第35話 神の顔
小さい頃からお前は神様の贈り物だと母親から聞かされていた。容姿を見れば誰でもその言葉を鵜呑みにするほど、俺は並外れた容姿をしていた。父親も村の奴らも、神の生まれ変わりだと言い、何をしても怒られず甘やかされて、何が悪いことなのか良い事なのかを教えてくれる人はいなかった。
「普通の人とは違うのだから」
周りの言葉をそのまま信じた俺は特別扱いされる事が当たり前なのだと思っていた。
誰も自分に逆らう事が出来ない事を良いことに俺は悪戯ばかりした。他の子どもを泣かせたり、馬小屋を開け放って馬を逃がしたり、田んぼの水路に石を沈めたりして皆を困らせていた。子どものくせに偉そうで生意気で、誰の言う事も聞かない俺を村の皆は次第に遠巻きに見るようになった。父親と母親も頭を抱えていたがそれでも俺を叱る事はなかった。全ては俺が特別な子どもだと信じたからだった。
ある時、村の子たち三人を連れて森の中に入り、お化けが出たと噂のある
森への入り口は下草が剥げており、人が何度も出入りした事が分かるので怖くなかったが、奥に進むほどに人が入った痕跡がどこにも見えなくなり、鬱蒼と木が覆い茂って陽の光を遮るようになるとなんとも言えない緊張感が生まれた。足元の石が増え、どんどん歩きにくくなり、突然バサバサと音を立てて鳥が飛び立つと何事かと震えあがって皆振り返る。その様子を見るのも楽しくて俺は臆せず歩を進めた。
川が流れる音が聞こえ始めると、皆喉が渇いたと言いだし、水を飲もうと川に近づいたのだが、二日程前の大雨で水はまだ濁ったままだった。そんな水を飲む気にもなれず一人が帰りたいと言い出すと、他の子どもたちも皆帰ろう帰ろうと言い出した。だが、その声に紛れて呻き声が聞こえた気がした。
「しーっ!何か聞こえた」
耳を澄ませるとはっきり「うぅぅ」と川下の方で声が聞こえる。俺たちはその声の元へと近づいていった。皆はもう帰ろうよと泣きそうになっていたがその時の俺に怖いものはなかった。何せ神の生まれ変わりと呼ばれていたのだ。獣や幽霊が出ても自分の前にひれ伏すだろうと無知が故に怖いもの知らずだった。
ゆっくりと声の聞こえる方へ行くと大雨による土砂で流れ着いたのだろう倒木が何本も岸辺にかたまって重なっており、その辺りから呻き声は聞こえて来た。まさか人が土砂に巻き込まれたのかと思って急いでまわり込んでよく見てみると悍ましいものがそこにいた。
黒い硬そうな毛に覆われた丸い体に節がついた足が左右三本ずつ、計六本ついており、その足先は牛の角のように白く硬質で鎌のように鋭く、鎌の足を持つ巨大な蜘蛛に見えた。だがお尻には長い牛の尻尾が一本生えて弱々しく左右へゆっくりと振られて、顔はというと全部の筋肉が崩壊し垂れさがってしまった老父のような顔の牛の頭がついていて、額からは二本の角が生えていた。見たことも無い恐ろしい生き物の姿に俺たちは腰を抜かした。
「うわぁぁぁ!化物だぁー!」
「逃げろぉ!」
呻くその生き物は血を流して木に挟まれ動けずにいたのだが、俺たちはそのまま後退り走って逃げた。
「あれ、お化けだろう?!」「馬鹿、お化けが木に挟まれてるもんか!あれは妖怪だ!蜘蛛の体に牛の頭がついてた!」「怖いよぉ」「走れ!」
いくら俺が怖いもの知らずだったとしても初めて見た物の怪の姿は恐ろしかった。だが苦しんで呻いていたのを思い出すと、あのままではいけない気がして俺は足を止めた。
「なぁ、あいつ、怪我して血流してた」
「そんな事どうでもいいよ!早く逃げよう、青竜」
「俺、あいつ助けてやろうかな」
「止めとけよ!助けたって何されるか分かんねぇぞ」
「物の怪ってどんななのかも知りたい。お前らも一緒に来い」
「行くわけねぇだろ!喰われちまう!」
「命令だ、残れ」
「化け物に食われるなんてまっぴらごめんだ!残りたきゃお前一人で残れ」
「意気地なし」
「なんとでも言え!何が神様の生まれ変わりだ!あんなものに情を掛けるなんてお前はやっぱり頭がおかしいんだよ。行くぞ、皆」
そう言って俺を残して皆帰ってしまった。俺は一人残されて些か不安を覚えたが皆が怖がるものに臆さずに立ち向かう勇気があるのだと見せびらかしたい気持ちもあり、そして何故か助けてやらなければならないと思う衝動に駆られ、川へ戻った。普段はいたずらばかりして、人が困る事ばかりするのに、何故あんな恐ろしい化け物を助けたいと思うのだろう。自分でも不思議で仕方がなかった。
牛の顔を持ったそいつは変わらず呻いていた。血が流れて川辺の石が赤く染まっている。じゃりじゃりと石を踏む音を聞いて化け物が目を開けて俺を見ると、「ガキが戻って来た」としゃがれた太い声で呟き、しんどそうな息を繰り返しながらまた目を閉じた。
「お前、動けないのか」
「見りゃ分かるだろう。お前には何もできない。去れ」
化け物は苛ついた声で応えた。
「助けてやろうか」
「子どもにこの木は動かせない」
諦めたように言われたが俺は辺りを見廻した。自力で押して木を退ける事は出来ないが、梃子を使えば何とかなりそうに見えた。挟まれている隙間に入りそうな長い木を川辺から見繕い、挟まっている間に差し込んで少し大きめの石を転がして近くへ運ぶ。その石の上に木を乗せて、近くの岩場から思いっきりその木の上に飛び下りると木の反対側は勢いよく上がって隙間を生み、その瞬間に化け物はすかさず体を捩って這い出した。
ぜぇぜぇと息を切らして今にも死にそうな恐ろしい顔が胡乱な目でこちらを見る。
「どうだ」
偉そうに腰に手を当てて言うと化け物は皺まみれの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
「ワシを助けるとは変わった奴だ。普通の子どもじゃないな」
俺はふんぞり返って言ってやった。
「そりゃ、俺、神様の生まれ変わりだからな」
化け物はその言葉にふははっと不気味に笑って、びっこを引きながら体制を整え、口から気持ち悪い黒い糸を勢いよく吐いて近くの木にくっつけ、それを吸い込んで自分の体を木の上へと引き上げた。
「うぇッ、気持ちわりぃな!」
ふんっと牛の鼻を更に膨らませて化け物は木の上から聞いた。
「神の生まれ変わりとやら、お前の名は」
「青竜」
「ワシは牛鬼」
名乗った後、牛鬼はまた黒い糸を吐いて別の木に飛び移り森の中へ消えていった。
俺は帰ってから牛鬼という物の怪と言葉を交わした事、そして助けてやった事を自慢げに村の皆に話した。
その後、俺の生活は一変した。
神様の生まれ変わりと言われた子どもは実は物の怪の子どもなのではないか。そんな噂が村中に広まった。元々悪戯ばかりして迷惑をかけているせいもあり、だからひどい事ばかりするのだろうと大人たちは態度をがらりと変えた。
「おかしいと思ってたのよ。普通神様の生まれ変わりなら、村に平穏や豊作を齎すものでしょう?なのにあの子、見た目はそりゃあ綺麗だけど、悪いことばっかりして。考えてみれば容姿も人間離れしてるものねぇ。化け物を助けてその後その化け物が村を寄り付いたらどうするのかしら!いい迷惑だわ」
物の怪を助けた武勇伝が広まりもっと偉そうにしていられると思いきや、事は悪転した。今までの悪事を反省しろ、あの時の弁償をしろと村の中はそれまで我慢してきた鬱憤を爆発させた。
肩身の狭い思いをするようになった俺たちは身を潜めるように暮らすようになった。以前は俺がいるからと、いの一番に手伝ってくれていた田植えの作業も後回しにされ手伝ってくれる人も数人となり、稲刈りの頃には全部家族だけで作業するようになった。両親は喧嘩する事が増え、村八分にされるようになった鬱屈を誤魔化すように父親は毎日酒を飲むようになった。
ある秋の夜、寝ていると父親が自分の布団へ来いと囁いた。きっと肌寒いのだろうと俺は言われるままに布団に入った。自分のせいで家族が生活しづらくなってしまった後ろめたさを感じていた俺は親の言う事を出来るだけ聞くようにしていた。
体を添わせ肌を擦り合わせてくる父親の息は荒く酒臭かった。すぐに眠気に襲われて目を閉じたが暫くすると胸に違和感を感じた。田畑で作業してごつごつと硬くなった手が着物の隙間から入り込み、胸に触れていた。温い息が後ろから掛かり、荒れた手が肌を撫でる度に寒気がした。ない胸をまさぐられて不快に感じ、眠気と戦いながらその手を退けてみても再び触って来る。止めろと声を上げようとすると後ろから口を塞がれた。もごもごと声を出すと舌打ちが聞えて身体が解放され、父親はくるりと反対側を向いてすぐに寝息を立てた。酔っていたのだろうと俺は布団にくるまって寝た。もう二度と酔っている父親の布団には入らないでおこうと思ったのだが、「神の美しさを持っているなら神の力も持っているだろう」「神の力を俺にもくれ」と言い、毎晩のように俺を布団に引きずり込んで俺の体を弄った。
母親が横に寝ているのに父親の行為はどんどん大胆になっていった。しまいには自分の股間を押し付けるようになって俺が怖がって泣き出すと知らずに寝ていた母親は飛び起きた。
「あんた、青竜に何してるの!この子は特別なのよ!汚れた人間が触って良い子じゃないの!」
母親は俺を抱き締めながら父親に食ってかかり、父親は翌日「何が神様だ、疫病神じゃねぇか」と言い捨てて家を出てしまった。後で聞いた話だが、父親は俺が生まれた時、自分の子ではないと呟いたそうだ。自分に似ている所が全くない、こんな綺麗な子が母親と自分の間に生まれるわけがないと疑っていたらしい。幼い頃からずっと感じていた父親の視線の意味がなんとなく分かって、俺は父親の事を忘れようと努めた。
父親が俺を襲おうとした事やその後出て行ってしまった事、周囲から冷たい視線を浴びせられた事、俺が妖怪の子どもなどと言われ始めた事の心労が重なったのだろう、母親は床に臥すようになった。俺は母親に神様の生まれ変わりなんかじゃないと言った。ただの子どもだと伝えたが、変わらず特別な存在なのだと信じ続けた。
俺は出て行った父親の分まで田畑の仕事を懸命にこなした。物の怪を助けた事を後悔したし、それを自慢げに話した事も後悔した。そして神様の生まれ変わりなどと言われる容姿を持つことは自分の不運だと思って過ごした。
ある日、大水が起きた。近くの川が氾濫して村の田畑や家を飲み込んでいった。俺たちの家と田畑は村はずれにあり、水を引くのも一番最後になる場所だったが、濁流はすぐにやって来た。父親もいない今、畑や家がなくなったらどうしたらいいか分からない。俺と母親は迫りくる水を見て成す術のなさに雨の中呆然としていた。
その時、のしのしと森から牛鬼が現れた。大きな黒い蜘蛛の体に、半分溶けたような老父の顔をした牛の頭の怪物を見て母親は気を失って倒れてしまった。
「母ちゃん!」
倒れた母親を担いで逃げるような力を持っていない俺はどうしたらいいのか分からなかった。水は迫って来る。母ちゃんは倒れている。このままおいて逃げられず大水に飲み込まれて死ぬのか。覚悟をした時だった。
迫りくる水に向かって俺たちに背を向けた牛鬼は蜘蛛が糸を紡ぐように口から真っ黒な糸みたいなものを吐き出した。田畑と家を囲うように大量に吐き出された黒いものはすぐに固まって土手となり、大水が届く前に俺たちの田畑と家は黒い土手に囲われて被害を受けずに済んだ。
ほっとした後、ばたりと倒れた牛鬼に俺は走り寄った。黒いものを吐きすぎたせいだろうか、牛鬼の体は現れた時よりもやせ細っていた。そして体中のあらゆる箇所から血を垂れ流していた。
どんどん体が溶けていく牛鬼に俺は話しかけた。
「牛鬼、お前俺を助けてくれたのか……」
「借りは返した……」
牛鬼がそう呟くと、皮も骨も残らず溶けて、流れた血は田畑に広がった。
物の怪を救った事を一度は後悔したが、俺と母親の命を救い、そして田畑まで守ってくれた牛鬼に感謝した。
田畑は父親がしていた頃より野菜も良く育ち、米も沢山獲れるようになった。それは俺の世話の仕方が上手いのではなく、牛鬼の流した血のお陰だと思った。
母親に話すと人を助けてくれるのは獣だろうと物の怪だろうと神様だと言った。あの怖い顔をした牛鬼も神様だったのだろうか、と疑問に思ったが助けてくれたのだから神様で良いのかも知れない。
村人は俺の田畑の不可思議を見てやはり神の御加護を持った子なのかも知れないと言い始めたが、俺は否定した。俺には神様の御加護はないし、ましてや神様の生まれ変わりでも何でもない。俺が本当に神様の生まれ変わりなら、母親の病気を治せるだろう。俺にはそんな力も無く、母親はずっと床に臥せたままだ。ただ物の怪の恩返しを受けただけ。でもそんな事ももう口に出してはいけない。再び奇異の眼が向けられたらどうなるか今ならよく分かる。それにどれだけ自分の田畑の作物がちゃんと獲れると言ったって、病気を治す薬を買う金はない。
どんどん細くなっていく母親の事が心配で、薬代を土倉から借りたらどうだという村の人の話を受けて金を借りた。薬は買えたが飲ませてもちっとも良くならなかった。借金の利子も米ではなく金で払えと言われて連れて行かれそうになって俺は逃げた。
そして神様に会った。
綺麗な顔をした妖怪を見た事もあったけど、今まで見た中で一番美しい姿をした鬼の神様だった。
助けてくれたお礼を言おうとしたら、俺が神様だと勘違いしていた。俺の顔は神さまのものだと言われて腹が立った。俺は物の怪でも神様でもなくて、ただの人だ。
俺と話をしたいと言う鬼の神様は俺と同じ顔をした人を知っていると言った。俺は興奮した。神さまの生まれ変わりと言われたこの顔の秘密が分かると思った。
神様は「実は鬼なのだ」と言って凄く寂しそうで、哀しそうな顔をした。見た目は剛毅なのに心が弱っていた。
牛鬼は物の怪だったけど恩返しをしてくれた。俺も助けてくれた神様に恩返しをしなくてはならない。
神様の紅い瞳を見た時に心臓が飛び出しそうに脈打った。深く、紅く、悲し気なのにしかし燃えるような熱を孕んで、真っすぐに俺を見据えていた。もっと知りたい。そう心が叫んでいた。そわそわして心が浮足立って変な事を口走りそうになったからもう帰ると告げた。こんな気持ちになるのはきっと相手が神様だからなんだろう。
牛鬼が俺にしたように名前を聞き出すと、また上弦の月に会いたいと言われ、何故か胸の動悸が止まらなかった。俺は恩返しの方法を考えながら家へ急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。