第34話 救いと烙印



 どんな紋様の着物だったのか分からない程茶けてしまった着物に三本線が入ったぼろぼろの帯。男たちに追いかけられて山を走ったせいか頬に黒い汚れをつけて、まるで貧乏人を絵に描いたような恰好で現れた少年の顔は、しかし美しかった。汚れた服や表層では覆い隠せない表現し難いその美貌は、まさしく弁財天神がそこに立っているようだった。


「弁財天神様、何故こんな所に、しかも男たちに追われて……」


 触れようと伸ばした手は震え、鬼の爪に自分で気づくと紅生は哀しそうに手を引っ込めた。何も言わねばこのまま消えていってしまう気がして言葉を振り絞る。


「再び、逢えて、嬉しゅうございます……」


 膝をついたため、ちょうど少年の顔の前に泣き顔を晒す紅生は手で顔を覆い、溢れる涙を隠した。泣いている赤鬼を見て少年は尋ねる。


「あんた、神様なんだろう?」


 その声に紅生ははっとした。ちゃんと耳から聞こえて鼓膜を震わせる肉声。女神とは違う人間の声だということに気づく。


 蝶が舞うように不思議と頭と心へ響くあの美しい声はどうされたのだろう。紅生はもう一度少年を見た。


 顔は弁財天そのもの。少年の出で立ちで以前よりも若くなっている。神なのだから年齢や外見や性別など自由自在に変化へんげ可能なのだろうが、言葉遣いも雑で、あの夜麗しく舞われた姿とは打って変わって今の姿はあまりにも俗。同じ顔をしていてもまるで別人のような目の前の人に混乱し始めた紅生は聞いた。木が風に揺れてざわざわと音を立てる。


「もしや、弁財天神様ではないのですか……?」


「何言ってんだ。俺は青竜ってーの」


「青、竜……」


 暫くの沈黙の後、紅生は閃いたように言った。


「そうか!弁財天神様の遣いの竜が人に化けておるのか!」


「はぁ?」


 竜という文字を名前に使うのは天子や僧侶で一般人に付ける事は滅多にない。きっと神の遣いに違いないだろうと紅生は思った。神が自分の化身として竜の遣いを世に送ったならば、人に化身した際弁財天神の顔を持つのかも知れない。神と同じ顔を持つ者が人だとは思えず、紅生は勝手に合点して問うた。


「こんな所に何故神の遣いがいるのだ?」


 少年はわけが分からないというように苛立ちを覚えたのだろう眉を上げて応えた。


「あんたが神様だろ?俺は神の遣いでも何でもないただの人間だよ」


 青竜の言葉を聞いても紅生は解せなかった。彼は神の遣いではない?もしかして記憶を失っているのか。そうだ、自分もかつて神に記憶を封じられていたのだから、その可能性は大いにある。だが遣いが神と同じ顔になるだろうか。もしや神の生まれ変わりだろうか。であれば神は死んだのか。いや、神に死は訪れない。神は永遠の存在だ。


 神に似た人に会えた嬉しさと、それを否定する少年の言葉で現状をうまく飲み込めない紅生は独り言を呟いていた。呆れた少年は肩を竦める。


「なにぶつぶつ言ってんだよ、俺は助けてくれた礼が言いたかっただけなの。神様だか物の怪だか知らないけど、助けてくれてあんがとよ。礼は言ったから貸し借りなしな!じゃぁな」


 青竜は背中を向けた。紅生は急いで立ち上がって彼の着物の袖を引っ張った。


「ま、待ってくれ、青竜とやら!そなたが人の訳がない。その美しさは神そのもの。それは神の顔なのだ」


 それを聞いた青竜の顔は蒼白になったが、すぐに物凄い形相で激怒し始めた。


「俺は生まれた時からこの顔だ。神様でも何でもねぇ!わけ分かんない事言うんじゃねぇ!」


 美しい顔が激昂するところを見て紅生は驚いた。神はいつも穏やかに笑い、慈悲の眼差しを見せはしても怒って顔を歪める事など一度たりとてなかった。自らの体が透けて力を失いそうになったとしても、ひたすらに童子たちを案じ、人を見守りただ静かに悲しむだけ。狼狽えたり、怒ったりしない。愛する神とこの少年は同じ顔を持っていても全く違うもの。紅生はこの時やっと目の前の少年が人だと理解した。


「す、すまない……気を悪くしたのなら謝る。だが少しだけ俺と話をしてくれないか」


「何で俺がそんな事しなきゃいけないんだよ」


 面倒くさそうに青竜は腕を組む。


「それは……そなたは俺の慕う方にそっくりなのだ」


「俺が?俺の顔を見た事があるのか?」


「ああ」


 紅生は少しだけでいいからと食い下がり、青竜は自分と同じ顔を持つ者がいると言う話に興味を惹かれ、少しだけならと承諾して二人は境内の階段に腰を下ろした。


 月明りに照らされる紅生の瞳や髪は赤く妖しく光り、その横に神と等しく麗しい少年が座っている光景は、極楽浄土と地獄の狭間を書いた絵巻のように不思議な空間に見えた。だが本人たちはそんな事を露とも思わない。


「改めて青竜殿、そなたの事を教えてくれまいか」


 普段敬称をつけられて呼ばれる事の無い青竜は少し戸惑いを覚えながらも話す。


「俺はこの近くの竜王村で生まれたんだ。父ちゃんは居たけど、出てった。今は母ちゃんと二人で暮らしてて、俺は田んぼと畑を耕してる。母ちゃんは父ちゃんが出てってから塞ぎこんじまって病気になった。あんまり食べないしずっと寝たきりなんだ。薬は高くて買えないから土倉に金を借りた。でも奴ら利子は金じゃなきゃだめだって言い出して。借金の利子も返せないから体で返せって追いかけられてたわけ。返すのはいつでも良いって言ったから借りたのに、ひでぇだろう」


 一人で親の面倒を見るのは大変だろうにまるで他人ごとのように淡々と憂いを感じさせずに話す青竜の眼は不遇に負けない強さを持っていた。そして海底のように深い碧さを秘めている。穢れを知らぬだろうその瞳に惹き寄せられる感情を抑えて紅生はまた訊いた。


「母君は青竜殿に似ているか?」


「何だよ、やっぱりうちの母ちゃんが狙いかよ」


「ち、違う、そう言う事ではないのだ。青竜殿は父君と母君のどちら似か?」


「どっちにも似てない。だから川で拾った子だなんていわれた事もあるけど、村の産婆が俺を母ちゃんから取り上げた時、玉のように青く光っててびっくりしたって言ってたから、ちゃんと母ちゃんから生まれた。俺が父ちゃんにも母ちゃんにも似てないから、父ちゃんは自分の子供じゃないって言ってたらしいけど……。母ちゃんはこの近くの川が青色に光ってて、それを飲んだ後に宿した子だから、俺の事を神様の贈り物だとか言ってた。村の人も初めはそうやって信じてたけど……。でも俺はただの人だ。他の人より物の怪の類によく出くわすだけで、普通の人間だ」


 そう言って青竜は爪を噛んだ。


 彼の放つ生気は人が持つそれとは匂いが違い、柔らかくそして懐かしさと暖かさを感じさせるものだった。神が零した光を女が飲み、その光を宿した子が青竜だろう。紛れもなく神と縁を持つ者だ。紅生は青竜の事をもっと知らなければと思った。


「物の怪によく出会うのか。奴ら悪さをするだろう。俺の事も、怖くないのか」


 童子であった頃は鬼だけではなく、物の怪が出た際も退治を頼まれていた。迦楼羅のように人を愛する物の怪もいれば、人の命を奪うものも中にはいる。一概に悪い者ばかりとは言えないが、酷い目に遭う事が多い事も事実だ。だが青竜から出た言葉は意外なものだった。


「あんたは助けてくれただろう。だから怖くない。借金取りが来る前も物の怪が知らせてくれたから逃げれた。俺はあいつらに助けられる事の方が多いんだ」


 そう言って青竜は紅生を見た。物の怪の類が人を助ける事は恩返しである事が多い。物の怪を惹きつけるあたり、やはり常人にはない何かがあるのだろう。


「俺は物の怪でもなければましてや神でもないが……」


「神様じゃない?」


 青竜は首をかしげた。


「俺は……鬼だ」


 少し吃驚したような顔をしたが青竜はそんな訳がないと紅生の言葉を否定した。


「俺は鬼にも会った事がある。鬼ってのはそんな綺麗な顔じゃない。もっと怖い顔して、涎垂らしてすっげぇおっかねぇんだ。それに人を助ける鬼なんて俺は聞いた事がねぇ。あんたは俺を助けてくれた。鬼じゃない」


「俺は……鬼と人との半妖だから」


 紅生は俯いて赤く長く光っている爪を見た。また切らねば。


「そう言う鬼もいるのか。半妖の鬼は人を喰わないのか?」


「喰わない」


 人を喰べたいと思った事はない。だから喰べないと答えたけれど、正気を失えばどうなるか分からない。精気は喰べるんだと付け加えるべきか躊躇った。だがそれを言うと怖がらせてしまうだろう。


「じゃぁやっぱり神様に近いんだ」


 どうしたらそう言う思考になるのだろうと紅生は不思議に思い、そうではないと否定したが青竜は続けた。


「神様は人を守ってくれるんだって母ちゃんが言ってた。だから俺を助けてくれる物の怪たちだって神様みたいなもんだって。中には悪い事する奴もいるけど、悪い事するのにはちゃんと理由がある。それに物の怪は借りた恩は必ず返すんだ。

 でも鬼は違う。悪の塊みたいなものだ。自分が生きる為に人を喰い続けるんだって聞いた。だけどあんたは人を襲わない。人を助けた。角が生えててもあんたは鬼じゃなくて神様だよ。俺そう言う勘、当たるんだ」


 紅生は複雑な気持ちになった。人の血肉は喰わないが精気を喰って生きている。敬翠と精気を分け合い辛うじて人を襲わずに済んでいるが、喰わねば人を襲ってしまうかも知れない。体には鬼の血が流れている。愛する神から人にとどまれと言われたのに、血に抗えず鬼と化した。だが人の心を忘れた訳でもない。鬼の恐ろしさを知りながら、人を助ければ神だという青竜の言葉は救いでもあり、鬼は悪の塊だと言われて烙印を押されたようでもあった。


 ただ、鬼だと聞いても怖がらないでいてくれる事を有難く思った。見れば鬼だと襲いかかってくるか、恐怖に慄いて逃げるかのどちらか。屈託なく自分に笑いかける青竜の真っすぐさは紅生にはとても眩しかった。ましてや愛する神と同じ顔で、見たことも無い笑顔を見せるのだから愛らしさに心臓を鷲掴みにされるようだった。


「あんた、名前は?」


「紅生」


 青竜は名前を聞いて、うん、と頷いた。


「あんたの髪の色に合ったいい名前だ」


「そう、だな……」


 あなたが付けたのでしょうと言いかけて淀んだ。この少年は神とは違うのに錯誤してしまう。それ程に生き写しだった。


「もう帰るよ。今度会った時に俺とそっくりな人の話聞かせてよ」


「あぁ、引き止めて悪かった」


 腰を上げた青竜に次いで紅生は立ち上がり、少年の背中を見つめた。言葉が喉元まで来ているのに詰まったように出てこない。


 神は姿を消した。なのに人となって目の前に現れた。こうして出逢えたのも神との縁だと肯定する自分と、鬼なのだから人間に関わってはならないと心の警鐘が鳴る。


「またな、紅生」


 振り返った青竜の顔は心なしか紅く、紅生は押し殺そうとしていた葛藤に負けて上弦の夜にまた逢いたいと咄嗟に伝えた。


 青竜はいいよ、と笑って走っていった。






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