第30話 舞



 空に瞬く星が一つ地上に舞い降りたかのように、弁財天神は内側から光を放ちながら宙を漂っていた。暖かい燈は辺りを遍く照らし、集まった獣や人外たちは何かを待っている。


 神は鳥居の上にそっと足先をついて降り立った。羽衣は優雅にゆらゆらと揺れ、そこだけ極楽浄土の世界を切り取ったかのように眩く映る。


「なんだ、何が起きる?お前、弁財天神様に言われて私を連れてきたんだな。ここに連れてきたからには何か理由があるんだろう、風靂ふれき?」


 愛敬は風靂を見たが、風靂は他の動物たちと同じく嬉しそうな様子で弁財天を見ているばかりで知らんぷりだ。


 呼び出された理由が気になる。鬼に堕ちた自分に罰を与えるためだろうか、それとも鬼になった自分を退治するころすためだろうか。童子になりたいと言うを救わんと愛敬童子の名を授けた神の御心を裏切り、ただ一人鬼に堕ちずに済んだ身を敢えて自ら貶めた罪は重いだろう、だが……。


『――道は選べる、拓け、与えよ……己のためでは無く他者の為に力を使え。さすれば報われん』


 鬼になる道を選んだ。鬼の道を拓き愛する者に与える事だけを考えている。人のためではなく、彼の傍にいたいと願う自分の欲から永らえることを選んだ事に悔いはない。そして今までの苦心が全て報われたように幸福だ。その事も何もかもを見透かして尚も童子に選んだならば、何も引け目を感じる必要はない。そう思うのに不吉な予感がして堪らない。あたかも処刑宣告を待つ罪人のような心持に血の気が引いて寒くなった。これから何が始まるのか分からぬまま、愛敬は木の裏から様子を伺う。


 弁財天神は鳥居の一番上の笠木部分に立ったままゆっくりと両腕を互い違いに上下させてゆらりゆらりと揺れ始めた。群衆の中から頭が琵琶で体が人間の付喪神、琵琶牧々ぼくぼくがすくりと立ち上がると鳥居の前に座る。


 弁財天神は体を揺すり、手の甲に自分の顎を乗せてぴたりと制止すると背中からするすると宝剣を取り出した。琵琶牧々ぼくぼくはそれを合図に歌い始める。


 付喪神が奏でる雅な琵琶の音色に合わせて弁財天は宝剣を片手に細い鳥居の上で舞を踊り出した。両足程の幅しかない鳥居の笠木部分から落ちてしまうのではないかとハラハラしてしまうが、羽衣を纏った神は決して落ちたりしない。分かっているのに一挙一挙に目が離せない。ゆらりと揺れて左手を高く掲げ、片足で立つと右手にもった宝剣で空を突く。たんっと飛んだかと思えばそのまま空を切るように回転しながら蝶のように飛んでつま先で反増そりましへ留まる。凛々しく秀麗に剣を振って羽衣を翻し、戦闘神と呼ばれるに相応しく、力強い武術の型を嫋やかに組み入れ、疲れた者を包み込むような柔と剛を併せ持ったしなやかな癒しの舞を踊った。


 神が身に着けている着物は御堂の中で見た仰々しいものとは違う簡素なものだった。襦袢の上に薄い色打掛を羽織ってそれを腰で縛り、下は淡い若菜色の括袴を履いて、身体全体を羽衣が守るように包んでいる。薄い布地を越えて柔らかい体の曲線が艶めかしく見え隠れするのに厭らしさを感じさせない。母のような強さと優しさを携え、自分には持ちえぬ豊満な麗しい姿に愛敬は体がかっと熱くなるのを感じた。


 弁財天神の舞には怒りも苦しみも無く、ただ慈悲と愛に溢れていた。群衆はその美しさに溜息を零し、神の放つ光に照らされて傷ついた心と体を癒す。獣たちまで涙を流すほどに安らぎと癒しを与える。


 これを見せたかったのか――。


 愛敬は琵琶の音と歓声を背に家へと走り出した。

 

———心の内側が焼けるように熱い。嗚呼、私はなんと醜い生き物だろう。神はただ慈悲の舞を見せ、赦しを顕示したのに、私は自分の事しか考えられない。嗚呼、苦しい。嫉妬で焼け死んでしまいそうだ。この世の物とは思えぬ麗しい容姿をもちながら何にも屈さぬ最強の女神。温かく全てを赦すと慈悲深く包み込み、彼が今もずっと慕い続ける至高の存在。あんなものになれはしない。あの美しい舞を見て、彼が焦がれぬ筈がない。会えばきっと神のために再び生きると言い出すかも知れない。彼との時間が奪われてしまう。彼女を想いながら私を抱いてくれるならまだしも、神を目前にすればもう二度と触れてくれなくなるかも知れない。失うのが怖い。


 風靂はついて来なかった。音が聞こえなくなるほどに走った後、月明りを浴びぬように木に凭れ愛敬は膝を抱えて咽び泣いた。



 *



 愛敬はその夜から風靂が訪れる度にまた神に遣わされたのかと気が気でなかった。今度は自分ではなく生命の裾を引っ張っていくかも知れない。直接神から声が掛かるとも限らない。会わせたくない。彼との幸せな時間を守りたい。そう思えば思う程、あの夜の事を言えぬ罪悪感が募って、憂鬱な日々が続いた。


「敬、どうした?最近元気がないように思えるが」


 ずっと何かを思い詰めているように曇った顔をして、いつもなら食事を迎える頃にそわそわと様子を窺いながら問うてくるのにいつまで経ってもひきつったような笑顔で何も言ってこない愛敬を生命は心配して聞いた。


「何でもありませんよ、兄様。最近精気を喰っていないから……」


 そう言ってしまって愛敬はハッとして顔を上げた。生命は眉根を上げる。


「すまない。いつも俺の事を気に掛けてくれているのに、俺の限界まで我慢させてしまっている事に気付かなかった」


 そう言うと生命は優しく愛敬の頭を撫でた。ぽんぽんと二度優しく触れて、それから掌で顔を包む。


「腹が減っていたなら我慢せずに言ってくれ。俺に合わせて月に一度でなくてもいい。腹が減っているのなら、いつでも構わない」


 言われてほろりと涙が零れた。生命は鬼になりたくてなった訳では無い。人のままで有りたいと願った筈。故に精気を喰らうと言う鬼独特の行為に罪悪感を覚えている。怒りに囚われ鬼に堕ち、自身の存在さえも否定しながら生きている。その悲しい想いを癒すために自分は鬼になったのに、どうして彼の事を一番に考える事が出来ないのだろう。童子の頃は彼に触れる事さえ出来なかった。今はこんなに近くに居られるのに、どうして自分の事ばかり考えるのだと、不甲斐なさに唇を噛んだ。


「自分が情けのうございます、兄様」


「何だ、お前はいつも俺に良くしてくれる。何も情けなくはない。何故泣く」


 生命はそのまま愛敬の体を抱き締めた。ぶるると震えて愛敬は胸に顔を埋める。


「……兄様、お慕いしております」

 

 言ってしまって自分でも驚いた。反応を聴くのが怖かった。食事と称していれば、生命に罪悪感を持たせる事なく肌を重ねられると思ってずっと黙っていたのに。


「ああ……知っている」


「ほ、本当に?」


愛敬は生命を見上げた。深緋の瞳は変わらず魂を見据えるようにどこまでも澄んでいる。


「だがお前の気持ちに応える事は出来ん。俺には想う方がいる。不死の体であるからこそ尚その方を想う気持ちを偽る事が出来ない。俺は狡い男だ。卑怯だと思う。だが己の気持ちに嘘はつけない」


「……はい、承知しております」


「俺とてお前が可愛くないわけではないのだ……それも分ってくれるか」


 こくんと頷くと再び頭を撫でられて、愛敬は肩を震わせた。愛しい愛しいと体中の血液が叫ぶように彼を求めている。


「兄様……腹が減りました」


「うん、俺もだ」


 そう言って笑い、生命は優しく愛敬の唇に口づけた。翠眼からまた涙がぽろりと零れる。


「すまん、お前にいつも我慢をさせて、お前の気持ちに気付きながら、応える事が出来ぬが故に素知らぬ振りをしてお前を傷つけてきた。だから正直に言えなかった。弁財天神様をお慕いしながら、お前と褥を共にする事は俺にとっては……」


 ぶんぶんと愛敬は首を振る。


「いえ、もうこれ以上仰らないで下さい。私はあなたの傍にいるだけで、こうして貰えるだけで幸せなんです。これ以上望むものはありません」


 自分に言い聞かせるようにそう言って愛敬は傷跡の残る首に腕を回した。内に秘めていた想いをそれぞれ吐露した所為で神経が昂ったのか、その夜愛敬は哭き咽ぶほど狂おしく乱れた。何故か精気を食べても食べても満たされず、生命は愛敬の哀しげな美しい姿に絆されて、望まれるまま気をやった。


 白藤色に空が染まり、小鳥たちが鳴き始めるまで二人の夜は続いた。











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