第27話 愛敬童子⑪-命



 寺で飼われていた最後の馬に鶴を乗せて、童子たちは交代で帰路を走った。

 酒泉童子は酒蔵から酒の入った瓢箪を鱈腹持ち出して馬の背中に載せ、それらが音を鳴らして揺れるのを見ては笑みを浮かべて上機嫌。反して生命童子はどこか落ち着かない様子でずっと黙っていた。どうしたのだと尋ねると実は家が心配だと言う。一人で担うと意気込んでいたが相手が鬼神であったのは不運。その上取り逃して報復の危険を生み、鶴よりも年下の二人を家に残しているのに不安が募ると珍しく弱気になっていた。


「痛手を負っている鬼神が儂らより早く着いて報復を仕掛けてくるとは考え難い。今は回復に力を使うだろう。鬼神とやらは餓鬼に偵察をさせる程用心深い。今は案ずるな。それに神がきっと御加護下さる」


と、天を指差し励ます酒泉童子を見て鶴は口を噤んだ。神の化身と言われ奪われてきた鶴は神を信じる事が出来ない。鶴には無かったのだ。しかし今は童子たちがいる。自分が信じられるのはこの童子たちだけであると鶴は思った。


 馬に乗っていたとはいえ遠出などした事もない疲れた様子の鶴を見て、急ぐ帰路ではあるが寺を訪問する前に童子たちが行きがけに見つけていた山麓の宿へ泊まる事にした。質素な宿だが老婆とその息子らしき男が食事を出して風呂を沸かし、布団を敷いてくれる。

 ゆっくり休めるよう湯浴みした後はすぐに寝ようとしたのだが当の鶴は板額御前の弓矢を使ってみたいと言い出した。疲れてないのかと聞いたら、寺を出られた嬉しさで気が立ってしまい眠れそうになく弓の稽古をつけて欲しいと言う。別れの悲しみに浸るよりはいい案だと快諾し二人は行灯を借りて暗い庭へ出た。酒泉童子はその様子をつまみに縁側で酒を飲んだ。庭と言っても森を刈り込んで少しばかり平らな場所を作っているだけで、周りはそれこそ草木ばかり。的にする木を選ぶのには困らず生命童子は手頃な黒檀の木を見つけると小刀で輪を削り、さらにその中にいくつも輪を作って一尺二寸の簡易な的を拵え、枝に行燈を掛けた。煌々と光る月明かりも手伝って的ははっきり見える。


 まずは射てみろと言われ、鶴は慣れぬ弓に戸惑いながら我流の構えで弓を引いた。緊張しているのか肩が力み、腕にも余分な力が入っているようだったが、玩具のような弓矢でしか練習してこなかったと言っていたのに、矢は外黒(的の一番外側の黒い輪)にあたった。大木にしっかり刺さる威力で射れる事に二人は目を見張った。中てる事が出来るのであればと、持ち方から肩線、弓の捻り方、知っている限りのコツを教えて、実際に射て見せようと生命童子は弓を預かった。鶴は眼に焼き付けようと瞬きもせず所作を見詰めた。


 深い呼吸で心を整え、背筋を伸ばした生命童子が弦を引くと美しい黒髪が風に揺らぎ、月明りを背にしなやかな体の陰影が伸びた。雲がたなびき、光を遮ると無駄のない美しい構えのまま明かりを待つ。再び月光を受けて風が凪ぐと同時に弓はびゅんと心地の良い音を響かせて中白(的の中心の円)に刺さった。その一連の風景は粛然たる秀麗な舞のようで、見ている二人の心を奪った。鶴は恍惚とした様子で暫くじっとしており、酒泉童子は落とした盃に気付かなかった。

 生命童子は刺さった矢を引き抜いて同じように射てみよと鶴に弓矢を返すが鶴はぼうっとしている。


「どうした、鶴殿。射てみよ」


「あっ、はい!」


 鶴は教えられたことを思い起こしながら弓を引いたが先ほどの様に矢が中らず的を外す。まさかまぐれで中てたのではあるまいと、後ろから肩を抑えて少し弓束を左へ捻ってみろと生命童子が指南すると鶴の耳は行灯の光でもわかるほど赤く染まり、余計に気が散ったのかまた的を外した。こうしてみよう、と両手を取り体を沿わせ、一緒に弓を引いて的に中てると鶴はちょっと待って下さいと矢を取りに木の袂まで走りじっとしていた。


「何をしている」


「いえ、何でもありません。心を落ち着けているだけです」


 生命童子に手をとられると顔が赤らむ。馬に乗った時は大丈夫だったのにと鶴は戸惑った。教えて下さっているのに余計な事を考えていてはいけないと鶴は深呼吸を繰り返して心を落ち着けた。


「大丈夫か?」


「はい、すみませぬ」


 童子の許に戻り、鶴は弓に集中した。今度は指南を受けずに的に中てた。少しずつ矢は内側に近づいていく。


「凄いな、俺の射る姿を見て少し指南しただけでこんなにすんなり会得するなんて」


「童子様の教え方がお上手なのです」


「いや、鶴殿には生まれ持っての才能が有るのだろう。師範は寧ろ鶴殿の邪魔になるかもな」


 生命童子に見惚れていたのがバレていたと鶴は恥ずかしくなった。当の本人は何のことやら。嫌味を言われたのかと食いついた。


「教え方に文句があるなら、師匠が教えてやって下さいよ」


「いや、すまん。見ておるだけで酒が進むのでな」


「何なんです。酔っ払ったんですか」


「馬鹿言うな、酔いたくても酔えん身体だ」


「じゃあ揶揄って遊んでるんですね」


「その通り、美味い酒に美しい月、美しい夜だ。少しは自分を労え」


「酒泉は労い過ぎでしょう」


「お?とうとう平時にも儂の名を呼ぶ気になったか。お前にも弟子が出来たしな」


 ええ、と生命童子は嬉しそうだった。弟子という響きがこそばゆい。そして何より鶴を連れて帰るべきだと思った事は間違いではなかった事に安堵した。この腕ならばすぐに弓矢の達人となるだろう。天性の才がある。酒泉童子も喜んだ。


「お前の目に狂いはなかったという事だな、生命」


「本当に凄い才能です」


「このままいけば童子になれなくてもすぐに我らと戦っていけるようになるぞ」


「弓で戦えるのは有利。童子になったなら百人力の戦力だ」


 次々に浴びせられる賛辞に鶴は謙遜しつつ頬を染めて緩む口元を何度も引き締めた。そして『童子になれなくても戦っていける』という言葉に大きな安堵を覚えた。童子になれるのかは次第という事実に些かの不安を覚えはしたが、なれなかったとしてもどうにか生きていけるのだと思った。酒泉童子と生命童子という強者の傍に居るから気が大きくなったのかも知れないが、弓さえ射れるようになったなら怖いものなどもう無いとさえ思った。皆その後ぐっすりと眠った。以降旅路の合間合間の休憩にも弓矢の指南は続けられた。


 無事に里へ着いた後、御朔日参りの日が来るまでの間、鶴は生命童子の家で暮す事になった。生命童子の生業が鬼退治である他はいたって普通の暮らしだったが、鶴にとっては何もかもが新鮮だった。


 毎日のように違う村人が顔を出して話をしていく。町から魚屋がやって来て魚はいらんかと声をあげて通りを歩いている。それを春乃が大きな声を上げて引き留めて買い取る。生命童子の所に僧侶がわざわざ来てこんな事やあんな事があったと話をしに来る。牛も鶏も初めて見た。そして魚や卵を食べるのも初めてだった。寺では膳も風呂も全て小僧たちが準備をしていた為、鶴は包丁の使い方も知らなかった。それは和尚が御稚児様に雑用などさせるのではない、と神化格された稚児と人の区別をつける為にワザと何もさせなかったからではあるが、年下の春乃が家事の全てをしているのに自分が何も出来ない事を恥じ、家の事を手伝わせてほしいと頼んだ。生命童子はそれは助かると言って春乃を呼び、春乃は鶴に優しく教えた。鶴は心を許し二人はすぐに仲良くなった。春次も家の事を細々とこなす鶴を新しくできた兄の様に慕ってよく懐いた。


 御朔日参りの日が近づくたび、もし童子になれなかったらどうしようと鶴は色々な事を考えた。弓矢を使える仕事があればと思うが、童子たちにまだ教わらねばならない事もある。矢馳馬もその一つだ。しかし馬もまだ自分でちゃんと乗れない。狩人になる可能性も考えたが、彼らがどの様に生計を立てているのかその実を知らないだけに今の段階では現実的ではない。他に得意な事と言えば唄や舞、茶や華だが、字がまだ読めないのに渡り歩くのが難しそうだし、金を持った権力者や高僧が嗜む類の事で身を立てれば、無知な自分では再び身を削るような境遇に陥るかも知れないと漠然とした不安を覚えた。童子の世話人になると言う選択肢もある。ならば何でもできるようになっておかなければ逆に世話をしてもらう事になりかねない。じっと待っていては自分の選択肢がどんどん狭まるような気がして、鶴はどんな細かな事でも進んで行い、懸命に働いて暮らした。


「弓矢に長けておられますのに、雑用までいとわずになさるのね」


 春乃と鶴は井戸の横で村人から貰っていた野菜を洗いながら話していた。


「寺では芸以外の事はさせて貰えず、何もできないものですから何でも教わっておかないと。そうだ、今宵も字の先生、お願いいたします」


「はい、勿論」


 籠を抱えて春乃が立ち上がり、鶴も立ち上がって持ちますと籠を取る。


「早く書けるようになりたい。字がちゃんと書けるようになったら、酒泉童子様と生命童子様へふみを書いてみたいのです」


「一緒に住む兄にも?」


「ええ。それと日記なるものを書きたいのです」


「日記?」


「はい……。生命童子様たちに救って頂いた日の全てを忘れない内に綴っておきたいので」


 沈みゆく紅い陽を見つめながら鶴は、「お天道様は地平線にある時が一番美しいですね」と呟き、沈んでいくのが惜しくて堪らないと言いたげに瞳を切なく輝かせていた。


 皆と暮らす程、鶴は普通というものがどれだけ有難いかを知った。過去を気にする者もなく、字の読めぬ事を馬鹿にしたり、籠の鳥のお前に何ができるのだと揶揄する者も、余興の為に舞え、歌えと偉そうに威張る金持ちも僧侶も来ない。人の為、神の為などと嘯いて不条理に体を奪おうとするものも居ない。


 春次が他の子たちにいじめられそうになると春乃が走って行って庇う。春乃が困っていると生命童子が手を貸す。春次が兄上疲れたでしょうと生命童子の肩を叩いたり、寝入った妹弟が足で剥ぐ布団を兄がそっとまた掛けてやる。家族の為に働き、共に食べ、笑い、泣いて、夜が来れば布団を並べて安心して眠る。これが家族というものなのだろうと思った。支え合い、思いやり、強いも弱いも関係なく互いを見守っている。親が居なくても皆こうして幸せに生きている。柚果と自分も勇気を出して寺から逃げていればこんな風に過ごせていたのだろうかと悔やまない日は無いが、愛おしそうに柚果を抱えたカルラを思い出し、こうしてここで無事に暮している自分の幸せを思えば、やはり運命だろうと想った。


 兄と慕った柚果もおらず、忘れ去られた身となった鶴は今や真に天涯孤独。このままこの家族の中で暮らしていけたならどれ程幸せだろうかと思いを馳せた。生命童子は鬼退治に行くと何日か家を不在にする事があったが、その際も弓の腕が立つ鶴が居てくれるから安心して行けると信頼を置いてくれた。童子が戦いから戻って来た時は春乃や春次と同様、鶴も童子の無事の帰還が何より嬉しかった。童子になってもなれなくても、この居心地のいい場所が自分の居場所になればどんなにいいだろう。


 時間は過ぎ、御朔日参りの日はやって来た。言われるがままにお堂の中に入り、皆が揃えたように口を噤むと、不思議と花の馨りがお堂の中に立ち籠め、壇上の御簾が誰も触らぬのに上がり、その不思議に驚いている間に弁財天神は姿を現した。神を初めて見た鶴は言葉を失った。その神々しさと空間・質量を漠然と凌駕する絶対的存在に声さえ出なかった。神を見つめる童子たちの視線は畏怖しながらも羨望をひた隠して控えている。あの豪傑な酒泉童子や鬼神と戦った生命童子でさえ……。


 童子に言われても信用しているようでしていなかったが神は本当にいた。自分の許には来てくれなかった。ただそれだけだった。「御稚児様はご神体と繋がる存在」などとよく戯言を言えたものだと、僧侶に騙されて言いくるめられていた事が悔しかった。神と人間はこんなにも違うのだ。


 音一つ、許可なしに立ててはならぬような緊迫した空気が漂う。蝶が耳の辺りを歌いながら通るかの如く頭の中に柔らかい声が響く。神と繋がるとはこう言う事か。存在はそこにあるのにしかし触れる事はなく自分の何もかもが見透かされて隠す事が出来ぬのだと知る。童子たちは面を上げろと言われるまで顔を上げなかったが鶴は一人、御簾が上がったその瞬間から神を一人見つめ続けていた。

 

 いつもは最後に呼ばれる生命童子が今回は一番始めに御前に出て膝をつく。


「弁財天神様、此度、鶴を連れて参りました。童子になる素質を見た故連れて参った次第です」


「あい、分かった」


 童子は鶴を前に呼び、鶴は神の前で同じように跪いた。


「神様、つ、鶴と申します。僕は……私は幼い頃より寺におり……」


「何も喋るな。我の眼を見よ」


 言われて顔を上げ、鶴は弁財天神の眼を見た。その瞬間、両目を射貫かれた様に眩い光に視界が奪われ、目を開けておれず手で覆った。


 何とか眩しさに慣れようと少しずつ瞼を開けると、そこは暗いお堂の中でも何でもなく、空も地も何もない真っ白な世界だった。ただ二つの慈悲深い巨大な瞳だけが宙に浮いてこちらを見ており、足のない海月のような水に覆われた固まりが頭上や足下にふわふわと浮遊していた。浮いては弾け、どこからともなく生まれては膨らみ漂っている。何もないのに、全てがそこにあるのだと悟るのに時間は掛からなかった。


 よくみると浮遊物の中で渦を巻いているものは自分の頭の中だった。五感が剥き出しになって、記憶も何もかもが顕な無防備に思わず己を抱きしめた。知らぬ親を乞う心も、人への恐怖も、嘲に噛み締めた憎しみも、自分のしてきた汚らわしい行為も、焼けるように燻り始めた心も、全てが得体の知れない色の塊となって浮遊している。そして巨大な二つの眼は鶴を見つめ、その奥にある、鶴自身には分からない遥か未来かなたを視ていた。


『そなた、どうしたい』


「僕、わ、私は童子になりたいです」


『何故だ』


「生きていきたいからです」


『何故生きたい』


「私は欲張りだからです」


『欲張りとは』


「こんな穢れた体でも、生きていたい。死ぬのは怖い」


『死ぬのが怖いなら童子になる事は出来ん、我が童子たちはいつも死と隣り合わせだ』


 言葉に窮する。神の前では言葉など唯の繕いでしかなかった。童子たちが命を掛けて戦っている事を知っていながら浅はかな答えだったと、自分の幼さが恥ずかしくなった。二つの眼は瞬く事無く鶴を見つめ続けている。


『生きたいか……死と隣合わせだからこそ童子として生きるはせいの極みとも言えようぞ。そなたには与える力が秘められている……』


「私は童子になれるのでしょうか」


『翡翠は悋気の色。だが道に迷わねば多くを救う』


 神が紡ぐ言葉の意味は鶴には難解だった。翡翠が嫉妬の色だと言う事は解ったが道に迷うとはどう言う意味だろう。


『紅い陽に包まれて燃え尽きたいか』


 今度はいきなり自分の奥底にあるものが言葉になって引き摺り出され、鶴はどう答えれば良いのか分からなかった。


『そなたの宿命は愛にある……人である限りそなたも救われる』


 ゆっくりと空に浮かぶ両目の間に切れ込みが入り、そこからいくつもの長い手が出て来て浮遊物を捕まえて中へ引き摺り込んでいった。


 割れ目が閉じられると巨大な両眼の瞼も閉じられ、光が吸い取られるように空間は収縮し、目の前が真っ暗闇になった途端、鶴は我に返った。神は言葉を続けた。


「道は選べる、拓け、与えよ。柔と剛を抱え、己のためでは無く他者の為に力を使え。さすれば報われん。


 ――そなたに愛敬童子の名を命ず」



 斯くして鶴は愛敬童子となった。




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