第29話 食事



 逢魔が時の夕陽を背に鬼は川で丹念に体を洗っていた。泥が付いている訳でもないのに、まるでこびり付いた汚れを削ぎ落すかのように皮膚が赤くなる程擦っている。しかし川の流れを見つめながら何かを期待しているように笑みは零れた。


 ぽたぽたと落ちる雫が波紋を作り、その後の水面に映る自分の姿は以前とさほど変わらないのに童子であった頃よりも生き生きとしている。


「角はこれ以上大きくならないで欲しいな。笠を浮かせるほど伸びてしまったら里に下りられなくなる。爪もまたこんなに伸びて……」


 顔を洗うたびに手に触れるひたいつのが煩わしい。爪の伸びが異常に早い事にも不平を呟くが、翡翠色の瞳をもつ鬼は今の姿になった事を憂いてはいなかった。寧ろ角と爪と耳以外、大した容姿の変化もなく済んで今の状態にある事を有難く思っていた。


 童子様、童子様と恭しく呼ばれると、稚児であった時の事を思い出した。過去がどうあれ、気高く清く有らねばならなかった。辛い日々を忘れたいのに夜になると体は熱に浮かされ、自己嫌悪に苛まれた。強さを与えられて力が漲るのに対価として重責が肩にし掛かり、自分のような者に童子が務まるのかと不安になった。神に仕える身でありながら、聖人たる清廉さをもち合わせていないと自分を責める夜もあった。自分が望んで童子になった筈なのに何故か心がついていかなかった。

 

 鬼になった今、これが自分の正しい道だと信じて止まない。童子の力は失ったが、代わりに鬼としての強靭さを手に入れた。恐れるものは何もない。神も童子も鬼でさえも、自分を脅かすものはこの世には存在しない。大義のためではなく大切に思う者のために生き、自分を偽らず欲を晒して尚彼の傍に居る事ができる。鬼という名の下であれば自分が自分であっても良いのだと真に解放された気分だった。

 

「兄様はそろそろお腹が空いて堪らない筈……」


 身体を乾かし水を汲んで、胸にそっと期待を潜ませて愛敬は家へ戻った。


 再会後、岩場で暫く住んでいたのだが二人で暮らすには手狭で、山奥に朽ちかけの小屋を見つけてそこへ越した。ボロボロの屋根も柱も二人で修繕した。赤い髪を持つ生命は角も長く、悪目立ちして村へ降りれば鬼が出たと騒然となるだろうが、愛敬の髪は漆緑で長い爪さえ切っておけば角を笠で隠して人に紛れることが出来る。自作できぬものは愛敬が里へ下りて入手し、不自由なく暮らしていた。


 人に見つからぬよう静かに山奥で過ごす二人の暮らしは慎ましやかで穏やかだった。日がな一日釣りをしたり食料を探したり、月や花を愛でてみたり、想い出話をしてみたり。薪を売って得た金で書物を買って読んだり、叶えたかった事を少しずつ叶えて、愛敬はこれ以上ない幸せを感じていた。生命の物憂げな様子は相変わらずだったが、二人だけで過ごす日々を誰にも邪魔されたくない。このまま時が止まってくれないかと願った。


 そんな暮らしの中で愛敬が最も大切にしていたのはだった。

 鬼となったからには普通の食事をしても腹が減る。廉潔な生命は鬼でありながら精気を喰らう事に抵抗を感じているため、出来る限り人が食すものを食べて空腹を誤魔化すのだが勿論腹は膨れない。人の精気の味を知ってしまってからは尚更食べ物の味がぼやけた。


 生命は限界ぎりぎりまで精気を摂るのを我慢して、月に一度だけ精気を喰う。二人はその時間をと呼んでいた。


 水の入った桶を持った愛敬が家に着くと、生命は腕を組んで囲炉裏の前に座っていた。小難しい顔をしているのは腹が減っている証拠。愛敬の顔には自然と笑みが浮かんだ。


「ただいま戻りました、兄様」


「うん、川へ行っていたのか」


「はい、身体を、洗ってまいりました」


「そ、そうか」


「お腹空いてませんか?」


「うん、そうだな。だがまだ……」


 いつまでも躊躇う生命を見て、愛敬は自分の手をひらひらと振って見せた。


「ほら、この前切ったのにもうこんなに伸びているんですよ、爪。鬼って何でこんなに早く伸びるんですかね。邪魔で仕方ありません。兄様、私は不器用ですからまた切ってくださいますか」


 そう言って小刀を渡し、いつもするように自分の指を差し出した。生命は子供にしてやるように黙って愛敬の手を取り、綺麗に爪を切り整えた。出会った頃と変わらず兄のように優しい生命。凛々しさに妖艶さを纏った横顔をまじまじと眺め、美しい彼の傍に居られる瞬間を脳裏に焼き付ける。


「兄様の爪も長く伸びすぎですよ。切っておきましょう。ほら、代わります、貸して下さい」


「俺は、自分で切れる」


 生命はどこかいじけたように背を向けた。傷つけないよう人と同じく丸い形に切り、丁寧にやすりまで掛けて整えるのは生命が気遣って始めた事だったがいつしかそれもをする前の合図になっていた。


 少しもどかしさを感じる事もあったが、人であった時と変わらぬ様に自分を律しようとする生命が愛しく、今か今かとその時を待ちわびる。


「切ったぞ」


「どれどれ」


 生命の手をとり、まじまじと指先を眺めて愛敬は彼の指をそのまま自分の頬に当てた。挙動の一つ一つに愛しさが募る。


「相変わらずお仕事が丁寧ですね。そろそろ……?」


「……」


「食べます、か?」


「いや、まだ我慢できると思う」


 の準備は万端に整えているというのに、生命はまだ理性の限界を延ばそうと試みる。


「またになさいますか?」


「……」


 残念そうに囁く愛敬の甘い声音は、誘うように生命の慾を刺激するが、生命は決して頭を縦に振らない。彼の心は罪悪感に塗れていた。稚児であった愛敬の過去を知りながら、食事と称して彼を貪る事がどうにもこうにも申し訳なくてたまらない。愛敬がその時間を楽しみにしていようといまいと、つらかった場所から連れ出した筈の彼にまた泥を塗っているような気持ちになるのだ。

 愛敬は何度も生命に説明した。自分が鬼と成ったのは生命のためであり、自分のためである。生命の傍に居たい、ただそれだけを望んでいると。そして精気を喰われる事も与える事も、生命とする事はどんな事でも嬉しいのだと伝えたのだが、生命が自分の考えを曲げる事は無かった。


 刷り込まれた被虐の性癖を受け入れて慰めてやる事が、愛敬を認め、癒す事だとは考えられず、生命は常に正しく有ろうとする。

 腹が減るのは愛敬も同じ。半妖の血とは言え、やはり鬼。互いの渇きを癒すために食事を摂るのは仕方ないのですと説得してやっと月に一度が受け入れられたのだが、毎回こうして押し黙るか躊躇って自分からは喰おうとしないのだから骨が折れる。だが外聞も何も鬼には関係ないのだから、生命が切り出さないのであれば自分から求めるまで。人の精気を求めるのは当たり前、鬼はそう言う生き物なのだ。愛敬は強くなった。


「兄様、私腹が減りました」


「お前もか……」


「どうか私のために」


 愛敬が欲しているから仕方ないのだと言い訳を作ってやると観念して生命は愛敬の頭を撫でた。親指で熟れたようにほの紅く血色の良い柔らかそうな唇にそっと触れると、そのままするりと耳の後ろに指を滑らせて、大きな掌で愛敬のうなじを包む。吐息が掛かる距離に顔が近づくと愛敬の心臓は祭りでも始まったのかと思う程大きく高鳴った。我慢して我慢してやっと与えられる快楽に酔いしれる幸せの時間。そうしてそっと口吸いをされるだけで眩暈が起きそうだった。


 欲しがっている事を明け透けにせぬよう、彼の食欲を削がぬよう声を抑え、振り乱れてしまいたい衝動を抑え、なされるがままに受け入れる。そして相手の精気を出来るだけ奪わぬよう注意を払い、吐露されるものは取りこぼさぬよう飲み込んだ。 


 神に背を向け鬼へと堕ちて慾を貪る愉悦の時間。精気を吸うとまるで蛇が背中を這うかの如く快感が腰から耳裏までせり上がり、えも言われぬ甘美を齎す。その悦楽が体を満たしていく。火傷しそうな熱い迸りを浴びて耽溺し、お互いだけを見つめ合い、愛敬は幸せに恍惚とした。


 ――繋がっているところからそのまま溶けて一つの塊になってしまいたい。この至福……私は今神と一つになっている。


 月に一度だけ。そう思えば思うほど二人の夜は、濃く、長くなった。



 *



 また別の月、川で体を洗っている愛敬の許へ風靂ふれきがやってきた。大きなふわふわの尻尾を左右に振りながら河原で座って待っている。何やら伝えたいことがありそうだ。


 気づいた愛敬は川から出て風靂の頭を撫でた。体についた水をぺろぺろと舐める風靂は、普段自由に過ごしている。時折顔を見せるのだが人が近くに来ていたり、物の怪がうろついていたりするのをいち早く知らせてくれるのだ。体中を舐めようとする風靂をくすぐったいから止めろと手で押さえて愛敬は服を着た。そして体の毛を手で繕ってやる。


「どうした、今日はなんだ。また人が山に入って来たのか?」


 その言葉には反応せず、舌を出してハッハッと息をするだけ。


「なんだ、物の怪を退治してほしいのか?違う?」


 座っていた風靂はすくりと四つ足に戻り、森の中へと進んで行く。そして後ろを振り返り、ついて来い、というようにじっと愛敬の目を見た。


「ついていけばいいのか」


 立ち上がった愛敬を見て風靂はまた奥へと足を進める。普段足を踏み入れない山まで進み、風靂はまだついて来いと振り返る。


「おい、何処まで連れて行く気だ。もう二つは山を越えたぞ」


 白い狼の足は止まらない。さらにいくつも山を越えた。こんなに長い距離を案内されるのは生命を見つけた時以来だった。まだ明るかった空はすでに暗幕の帳を下ろし、上弦の月を輝かせている。


 峠を下り始めて、やっと目的地が判明した。

 風靂は愛敬を神社の前に案内していた。神社の周りには多くの山の動物たちが集まっており、中には見たことのない物の怪や小鬼までも身を潜めて神社の境内を見ていた。


 朧雲に月光を遮られ、当たりが一気に仄暗くなると同時に空気が張り詰めた。虫の音も止み、澱みが沈殿していくように空気が澄んで時が止まる。そして花の香りがあたりに立ち昇った。この匂いは――。


 動物たちの視線が神社の前に立つ大きな石の鳥居の上に注がれ、棚引く雲がゆっくりと流れて光が差すと、小さな星がきらきらと何もないのに鳥居の上に瞬いて、どこからともなくうっすらと羽衣が姿を現し、次いで薄桃色の薄い衣を着た天女が現れた。


 天に昇ろう昇ろうとする羽衣に抱えられ、天女は宙に浮いていた。


 愛敬は背中が凍っていくのを感じた。


 

「弁財天神様……」



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