第31話 星
陽が高く昇ったのに戸を閉め切っていた部屋は蒸し暑く、朝方まで声を上げていた愛敬の喉はカラカラだった。汗だくの体を引き摺り起き上がって汲んできていた桶の水を飲み、もう一杯を椀に汲んでから手拭いを浸して軽く絞り首周りを拭いた。
大きな音を立てないように障子と雨戸を開け放ち部屋に風を入れる。太陽はじりじりと地面を焼くように照りつけていたが川からの風は冷たく部屋は一気に涼しくなった。眉根を寄せて寝ていた生命は、幾分暑さから解放されて息を吐いた。
水に浮かぶ睡蓮のように白い布団の湖面に紅い髪が萌える。その美しさを眺めながら愛敬は神を見たのだと切り出せない罪悪感と葛藤していた。
嘘はついていない。ただ見た出来事を話さないだけ。けれど生命の心の内を知りながら話さずにおくことはまるで卑怯な事をしている気がした。その反面、心を打ち明けたのに弁財天神しか見ていないと言われて、口惜しさにこのまま話さないでおこうかと迷う。
心を揺さぶるのは生命の憂いた顔だった。以前のようには笑わなくなってしまった生命は鬼として生き永らえる事を望んでいるわけでは無い。生命の想い人が弁財天神だからこそ、鬼になるなと言われた言葉を裏切って鬼となった事実はいつまでも彼を苦しめ続ける。生命の心を自分へ向ける事が出来るならばそうしたい。だがあの麗しい女神に誰が太刀打ち出来ようか。同じ叶わぬ愛ならば、せめて彼が喜ぶことをしてやりたい。彼の傍にいる事は自分の幸せであって彼の幸せは別にある。そう思えば思う程に心は苦しさを増した。
ぐすりと鼻をすすると紅い瞳が薄目を開けて自分を見上げているのに気づき、愛敬は咄嗟に目を擦った。
「……泣いているのか、敬」
「いえ、兄様、あくびをしただけです」
肘を立てて体を起こした生命はそのまま片腕で自身を支え、傍らに座る愛敬の目元を親指で撫でた。
「敬……」
「大丈夫ですってば」
そう言って傍に置いていた水の入った椀を生命に渡した。
「喉が渇いたでしょう、兄様。どうぞ」
「うん」
椀の水をごくごくと飲み干すと口元から少し垂れた水を腕で拭く。その仕草に腹の疼きを思い出して愛敬はいそいそと土間に行き、温くなってしまった手拭いを冷やして、寝床にいる生命に渡した。生命は体を拭きながらぼうっと縁側を見つめた。
「寝すぎたか」
「そうですね、もう昼です」
「鬼になってこんなだらしない生活を送るとはな」
「鬼なのだから欲に従順で良いのです」
「……そうかも知れんな」
「兄様……」
「なんだ」
「もし……もし弁財天様に会えるとしたらお会いになりますか?」
「何……」
ぼそりと聞いた愛敬に生命は驚くほどの勢いで迫り両肩を掴んで聞いた。
「お前、弁財天神様にお会いしたのか!」
愛敬から悲しい笑みが零れる。掴まれた肩が痛い。
「直接お会いした訳ではありませんが、お見かけしたのです」
「どこで!」
まるで心臓に針を刺されているようだった。逢えば再び神に仕える者となり、その身を神に捧ぐのだろうか。あの方が居ればそれでいい?私などもう要らないのですか?嫉妬に塗れたあさましい言葉が口から這い出てきそうで怖い。だがあの夜のことを話したとしても彼を失う事はないだろうと思う。何故なら彼は鬼なのだから。精気を喰らって生きねばならない自分と同じ鬼なのだから。たとえ再び神に仕えようとも彼には自分が必要なはず――。
一呼吸おいて生命の手をゆっくりと払い、愛敬は口を開いた。
「ここから半日走った所にある山の麓の神社でお見かけしました」
それからあの夜の事を全て話した。風靂が神社へ案内し、その神社に神が降臨した事。獣や物の怪、果ては小鬼までもが集まって神の舞を見ていた事。そしてそのまま名乗り出ずにその場を立ち去った事。
生命はそれを聞くと顔を上気させて喜んだ。
「弁財天神様はご健在であったか!」
「はい」
「そうか、良かった!再会した時お前はまだ童子だったから、力を取り戻されているとは思ったが如何せんお目に掛かる事がないから心配だった。何故お声を掛けなかったのだ?童子であったお前であれば弁財天神様もお会いしたかったろうに」
どこまでも無垢に神を慕う生命の目が眩しく映る。愛敬は下を向いた。
「鬼に堕ちた私などにどうして会いたいと思われましょうか。ましてや自ら鬼となった卑しい身であるならば尚更合わせる顔などございません」
「それは俺とて……」
二人の間に沈黙が走ったが生命は自分の顔を両手でバシンと叩くと、よし!と一言大きな声を出してそのまま外へ飛び出した。
「兄様?」
「走ってくる!」
昂りすぎた気を紛らしたいのだろう、生命は振り返り、にこりと久方ぶりの笑顔を見せて寝着のまま森の中へ姿を消してしまった。視界から消えたのを確認すると愛敬はそのまま寝床へ倒れ込んだ。生命の残り香に涙が出そうになる。どれ程その匂いが体に染み付いても、彼の心は手に入らない。
「何と残酷なお方だ……だがこれが私の選んだ道」
笑顔を見る事が出来て嬉しいはずなのに心が抉られたように痛む。これから生命がどうしようと、生命には自分が必要なのだからきっと大丈夫。愛敬は何度も自分にそう言い聞かせて身支度を整え、布で角を隠して秘やかに町へと向かった。
*
上弦の月の夜、二人は白い狼と共に草叢で身を潜めていた。他の獣たちや物の怪は鳥居の下で神の降臨を待っている。
「どうして隠れるのですか、兄様」
この時を待ちわびていた筈なのに神社に到着した途端繁みに隠れた生命の後ろについて身を隠している。生命は苦虫を潰したような顔をして言った。
「こんな大きな
「ここまで来て拝顔しないつもりですか」
愛敬は呆れたと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。
「紅い瞳も髪も美しいと何度も言ったでしょう。今逢わなければ後悔しますよ」
一緒にくるのは気が進まなかった。焦がれてならない熱い視線が自分以外に投げかけられるのを目の当たりにしなければならないのだから正直つらい。だがそのまま神と共にどこかへ消えてしまうかも知れないと言う不安もあった。目を離した隙に姿を消されては堪らない。神と言葉を交わして生命がどう動くか予想が出来ず心配でついて来るしかなかったのに、いざとなると申し訳ない気がすると言い出して、自分が背中を押す羽目になるなんてやり切れない。
けれど逢えなければきっと後悔して悲しい顔をしているだろう。報われないつらさは痛いほど分かる。
「お逢いしたいのでしょう?」
愛敬は答えを知りながら問うた。
「無論、俺は弁財天神様を……」と生命が言いかけた時、上弦の月に雲が棚引いて、愛敬は空を見上げた。釣られて生命も顔を上げる。薄暗くなった神社の鳥居の上に瞬く星が一つ舞い降りた。
鳥居の周りに固まった人外の群衆は眩い光を見ておお、と声を上げ、その光の中から羽衣を纏った女神は姿を現した。
「弁財天神様……」
『一度でいい、こんな風に見つめられてみたい』
切望するほどに胸は痛む。自分には決して向けられない熱。神のみぞ知るその愉悦。何もかもが狂おしいのに動じぬふりをして独占欲を胸に隠した。
神が顕現すると同時に辺りに花の香りが立ち籠める。懐かしくありながら、愛敬にとっては羨望に駆られる匂いでもあった。雲は流れ、再び上弦の月が光を射す。
生命は興奮したのかその場ですっくと立ち上がった。体の大きな赤い髪の鬼が茂みから顔を出したので臆病な人外たちは慌てて群衆から森へと逃げてそこから様子を窺う。生命がそのまま神の許へと召されてしまいそうで愛敬は彼の着物の裾をしっかりと掴んだ。
弁財天は肩を並べて草むらに立つ二人に気付いて、薄く微笑み手招きをする。
一瞬躊躇ったものの、鳥居の真正面まで移動し、すぐさま膝を折り、頭を垂れ、かつて御堂の中でしたように二人は神の御言葉を待った。鳥居の上から花びらのようにふわりふわりと神は地上へ舞い降りる。その足は地を踏んでおらず、辛うじて浮いたままだ。
蝶が舞うかの如く美しい声で神が言葉を紡いだ。
『息災であるようだな、生命、愛敬』
「はっ」
『面を上げよ』
言われて二人は神を見つめた。
「弁財天様こそ、ご健在で何よりでございます」
地に下ろした拳を握り締めて赤い鬼は震えていた。虫の音と、木々が風に靡く音が時折静かに響く。落ち着きのない生命の様子を見て神は訝った。
『生命、どうした』
「いえ、御姿を拝見出来ただけで……それだけで……嬉しくて」
振り絞るように秘めた神への愛を口にされて愛敬の内側が焼けるように痛んだ。全てを注いで尽くしても、愛しい者の目に自分は映らない。逆立ちしたとて太刀打ちできない相手に妬心を抱いても意味はない。相手が神なら尚更愚かだ。分かっていても抑えられない。強い感情の波動がもれ出たのか、自分ではわからぬ程酷い顔をしていたのか、神は視線を愛敬に移して口を開いた。
『案ずるな、愛敬。我は神。そなたたちは今や鬼だ』
神に言われて愛敬はハッとした。そうだ鬼と神は交わることができないと童子の頃にどこかで聴いた。嫉妬をせずとも良いのだと、そう言われている気がした。
「申し訳ございません」
愛敬の言葉は神に対して抱えた妬心と、童子に命じられながら己の意思によって鬼へ堕ちた大罪への謝罪の念が込められていた。分かっていると言うように神は頷く。
「そなたが選んだ道だ。己のためでは無く他者の為に力を使え。さすれば報われん」
鬼になっても与えられた言葉は命を受けた時と同じものだった。予言はどこまで見据えているのだろう。
神は生命に近寄り、その頬に手を伸ばした。愛しそうに触れようとする仕草は、童子の頃と変わらないのにそこには不思議な隔たりが生まれていた。決して突き破る事の出来ない透明な膜が神と鬼の間に立ちはだかり、氷のように光だけを通して決して温もりを通さない。生命は目を見開いた。
「どうして……」
触ろうとしても触れられない。生命はその手に再び触れられるこの時を待っていた。神々しい手が自分の頬に触れたはずなのに、それが感じられない事に衝撃を受けた。神に包まれ癒された愛しい時はもう二度と戻らない。鬼という穢れたものに神が触れる事はないのだと知り、全身の血が抜けていく様な気がした。
神はふっと寂しそうな笑顔を零して言った。
『何も悲しむことは無い。生命……そなたが愛おしかった。童子のままで居てくれと、何度もまじないをした。その髪に、手に、加護を授けた。しかし鬼の血は怒りと憎しみに抗えなかったのだ。にも関わらず鬼に堕ちてもなお美しく、気高く、人一人として傷つける事無く生きるそなたを誇りに思うぞ』
そう言った弁財天の後光に濁りが生じた。それを誤魔化すかのように羽衣は広がり、神は顔を隠すようにして宙を舞う。きらきらと輝くのは神の御光かそれとも涙か。蝶が光の粉を散らしながら舞う姿は絵巻の中から出てきた極楽浄土の一場面のように清麗であった。生命は絶望を抱えながらもその姿を目に焼き付けていた。不思議と心臓が早まる。悪い予兆だ。
神は鬼からの熱い視線を躱すように涼やかに浮遊しながら訊く。
『そなたを生命と呼べば童子の頃を思い出して辛かろう。新しい名はいらんか』
生命は是非と頷いた。雲のように鬼の周りを漂いながら神は名前を考えた。そして宙で止まり紅い双眼をじっと見つめ、神の瞳の宇宙に生命が吸い込まれそうになった時、名を思いついた。
『麗しい瞳と髪に宿りし紅き炎を称えて
はい、と生命は大きく頷いた。再び神の後光は鈍くなったが神は気にせず今度は愛敬に向き合う。
『愛敬、青々とした山の緑に包まれる如く心穏やかに保てるよう、そしてその麗しき翠眼にちなんで、そなたには
最後と聞いて生命は弁財天を見つめた。徐々に光が弱くなり、弁財天の身体が心許無く透け始めているのに気づいた。力を失ったあの時を彷彿とさせる。
「弁財天様、お身体が!」
生命は慌てふためいたが神は笑っていた。
『案ずるな。童子たちが鬼となって人を襲った後、人々はそれが神の怒りだと思い込み、怒りを鎮めようと我を祀る神社や祠を国中に建てた。幾千と建てられたそれらは力の泉となり、我は強大な力を持つようになったのだ。力が強すぎて、神々の拮抗を保つよう七福神の一員とされ、我は不動の存在となった。故に力は喪わん』
「しかし!」
『我はまつろう神。神が鬼を慈しむようなことがあってはならんのだ。姿がそなたたちに見えなくなろうとも我は消えぬ』
夜の靄と化そうとしていた神体は、鈍く光りながら空高く高く舞い昇った。
「弁財天神様、待ってください!」
神はその声がまるで聞こえてないように雲まで昇った。
そして生命の心にだけ、残り香のように僅かに声が聞こえた。
『半妖でありながら人よりも情深く、鬼よりも強く、さらに妖しく光り輝くそなたには心揺さぶられるばかりなり。愛してはならぬものを愛した我が罪は重い。愛しきものに触れられぬ沈痛は愛と共に捨てゆこう。さらば、生命』
流れ星のようにきらりと光り、神は尾を引いて雲間に消え、そこから星が一筋流れて山の頂の影に落ちていった。
「弁財天神様!」
悲嘆に叫ぶ紅生の声は虚しく夜の山に響き、森に潜んでいた獣も物の怪たちも神の姿と共に散りぢりに闇へと消えていった。
「行ってしまわれましたね」
敬翠は最後だと告げた神の言葉に愁眉を開き、肩を落とす紅生の背中にそっと手を当てた。
悲しみに震える鬼の姿を隠すように、上弦の月は分厚い雲を纏って見えなくなった。
*時雨月=陰暦十月の別名
*花残月=陰暦四月の別名
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