで歩かねばならぬため、敬翠が出掛けると二、三日は戻らない。紅生はその間暇を持て余し、神を最後に見た場所まで出掛けて神社の周りをぶらぶらと探索して過ごした。


 神はもう二度と姿を現さないと分っているが、美しい面影は瞼の裏にまだ焼き付いており、そこへ行くとあの夜を鮮明に思い出し記憶の中の神に逢う事が出来る。敬翠に話せば悲しむと分っているから一人で居る時にしか訪れないようにしていた。未練がましいと言われればぐうの音も出ないが今や神に逢えるのは記憶の中だけなのだから構わないだろうと鳥居の下で愛しい面影を思い起こし、暫くしてから神社の裏山を登った。川のせせらぎが聞こえ始めると紅生の心は穏やかになった。夜露に濡れる木の葉は風に揺れ、ざわざわと擦れて恋し恋しと言の葉を紡いでいるように聞こえる。


 神が星屑を落としていっただろう場所辺りに到着すると泉が現れる。紅生はその泉を眺めて時間を過ごすのが好きだった。


 泉の水は透き通って底にある桑茶色の小石や気泡までも鮮明に見える。音もなく湧き出る源泉を見ていると、静謐でいながら生命の素となる水を生み出している力強さと神秘を感じる。


 しばらく泉を眺めて水の音を聞いて紅生は思いに耽っていた。


 自分がしている敬翠への仕打ちを思い悩まずにいられない。神への思いが届かぬ事を重々承知しているならば敬翠を愛してやればいいのに、神を想っていたように彼を愛してやれない。彼の熱い眼差しに嘘でも良いから向き合ってやれば彼の憂いを少しは癒してやれるのにそれも出来ない。体を繋げて腹を満たす事は出来ても、心は空虚に違いない。だがどうすればいいのか分からない。これほどまでに嘘のつけない性分も困ったものだと自分自身に辟易し、今日も同じことを悩んだだけだったと紅生はせせらぎの音を後にした。


 半分くらい山を下り、隣の山に移る獣道に差し掛かった際、神社辺りで騒ぐ声が聞こえた。鬼の耳は人の数倍ある。普段なら見つからぬようにそそくさと家路を急ぐ所だが、上弦の月の今宵、何故か引き寄せられるように人の声が聞こえる神社の方まで足を運んだ。人間が大きな声で騒いでいる。どうやら少年と数人の大人が言い争っている様だった。


「誰がてめぇら何かの言う事聞くかっての!」


「お前こそふざけるな!土倉*とくらから金借りて母ちゃんの薬買ったんだろう。利子も払わねぇ、元金も返せねぇなら体で払えって言ってんだ」


「ちゃんと利子分になる米はあるって言ってんだろ」


「馬鹿か!土倉には米が腐るほどあるんだよ。そんなもんで利子払いになるかってんだ。お前の体で払えば三ヶ月は取り立てしねぇでも構わねぇって大森様がわざわざ言ってくれてんだ。大人しく来い」


「話が違うじゃねぇか!俺の母ちゃんの薬代を払うのはいつでもいいって大森の旦那が言ってくれたから借りたんだ。どうして急に……」


「借りたもんは返すのが義理だ。いつまで待っても利子さえまともに支払えねぇのにこれ以上貸しておいちゃぁ、他にも面目が立たねぇって事だよ。お前今年十五になるんだろう?立派に元服の歳じゃぇねぇか。金を返すよう言われるのも当たり前だ」


「そんな事急に言われても……」


「タダで金借りれる程世の中甘くはねぇ。ほら来い」


 二人の男に腕を担がれて連れ去られようとしているのを知り、紅生は哀しい気持ちになった。久方ぶりに聞いた人間の会話が、病気を患う母の為に借金をした少年が、金を返せぬ代わりに身売りをしろと強いられる話だなんて。敬翠と出逢った頃の事を思い出して切なくなった。いつまで経っても此の世は弱者に厳しいものだと改めて世間の理不尽を憂いた。少年は捕らえられて暴れている。


「やめろ!離せ!」


「大人しくしろって、痛っ!噛みやがった!おい、こいつの手縛っとけ」


 言い争いを聞いて紅生は急いで林の中に入り山彦が返って来る程声を張り上げて叫んだ。


『神の社で悪事を働くとは恐れ知らず。神の天罰を受けるがよい』


 人間には出せぬ大声量で山側から音を響かせると、林の奥から木を素手で倒して行った。どさんどさんとまるで巨人が一歩一歩近づいて来るように木が倒れてくるので、人間たちは恐怖した。


「ひぃいい!神様が怒っちまった!祟られるぞ!逃げろ」


 縛りかけの少年を放り出して男たちは我先にと走って逃げる。少年は木が倒れるのをじっと見ながら、腰が抜けたのかじっとしていた。


 紅生は男たちが逃げ行く様子を木の陰から確認すると、ゆっくりと音を立てぬ様に帰り道へと足を向けた。


 自己満足に過ぎないが、これで少年への取り立ては少しましになるだろう。鬼が神の真似事をするなんて聞いた事がないと滑稽に思いながら、それでも正体を晒さず人助けができて良かったと心の中に何ともいえない心地良さを感じた。


 いつもは敬翠に黙ってこの神社に来ることが後ろめたく帰りの足取りは重いのだが、今日は来て良かったと、安堵したのも束の間後ろから声を掛けられた。


「あんたが俺を助けたのか?」


 ぎくっとして紅生は立ち止まった。さっきの少年だ。


 人に見つかった時に一番煩わしいのは鬼退治に人を呼び集められる事だ。人との戦いなど不毛なだけ。人間が鬼に勝てる訳もなく、躍起になって殺そうとしてくるのに常人では鬼の体に傷をつける事さえ出来ない。人を傷つける気もない紅生たちは兎に角逃げるだけが選択肢で、住処が見つかれば移動しないとならない。敬翠は今の家が随分気に入っているのに申し訳ない事だと紅生は溜息を吐いた。そして怖がらせないように振り返る。ここには二度と現れぬから見なかったことにしてくれと話してみよう。助けたのだからそれくらいは受け入れられるだろうと、色々思考を巡らせながら紅生はその少年に対峙した。


 だがその少年の顔を見た瞬時に体中の力が抜け、紅生は両ひざを突いた。


 紅生の眼の奥からぐらぐらと熱いものが溢れて来る。


 「弁財天神様……」


 その少年の顔は弁才天神の生き写しだった。







土倉とくらー今でいう貸金融業者




 

 

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