第26話 愛敬童子⑩ー運命
黒い鳥たちが飛び去って見えなくなった後の寂しげな空と朝焼けの静寂を埋めるが如く、鶴は生命童子の足元にしがみ付いたまま泣いた。泣き疲れて眠った鶴を抱え、生命童子たちは部屋へ戻った。
小坊主たちや修行僧は騒ぎがあった際に既に逃げ出しており、寺には童子たちと鶴以外誰も居なくなっていた。疲弊した体を布団へ預けて酒泉童子は目を瞑り、生命童子は鶴の傍で眠りに就いた。
*
朝に童子たちが起きても鶴はまだ眠っていた。あどけない寝顔を見て春乃たちを思い出す。一日でも遅ければ鶴たちは喰われていただろう。この子を守れて良かったと生命童子は命の儚さを改めて感じ、早く家に戻りたいと家族の身を案じた。
暖かく心地の良い縁側に座り、美しく手入れされていた庭に倒れた灯篭や躑躅の花が散乱しているのを眺めていると昨夜の戦いが瞼に蘇り、鬼神の言葉が頭に響く。
『我を忌み、鬼へと堕とした下劣な人の子孫よ』
彼奴は元来鬼神ではなく、かつては人間だったのか。しかし鬼の神と言うくらいだから神であったのか。ならば神が鬼になったというのか。
『
神が人から生み出されるなど聞いたことがない。戯言でなければこの世はどうなっているのだ。弁財天神様は人から生まれた偽物の神様だというのか。そんな馬鹿な。我の元へ戻れ?どういう意味だ。
いくら考えても答えは出なかった。鬼神が何者であっても、守る者がいる限り襲ってくる鬼と戦わねばならない。鬼が憎い。鬼は倒すべきものだ。その考えは揺るぎない。考えあぐねて生命童子は眉間に皺を寄せた。
「そろそろ起こしてやろうか」
蔵から酒をくすねて飲んでいた酒泉童子は何やら考えに耽る生命童子を見て言った。
「そうですね。そろそろ……」
思考を遮られ、生命童子は鶴の体を揺すった。大泣きして浮腫んだ目をこすりながら鶴は目を覚まし、自分がどこに寝ていたのかを知るとそのまま正座して手をつき遅くまで寝ていてすいませんと謝った。
「朝焼けに寝たのだからまだ眠いかもしれんが今日ここを立ちたいのでな。気分はどうだ」
「はい、とても良く眠れました。柚果と一緒に寝ていた時の様にぐっすりと……」
そう言いかけて泣きそうになるのを堪え、何度か瞬きを繰り返し、口元にぎゅっと力を入れると笑って見せた。生命童子の体温が柚果と眠っていた頃を思い出させて深く眠れたのだろう。鶴の稚さを改めて感じる。
「童子様たちのお体は大丈夫でしょうか」
「我らの体は強靭だ。特に生命は鬼のような回復力を持っておるから安心せい」
酒泉童子は盃に酒を注いで飲み干すと高く掲げ、再び酒を注いだ。
「昨晩の戦いから明けて間もない朝から酒を飲めるなんてそれこそどんな体ですか。師匠のお心が知れません」
「何、儂は酒を飲むと強くなるのだから、また襲われても大丈夫なように備えているだけだ」
「お酒が好きなだけでしょう」
「そりゃ好きだ。何せ儂の名前は酒泉童子なのだから、ワハハハ」
呆れたと言わんばかりに口を曲げる生命童子とそれを楽しそうに見る酒泉童子のやり取りは鶴の心を穏やかに保った。
柚果との別れの哀しみを拭おうとしているのか帰路に必要なものを準備している間、童子たちは鶴の前で軽口を言い合う。一通り準備を終えた後、鶴は和尚の部屋に飾ってある弓矢を取りに行った。
優美な湾曲を描いた弓は毎日磨かれていたお陰で艶々と漆を光らせ床の間に鎮座している。じっと見つめてその前に座る鶴に生命童子は声を掛けた。
「準備は済んだか」
「はい。後はこの弓矢だけです」
「持っていくのか」
「……」
「柚果殿は持っていけと言ったが、この弓矢を持っていたら辛い過去を引きずるのではないか。弓矢はこれでなくても、我らの里に戻れば新しい弓矢を用意できるぞ」
生命童子の提案に鶴は首を横に振った。
「和尚様は僕たちの名づけ親で、この弓矢をとても大切にしていました。弓を握る部分を
それでもここに来なければ柚果と出会えなかった。柚果だってカルラ様と違う世界へ行く事など無かったでしょう。僕は童子様たちとも出会えなかった。すべてが運命のような気がするんです。だからこの弓矢を使うのも運命のような気がするんです。この弓矢は射れば鬼の首を飛ばす威力を持つと言われる弓矢。鬼退治をするに相応しいものだと思いませんか」
「まさか板額御前の弓矢なのか」
「和尚様は凄い弓矢なのだと教えて下さいましたが誰のものだったのかは存じません」
「貴重なものだ。何故ここに」
「将軍様から貰ったものだそうです。僕達の前に将軍様の所に奉公に出た稚児が居たらしく、その稚児の代わりにと」
「相当な執着であったようだな」
「それがその稚児の幸せであったなら良いのですが。その代わりにこの寺へ来たこの弓矢も不憫に思えます。きっと和尚様に体を撫でまわされるより、人の為に鬼を倒して憂さを晴らしたいと思っているんじゃないかとそんな風に想えてなりません」
「まるで自分の事を話しているようだな」
「一目見た時から不思議とこの弓矢に魅かれていました。柚果もだから持っていけと言ったのかも知れません」
「持っていくか」
「はい」
鶴は弓束をしっかりと握り旅路の荷袋に入れた。
これから童子たちと共に生きていける。強くなり自分の身を守れるようになるまでは一緒に居られる。童子になれたなら、ずっと生命童子たちの近くに居られる。自分の今までの不幸は全てこの時の為にあった、越えねばならない試練だったのだと思えた。
旅路に足を踏みしめる度、生きていてよかったと思う。鬼を見て物怖じしたが、あの弓矢を持ち出して応戦すればよかったとさえ思った。足が震えて何も出来なかったのに後からそんな風に思うなんて狡いのかもしれないけれど。それでも戦うと言う事がどういう事なのかその目に焼き付けた鶴は、もう前の自分ではないような気がした。深緋の瞳に射抜かれたその瞬間から運命は動き始めていたのだ。
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