第36話 水



「確かに人だった――」


 紅生は、神様なんかじゃないと言った青竜の姿を瞼の裏に映したまま縁側で寝転んでいた。彼からは弁財天神と同じ匂いがした。特別な力は持ち合わせないようだったが物の怪は引き寄せるみたいだし、神の一部を体に宿しているならばやはり神ではないのか。しかし歯を見せて笑っていたのだから人だろうと逡巡する。生き生きと言葉を紡ぐ麗しい顔を思い出すと胸が高鳴り、無意識の内に顔が綻ぶので紅生は誰も見ていないのに何度も自分の頬を抓った。まだ神と混同している事を自覚できていなかった。

 

 陽も落ちかけの頃、遠くから土を踏む音が聞こえて顔を起こすと、敬翠の影が林の奥に見えた。背負って行った薪の代わりに風呂敷をいくつか抱えている。


「紅生様、只今帰りました」


 敬翠は縁側の紅生へ微笑み、家へと入った。荷物を土間に下ろし、桶の水で顔を洗って紅生の傍に腰を下ろす。買い出しから戻った敬翠の顔はいつも生気に溢れていた。紅生は毎回町はどんな様子であったか、何を持って帰ったのだと、矢継ぎ早に訊くのだが今は頭の中が青竜の事でいっぱいで労いの声を掛けるだけだった。


「ご苦労だったな」


「いえ、何か変わった事はありませんでしたか」


 神と同じ顔を持つ少年に会ったのだと打ち明けようか悩んでいたが何もないと答えた。いつもと違う紅生の様子に、彼ばかりを見ている敬翠が気づかぬ訳もなく、すぐに異変を察した。


「何かあったんですか?」


「いや……その、人を助けただけだ」


「どこで、ですか」


「神社の近くで」


神社ですか」


 剣吞な空気を醸して敬翠が訊くので紅生は慌てて弁解した。


「少年が数人と揉めて困っていた。だから助けてやっただけだ」


「姿を見られましたか」


「あぁ」


 敬翠が咄嗟に額に手を当てて眉根に皺を寄せたので紅生は繕った。


「だ、大丈夫だ。怖がっていなかったし、助けた少年にしか姿は見られていない。俺を神様だと思い込んでいたし、助けてやったのだからきっと誰にも言わないはずだ。ここから随分離れているし、この家はばれてない。心配するな」


 自分が鬼だと明かしてしまった事、そしてその少年が弁財天にそっくりな顔であった事は伏せた。行った場所が最後に神を見た神社であるだけでも未練たらたらだと告げたられたようなもので敬翠は内心面白く無かったが、神が姿を消して十五ている。その間に神の顕現は一度たりとも聞いた事がなかった。今更心配する事もないだろうと、「人と関わる際は十分に気を付けて下さいよ」と釘だけ刺して、持って帰って来た包みを広げた。中には壺や糸、針、反物、小刀や雅な漆器などがあり、それ以上の詮索を避けたい紅生は綺麗な装飾が施された壺を手に取ってみる。


「こんなに珍しい渡来物まで。あの薪だけでよくこれだけのものと交換出来たな。お前は本当に商売上手だ」


「いえ、これくらい朝飯前ですよ」

 

 紅生に褒められると敬翠は機嫌を直し満足そうな顔をして湯浴みをしてきますと外へ出た。


 一人の方が身軽だろうが、一緒に行けるものなら紅生も共に行きたい。色んな人と話をして、見たことのないものも見てみたい。だが長い角を持つ限りそれは叶わない。一人で過ごす時間は詰まらなかった。戻ってきてあれこれ楽しそうに話す敬翠が羨ましくもあった。出逢う人間は紅生を見れば鬼だと叫んで逃げるか、目の色を変えて親兄弟の仇だと敵意をむき出しにするかのどちらかで、まともに会話など出来ない。敬翠と居られるのだから孤独ではない筈だが、人に慕われ生きてきた紅生にとって隠居生活は楽しいものではなかった。目新しい事もなく、人と話もできず、自由に町や村を闊歩する事も叶わない。死ねずにただ生き永らえるだけ。何のために生きるのかも分からないのに生きている。紅生にはそれが辛かった。だが青竜に出逢えた。


 紅生を鬼の神様だと思いこんでいる所為もあるだろうが青竜は怖がる気配がない。やっと鬼である事を隠さずに人と話が出来るのだ。


 敬翠が自分にしてくれている事を思えば青竜の事は話せない。自分のために鬼へと堕ち、精気を分け合いながら尽くす健気な愛しき弟。青竜の存在が敬翠の心を乱すだろう事は紅生でも容易に予測できた。この事は黙っておいた方が傷つけずに済むだろう。青竜に関しては固く口を閉ざしておく事にした。



 *



 翌月の上弦の日、神社へ行くと言った紅生を敬翠が咎める事はなかった。四六時中一緒に居るのだし、紅生が泉に行ってただ水浴びをするだけだと話すので、あまりに嫉妬深いと嫌われるかも知れないと不安になり、人間との接触に気を付けて欲しいとだけ伝えた。


「鬼にまた会いたいと思う人間はそうおらん」


 そう言ったのにどこか落ち着きなく見えるのは気のせいだろうか。敬翠は爪を噛んで森に消えゆく姿を見送った。


 真実を告げない後ろめたさを振り払いたいからか、それとも気が逸るからなのか自分でも判断が付かないまま神を最後に見た山の神社まで走った紅生は、林の中から息を整えそっと境内の周りを確認した。青竜以外の人間に見られたら大事になる。鬼を怖がらない人間など居ない。敬翠に忠告されたように十分に気を付けないと。

 そう思って覗いた先には誰もいなかった。青竜の姿も勿論見当たらない。走って来た森の中と同じく、鬱蒼とした影が浮足立っていた心に広がり一気に口元が強張った。


 やはり怖かったのだろうか。当たり前か、こんな長い角の生えた真っ赤な髪をした鬼、妖怪でさえ見れば逃げまどうというのに、恐怖するに決まっている。何を浮かれていたのだろう。鬼の分際で……。


 しかし折角来たのだから暫く待ってみようと紅生はそのまま林の影に腰を下ろした。青竜が来る保障はない。逢いたいと言ったらいいよと笑って応えてくれたが、もしかしてその場を繕っただけなのかも知れない。何せ自分は鬼なのだから。


 待つ宵の間に月が顔を出し、星の林が月光に遠慮しながら静かに囁き始める。

 来ないだろうと諦めを口にしてみたり、心の中ではきっと来てくれると願ってみたり。物音に耳を澄ましそれが獣や風の仕業であると分かると、その度溜息を溢した。


 虫の音が響く中、しばらくすると草履で土を踏む音が聞こえた。軽快な少年の足取りだ。


 紅生はすくりと立ち上がって木の陰に隠れ、音の主が姿を現すのを待った。


 見つめる暗がりの中、月光を映す色白の人が姿を現し、鳥居をくぐって神社の石階段に腰を下ろす。


「青竜……」


 着物は相変わらずボロボロで、おまけに履いてる草履も着物に負けじと使い込まれているが、どれ程着ている物や履いている物がみすぼらしくとも中の人を貶める事は出来ない。

 気の強そうな凛々しい眉。筋の通った鼻梁に海の底のように深く輝く瞳。線の細い顎の上に薄紅に染まる瑞々しい唇が鎮座する。このような美しい造形が神以外の者にもたらされてよいのだろうか。頭の中の疑問符は取れない。


 『俺の事を神様の贈り物だとか言ってた。村の人も初めはそうやって信じてた』美しすぎる故にもてはやされ、後にそれが仇となったのだろう、今の村人はそうは思ってないと言う口ぶりで青竜は話していた。人の心は移ろいやすい。気にしていない素振りだったが、村人は今や彼を冷遇しているのかも知れない。力を失くした童子を追い出したあの人間たちのように。


 紅生は青竜の事をあれやこれやと慮りながら他に人がいない事を確かめて、ゆっくりと近づいた。


「来てくれたのか」


 後ろから声を掛けると、黒髪を揺らし愛らしい笑顔が振り返った。


「紅生」


 名前を呼ばれて紅生の顔が自然と綻ぶ。


「良かった、神様ってどれくらい忙しいのか知らねぇからさ。会えるかどうか半信半疑だったんだ」


「逢いたいと言ったのは俺なのだから来るに決まってるだろ。それと俺は神ではなく、鬼だ」


「鬼がみんな紅生みたいに綺麗で優しければいいのにな」


 お世辞でその言葉を紡いだ訳ではない事は顔を見ればわかる。紅生は素直にありがとうと赤面して青竜の隣に座った。


「神様でも恥ずかしがるのは人間と一緒なんだな」


 そうだ。そんな時もあった。今や敬翠以外と喋ることはなく、ただただ生き永らえる一日が長い。人だった頃がはるか昔のように思える。


「俺は元々人間だった……」


「えっ!人だったの?」


「ああ。角が生える前は人だった。童子と言って、神の眷属だった頃もあった」


「ケンゾク?」


「神使の事だ」


「シンシ?」


「神様に仕える者の事だよ」


「何だ。初めっからそう言ってくれ。難しい言葉、俺分かんねぇんだから」


「すまん」


「でもやっぱり神様の仲間なんだな」


「だから違うと言うのに。頑固な奴だな」


「母ちゃんにもよく言われるよ。でも神に仕えていたんだから神様の仲間には違いないだろ」


 二人はまるで旧知の友のように言葉を交わして立ち上がり、自然と山奥の泉へ向かって歩き始めた。


「母君は大丈夫なのか」


「今日は調子がいいって言ってた」


「そうか。薬が効いてるのか」


「ううん、今日は神様に会うって言ってあるんだ。母ちゃん、俺が本当に神様と縁のある子どもなんだって凄く喜んでて」


「それは……」


 知られたのは少年だけだと敬翠に話したが、自分の存在を知る人間がまた一人増えてしまった。母親の気分が良くなるのは良い事だが神様と思っている相手が実は鬼だと知れば病気が悪化してしまうのではないだろうか。床に臥せる母親が吹聴するとは思えないが噂が広がる可能性もなくはない。


「俺に逢った事は、母親以外には話さない方がいい。何度も言うが、俺は鬼だ。それに母親にも他言しないように言っておいてくれ」


「母ちゃんは他人に自慢したりしないし、俺も母ちゃん以外に紅生の事話さねぇよ。心配するな」


「ならば良いのだが」


「鬼にしては小心者だな」

 

「そなたは鬼を前にして肝が据わっている」


 青竜は歯を見せて笑い、紅生は目を細めて歩を進めた。涼しい夜とは言え山を登って体を動かせば汗が滲んだ。

 

「この顔の事を教えてよ」 

 

 首元の汗を手で拭いながら青竜は訊いた。何故自分はこのような容姿なのか、自分が何者なのかを知りたい。真っすぐに尋ねる青竜に紅生は話せる事を全て話した。


 自分は弁財天神に仕える生命童子という眷属で、鬼や物の怪を退治して暮らしていた。だがある時から鬼が姿を消し、神に悪い噂が立ち始めると人々は疑心暗鬼になって童子たちを追いやり神への信仰を止めた。力を失い鬼に堕ちてしまった童子たちは人を惨殺し、妹も殺した。人を守るため、そして妹を殺された怒りに駆られて鬼に堕ちた仲間を殺し、鬼になるなと何度も神に言われたのに自分も鬼に堕ちてしまった。力を失いかけていた神は鬼に恐怖する人々から再び崇められるようになり、力を取り戻して七福神として祀られその存在を確たるものとされた。青竜が生まれる前の年、神は山の下の神社で紅生と言う名前を自分に与えた後、神社の山上空高く昇った。空に浮かぶ御神体から星屑が零れ、山頂に降り注いだ。落ちた場所には川の源となる泉があって青竜の母親が話した通り、蒼く光る川の水を飲んで彼女は青竜を宿したのだろう。青竜が弁財天に生写しなのは、神が零した星の一部、つまり神の一部を宿しているからだと推測される。神の泉に行くと神に逢えるような気がして、時間が出来る度にここへ来ていた。そして青竜と出逢った。


 今まで敬翠以外誰にも話す事が無かった所為か堰を切った様に話した紅生を青竜はじっと見つめていた。その視線に気付いて紅生は我に返る。


「すまない、喋り過ぎた」


「ううん、話してくれてありがとう。紅生、凄く大変だったんだな」


「大変というよりは、運命に翻弄されているのだろう。望んで鬼になったわけではないが、鬼になるのは運命というよりも宿命だった」


「運命と宿命はどう違うの」


「運命は自分で変えられる。己の命をどこへ運ぶのかは自分で決める事が出来る。だが宿命は定められていて避けることが出来ない」


「鬼になるのは避けられなかったって事?」


「俺は半分鬼で半分人だから……いや、それは俺の言い訳だ。俺の事はいい。知っている事は話した。青竜が我が主であった弁財天神と瓜二つなのは、神の一部を体に宿しているからだと思う」


 青竜は腕を頭の後ろに廻して空を見上げ鼻をぎゅうっと顰めた。


「まぁ、合点がいったっちゃいったんだけど疑問は残る。俺が神様の一部を宿してるとしても、俺は何の力も持たない。神様に母ちゃんの病気を治してくれって願った事もあるけど何も起きなかった。そっくりなら少しくらい力が宿されててもいいとは思わない?」


「それは俺にもよく分からない。隠れた力を持っているが発揮されていないだけなのかも知れないし、力などないのかも知れない」


「でもさ、神様ってすげぇんだろ?人を鬼から守ってくれたり、雨降らせたり洪水起こしたり、米を豊作にしてくれたりさ。そんな力の一部を持っていたら……」


 そう話しながら青竜は牛鬼の事を思い出した。自分と母親と家を守り、そして田畑まで豊かにして死んでいった妖怪。醜い姿をしていたが、やはり神様だったのだと思った。


「母ちゃんが言ってたことは正しい。人を助けてくれるのはやっぱり神様だ。俺は人に迷惑ばかりかけてきて、神様の生まれ変わりなんかじゃないけど……」


 期待された存在が反転して疫病神と言われ鬼へと堕ちた童子たち。自分を信じる事が出来ていれば鬼に堕ちずに済んだのかも知れない。紅生には青竜が己の存在意義を求めているように見えた。


「其方は其方で良いではないか。神様の生まれ変わりである必要はない。人に何と言われようと、自分は自分だ。行いは全て自分へ返って来る。俺は人で、鬼で、半妖で、そして今は神様と其方に呼ばれているが、人の為と言いながら鬼や物の怪を殺し、仲間を殺してしまった本質は鬼であったのだろう。今の姿がきっと偽りない自分の姿だと思う。そなたは神と同じ顔を持つ美しいおのこではあるが、神とは違うただの人。恐ろしい妖怪を救い、紅い髪の鬼と言葉を交わしてくれる母思いの優しい男。ただそれだけだ」

 

 紅生は哀しそうな目をしたまま笑った。青竜もその顔を見て笑った。神様の生まれ変わりともてはやされた事も、妖怪の子だと噂された事も、全て自分の鏡。紅生の言葉を聞いていると全てが腑に落ちて、悩んでいた事が些事に思えた。彼の傍に居る事はとても自然でそれだけで充たされ、心地よく、何でも話して大丈夫だと思える。二人はいつの間にか泉に着いていた。


 喉が渇いていた青竜は泉の水を飲もうとちょうど踏み場になりそうな小さな岩を見付けて腰を屈めた。水は清く透明で底まで見える。手を入れると冷たい水が熱を奪って汗がすっと引いていった。青竜はそのまま両手で水を掬い、ごくごくと喉を潤した。


「冷やっこくて上手い。紅生も飲めよ、ほらっ」


 そう言って青竜は自分の両手に水を汲み、後ろで見ていた紅生に差し出した。紅生は目を見開いて驚き、その紅い目は青竜の顔と手の中の水を何度か往復した。そしてすぐに青竜の前に跪くように膝を折り、自分より幾分小さい両手の中の水が零れないようにそっと下から手を添えて、ゆっくりと口を運び青竜の手の中から水を飲んだ。こくりと喉が鳴り、紅生の目が赤く潤む。青竜は吸い込まれそうな紅い瞳の炎を鎮めなければいけないような気がして、再び水を掬って紅生に差し出した。自分の手を包むように支える鬼の手は熱く、触れる度に熱さが増すようだ。


 水を含む度少しだけ開かれる口元に光る鋭い歯、飲み込んでいく喉元、伏し目にかかる睫毛の長さ。目に映る全てが流麗で美しい。何故紅生に自分の手から水を飲ませたいなどと思ったのだろう。美しい男が手のひらから水を飲む光景は不自然で、いたたまれない程青竜は耳を赤く染めた。鬼の長い角は輝いていて、触れたい衝動に駆られたが触って良いものなのか訊くのも憚られる。

 再び汲んだ水を見てふっと笑った紅生の顔は愛おしいものを見るようにどこまでも優しいのに焔を孕んで燃えていた。見てはいけないものを見ているような気持ちになって、青竜はそろそろ戻ろうかと岩場から移動して小道に戻った。青竜を追いかけて紅生は手を掴んだ。


「待ってくれ」


 あんなに喋り続けて登った道を、二人は黙って下った。捕まえられた手が焼けるように熱かった。





 

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