第28話 最後の童子



 愛敬童子のめいを受けたと同時にまるで泉から湧き上がる水の如く内側から力が溢れ出すのを感じた。五感が研ぎ澄まされ、空と大地の畏怖を知り、一呼吸で体を巡る血の量が何倍にも増して、風の様に走り、拳で岩をも砕けるような心持ちがした。体は何も変わらないのにまるで自分が無敵の人間に生まれ変わったようだ。これが神の眷属、童子の世界か。愛敬童子は感動にうち震えた。先ほどまで弱者の自分に何が出来るのか、童子になれなかったらどうしようと怯えるばかりだったのに、不思議と世界が希望に満ちて見える。


 興奮する愛敬童子に潜在する能力を発揮させているだけで己の力を過信する事のないようにと神は諫言し、板額御前の弓矢を手に取って童子だけが使えるよう息を吹きかけ、神器の縛りを付与した。縛りを受けた弓矢は童子以外の常人が引こうとしても弦を引く事すらできなくなった。愛敬童子と同じく見た目は何も変わらないのに強靭な代物となったのだ。愛敬童子は何度も礼を述べて家へ戻っても暫く恍惚としていた。


 をもらってからも生命童子の許で暫く弓矢の練習を続け、不安から解放されて幸せに暮らしていた愛敬童子だったが、半年も経たずして師範の弓の腕を凌ぐようになり、家を出る話が提案された。生命童子にいつまでも世話をさせる訳にはいかないと常々周りから言われていた所に、世話をしたいと信仰の厚い信者から申し出があったのだ。童子を家に迎える事は名誉な事で、家の安泰と繁栄を齎すと言われており、世話をする家は大層喜んだが、当の愛敬童子本人は複雑な気持ちだった。


 神の眷属である童子になればずっと生命童子の傍に居られると思っていた。だからこそ童子になる事を決めたと言っても過言ではない。これから毎日刀術と体術を教えてもらう筈だったのに童子達と離れ、違う場所へ移れと言われてまた別れを迎えるのかと寂しさに襲われた。そして神に近い存在である童子でさえ旧習に従わねばならぬ事をどこか滑稽に思った。だが郷に入っては郷に従えと言う事だろうと、もともと抗うことを知らぬ愛敬童子は受け入れた。


 加えて当初酒泉童子が危惧していたように愛敬童子の過去が暴かれて噂になり始めていた。坊主相手に夜伽をしていたらしいと、質の悪い話はあっという間に広がり、まだ童子として未熟な彼を揶揄からかう者もおり悔しい思いをしていた。生命童子が庇って喧嘩をする事もあり申し訳なく思った。放っておけば噂は尾ひれや背びれを付けて独りでに歩き出すだろう。見知らぬ場所へ移るのは不安だが、自分がいれば生命童子の家族にも迷惑が掛かる。悩んだ末、泣く泣く移住を決断したのだった。


 別々に暮らすようになっても生命童子の村と愛敬童子の住む町のちょうど中間地で稽古は続けられた。本来酒泉童子に教えてもらう予定だった体術は、彼の住む町が遠いため生命童子が請け負った。離ればなれになったが稽古をつけてもらうのが生命童子になったのは嬉しい誤算だった。毎日ではないがともに過ごせる時間が増えた。鍛錬は厳しいが愛敬童子にとっては癒しの時間だった。鬼退治にも連れて行ってもらえるようになり、愛敬童子はどんどん強くなっていった。


 実戦に参加するまでは鬼を退治するのに何の躊躇いを持つこともないと思っていたのだが、相手を殺すという行為は思ったよりも堪えた。

 返り血を浴びる度に自分の中に疑問が浮かぶ。誰のために鬼を殺しているのか。何のために殺しているのか。世のため、人のためというが己の命を掛けて戦うのは何故だろう。坊主たちは助けてくれなかった。だが物の怪であるカルラは柚果を救った。何故物の怪や鬼を殺さねばならないのか。人には守る価値があるのか。その疑問に答えられるのは己のみ。


 葛藤を抱え、命を掛けて人を守ると言う大きな使命を遂行するためには、無敵と思える童子にも支えになるものが必要なのだと知った。心の揺らぎは隙を作り、その隙を狙われれば致命傷にもなり兼ねない。


 愛敬童子の揺らぐ心を支えるのは生命童子ただ一人だった。彼のためと思えばどんな距離でも必ず矢を命中させる。全ては彼の傍に居るため。いつか彼の役に立つため。その事だけを考えて戦った。どう迷おうとも廉直に戦う生命童子を信じるだけだと自分に言い聞かせた。


 だが生命童子の心を埋めるものは弁才天神と彼の家族だった。そこに自分の存在があればと愛敬童子は希望を抱いたが、神への愛を詳らかに話す生命童子の顔を見る度、自分には烏滸がましいのだと自身の思いに蓋をした。


 稽古をつけてもらう前日は忘我を求めて悩ましい夜を過ごす。真っすぐ自分を見据える生命童子の奥に潜む赤いほのおが、自分の内側に巣食う妖しいうねりを燃やし尽くしてくれたならと想像し、そんな妄想を抱える自分に嫌悪を抱いた。神の言葉はその度に頭を過り、己の醜い願望を見透かしていると思うと布団を被っても、言葉で自分を繕ってみても、誰からも何も隠せないような気がした。


 そして揶揄した人が言った言葉は心無いものだったがそれと今の自分の何が違うのか分からなくなりそうで怖かった。こんな気持ちでいる事を知られたくない。穢れた躰は元には戻らない。心だけでも強く清く有らねば。愛してはならないと思えば思うほど生命童子が恋しくなった。

 自制するためよそよそしくなった愛敬童子を見て生命童子は心配した。


「敬、どうした、いつもより元気がないように見える。弓の稽古の方がいいか」


「いえ、兄様、そんな事はありません。刀術も覚えておかなければ」


「どこか具合が悪い所でもあるのか。それとも世話人と上手くいかぬのか」


「いえ、つつがなくやっております。ご安心下さい」


「悩み事があるなら俺が……」


「やだな、兄様は心配性なんですから」


「何もないなら良いのだが」


「大丈夫ですってば」


 相変わらず優しい生命童子。気遣ってもらえるだけで有難い。弟のように可愛がってくれる事の何が不満だ。穢れた自分が愛してはならない純潔の存在。愛したとて報われぬ。これ以上を求める事が過ちなのだ。だが傍に居たい。生命童子の側に居るならば強くなければならない。彼を癒す力が欲しい。彼を守る力が欲しい――。どれ程美しい瞳の奥に自分が映らなくとも、彼の幸せを願い、彼を想い、愛敬童子は闘い、己を律し続けた。我慢をするのは得意だった。



 *



 いつしかそんな生活にも慣れ、肩を並べて戦うようになって数年が経った頃、鬼が突然影を潜めて出て来なくなった。鬼が居なくなると弁財天神の悪い風説が流れ始め人々は信仰を止めて神は力を弱めていった。神の力が弱まると同時に童子たちは力を失い、人々は童子達を追いやった。愛敬童子も例に漏れず家を失った。弓を射ろうとしても弓は硬くて動かない。力を失い、常人に戻ってしまったのだ。愛敬童子は戻る家を失くし、力を失くし絶望に立ち尽くした。


 何故だ。何故人はこんなにも残酷になれる。皆命を掛けてきた。その報いがこれか。弁財天神は偽物の神だと鬼神は言った。あの言葉は真実なのか。力を失う神など、もはや……。


 憂う鳥に黒い影が手を伸ばそうとしていた、その一歩手前で生命童子は姿を現した。心配して愛敬童子を迎えに来たのだ。


 いつも自分を救うのはやはりこの方だと、泣きそうになるのを堪えた。人は神を信じたり信じなかったりする。信心を受けて神は力を強めたり失ったりする。絶対の存在で有る筈のものが絶対ではない。

 それに比べて生命童子は不変の強さを固持した。彼こそが本当の神ではないのか。いや、自分にとっては神以上の存在だと感じた。


「神よ……」

「愛敬童子?弁財天神様は力を弱めている。……お前も力を失ったのか」

「……はい」

「家は」

「追いやられました。夫婦喧嘩は弁才天神様の眷属である私の所為だと」

「馬鹿な。住む所がないなら俺の家に来い」

「ですが、噂が……私の過去が……」

「敬、お前の事は家族同然だと思っている。過去を気にする者などもういない。命を掛けて立派に戦って来たではないか。俺とともに来い」

「兄様……」


 再び生命童子に手を差し伸べられ、愛敬童子は心を取り戻した。


 唯一力を失わない生命童子は他の童子達の様子を心配してあちこちを走り回ったが結局見つけられたのは酒泉童子一人だと言っていた。その酒泉童子も力を失ったまま。


 愛敬童子は生命童子以外が皆力を失ったと聞いてどこか安心していた。童子の力が戻らないという事は神も力を取り戻せていないという事だ。神はこのまま消えてしまうのかも知れない。消えていなくなれば生命童子の心には穴が開く。その穴はきっと自分が埋めるのだ。このまま力など戻らなくてもいい。消えかけたあの儚げな神の姿は忘れもしない。力をくれた神には感謝していた。だが愛してはいない。生命童子が深く慕っているから、彼が大切にしているものを守ろうとしただけ。ただそれだけ。神に会えなくても構わない。元々神など崇めていない。自分が信じているのは生命童子ただ一人。彼さえいればそれで――。


 力を与えられながら不埒な考えに耽る自分に気付き、我に返って叱咤する最中、再び鬼が出たと村人が童子を呼びに来た。その時から体に異変を感じ始めた。


 内から湧き出る力は明らかに童子の力。神の復活を意味する。だが力が戻って嬉しい筈が、何故か空しくなった。


 人々は鬼が出てきた事で神に懇願し、恐怖し、祟りではないかと疑い始めた。願う事で人々は信仰心を取り戻し、神は力を取り戻した。皮肉な事に神の力を取り戻させたのは鬼だったのだ。童子たちを裏切った人間たち。裏切られ、見放された童子たちはすでに鬼となっており、生命童子に殺された。


 その後、生命童子は妹の喪失と呵責に耐えきれず、失っていた記憶を取り戻し鬼へと堕ちた。瞳の奥に棲む赤い魔物はとうとうその姿を現し、真っ赤になった髪を振り乱して嘆いた。そして一瞬目を離した隙に姿を消してしまった。


 大事な弟を置き去りにする程、生命童子は追い詰められていた。自害を求めていたのだから死ぬならばこの場で死んでいる筈。必ず生きている、そう信じて愛敬童子は一人で探し続けた。


 探し出すにも時間がかかり苦労したが、生きている生命童子を見つけた。


 月光に照らされて、最後に見た時よりも随分痩せていたが、妖しい深緋の瞳を輝かせて美しい鬼は森の中に立っていた。


「嗚呼……やっと見つけた」


 愛しい人は生きていた。人間であっても鬼であっても、物の怪であっても構わない。ただ傍に、傍に居たい。体中が叫びそうになるのを堪え、冷静を保つのが難しかった。


 呵責に囚われた鬼は失踪した際と変わらず自死を望んでいた。だが死ねないのだと嘆いていた。生き永らえて孤独に悲しむのであれば鬼となって同じ歳月を過ごし孤独を癒やす存在でありたい。精気に飢えているならその渇きを潤す存在になりたい。あなたのためなら全てを捧げよう。


 ――囚われた籠の中から自分を逃がしてくれた、私の、唯一の神。


 もう二度と離れたくない。愛敬童子はそれまで抑えていた欲望を解放し、縋りつき、求めた。鬼が空腹に抗えないのは知っていた。それを利用した。


 体から滴る汗に塗れ、荒々しい律動に充足感を覚えた。童子の禁忌を犯して鬼と体を繋げる。彼が飢えていたから与えたのではない。自分が欲したのだ。童子の力はもう要らない。この悲しい目をした美しい鬼とともに堕ちていく。そしてこの身が果てるまで、彼の傍にいる。


 皮膚を食い破って鬼の血を吸ったが我を失いながら精気を求める赤い鬼は気づかなかった。そのまま貪り喰われてしまっても構わない。彼の腹が満たされるまで気をやった。もう我慢しない。もう童子じゃない。


 疲れ果て、鬼の腕の中で眠っているとあの日を思い出した。柚果を失ったあの朝、柚果と笑っていた頃のように生命童子の傍で安心して眠った。もう一人じゃない、そう言われている気がした。この腕の中で再び眠れる日が来るとは。全てが運命だと思った。


「私があなたを守ります――」


 翡翠の色が黒い瞳を覆い、愛敬童子の髪は天鵞絨びろうどに染まっていった。


 間もなく角が生え、最後の童子は半妖の血を継ぐ鬼となった。










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