第16話 狼③


 狼はそれから毎日童子の元へ来るようになった。柿色の空が紫苑と混じわり始める薄明の刻、どこからともなく姿を現し、木の下の定位置を陣取ると童子の食事を眺め、独り言を聴き、彼を包むように体を丸めて眠り、そして日が昇ればそっと寝床を後にして、夕刻にはまた姿を現した。童子は戸惑った。毎日の様に現れる狼の目的が分からない。懐かれるような事をした覚えもない。


 夕餉の時間辺りに来るので最初は餌が欲しいのだろうと考えた。腹も膨れぬのに殺生をするのが嫌でいつも山菜の汁物や芋を炊いたものを食べていたから、狼が好む食べ物は持っていなかった。肉であれば何でも食べるだろうと昼間にわざわざ矢を射て鳥を捕獲し、夜来た際に目の前に置いてみたが口にはしなかった。だが帰る朝には置いていた鳥を咥えて持ち帰った。自分の本来の住処では食事を採るようで、実体のない獣神や物の怪の類という訳ではないらしい。餌を用意しない日を挟んでも狼は必ずやって来た。触ろうとすれば素直に頭を下げて撫でられる。嫌がる素振りも見せない。夜道の散歩に出かけると後ろからついて来て、走れば楽しそうに横を駆ける。夜の間は童子の傍を離れるつもりが無いのに気づいた。

 

 狼は基本不愛想にただ寝転んで、毎晩何度か遠吠えをするだけで訪問の理由は明らかにならなかったが、彼が傍に居ると童子の心は潤った。どうやって死のうかとあれ程悩んでいたのに、今日も来るだろうかと心待ちにするようになり、憂鬱な日々は光を取り戻し始めた。自分の食料を調達する折には、狼が好む獲物を探し、狼が寛ぐ木の下には藁を敷き詰めて寝床を作ってやった。自分以外のために何かをする事で童子は少しずつ明るさを取り戻し死への執着を忘れ、人に戻った様に錯覚した。元来姿形が変わっただけで生命童子の中身は何一つ変わらなかったのだから、人に会わず、己の姿を再確認しなければ鬼なのだと自覚する事は殆んどなく、自然、憂う事も少なくなった。寒さに堪える事で自分へ罰を課していた童子は暖かい布など持ち合わせておらず、寒い夜には悪夢を見ていたが狼と眠れば優しい夢を見た。孤独な心には狼の存在そのものが癒しだった。

 

 襲われた人を助けてから再び満月を迎えた夜、白い大きな獣はいつもと違って寝転ばず木の下に座って森の中を凝視していた。


「どうした、今日は寝んのか。満月の夜は気が立つというからな。どれ、一緒に散歩でもするか」


 そう話しかけて腰を上げると、狼も腰を上げた。そして耳をぴくぴくと何度か動かすとゆっくりと先に森の中へ歩き出した。


「何だ、今宵はお前の先導で歩くのか。いいだろう」


 そう言って狼について行こうとしたが狼が足を進めた闇の中に気配を感じて、童子は歩を止めた。枝が踏まれて折れる音が聞こえる。そしてそれがゆっくりこちらへ向かってくるのが分かった。


 童子は瞬時に身構えた。こんな夜中に山奥へやって来るのは人ではない。きっと鬼か獣だ。狼が唸りもせず吠えもしないという事は狼が怖がる必要のない相手という事。きっと満月の夜にがやって来ることを狼は知っていたのだろう。だから今日は木の下に座ってじっと森の中を見ていたのだ。生命童子は息を飲んでそれが森から出てくるのを待った。もし狼が鬼の仲間ならば即座に斬り殺さねばならぬと悲しい心算をした。


 だがその姿が現れた瞬間、殺気は驚きにすり替わった。漆黒の森から出てきたは月光を受け、神々しく光って見えた。鬣の美しい大きな馬と、その馬に乗る人。横について戻って来る見慣れたあの狼でさえまるで神の遣いの様に見えた。馬上の人は弓と箭を背負い凛々しい姿で童子を真っ直ぐに捉える。


「なんで……」


 生命童子は今までというものが他の者にどの様に見えているのか考えた事もなかったが、放たれるその覇気や威風がこんなにも眩しく映るものだとは知らなかった。自分がどれ程卑しい存在であるのかを思い知らされたような気がして居た堪れなくなる。自分には手の届かぬ者、清浄の道に立つ使者、触れてはならぬ浄き存在。それは自分が穢れた鬼に堕ちたから感じる事なのか。生命童子は忽ちそこから逃げ出したくなり背を向けた。馬上の人が慌てて声を掛ける。


「兄様、行かないで!私です、愛敬童子です」


 分かっているとは答えず、生命童子は振り返り、馬上へと視線を上げた。愛敬童子はすぐに馬を降りる。


「御久しゅうございます。兄様……」


 愛敬童子は深々と頭を下げた。頭を下げるのはこっちの方だと、生命童子は心の中で呟いた。愛敬童子は柔らかな雰囲気を持つ麗しい顔の男だが、憂いを帯びた瞳には経てきた苦労を滲ませていた。全てを彼に押し付けて逃げた己の醜さが恨めしい。


「お元気でしたか、兄様……随分探しました」


「敬……」


 笑みを作り愛敬童子は紅い目を見つめた。風が吹き流れ、雲が時折月明かりの邪魔をする。馬が疲れに鼻を鳴らすと愛敬童子はその頬を優しく撫でて労った。長旅で疲れたろうと手綱を外すと馬はゆっくりと草叢へ足を動かし下草を食べ始めた。狼は愛敬童子の掌に頭をこすりつけて俺も褒めてくれと言わんばかりに甘える。


「お前の狼だったのか」


「ええ、昔熊に襲われていた所を助けて連れ帰り神使となった狼です。場所のを解いているから今は自由に動けるんですよ。普通の神使は場所に縛られますから。名前は風靂ふれき。兄様を探すのを手伝って貰っていたんです。偉かったぞ」


 狼は喉を撫でられ気持ちよさそうに顔を主人へ向け目を細めた。神々しく見えたのは当たり前、狼は神使だった。この一ヶ月、主人が来るまで代わりに見張っていたと言う訳だ。通りで懐かしい温かさを感じる筈だと生命童子は納得した。だがわざわざ探しに来た理由が気になる。


「まさか春次に何かあったのか……」


「いえ、春次は名を変えて別の村で安全に暮らしています。猿鬼にまた狙われるといけないので私も滅多には顔を出しませんが、子供の出来ない夫婦の養子となり幸せに暮らしています」


「そうか……」


 春次の事は任せきり。鬼になった童子達が人を襲ったのだから村人から責め立てられたかも知れない。事後のことは全て愛敬童子が取り計らったに違い無い。礼を言うのが筋なのに、この場を立ち去りたい、自分の姿をこれ以上晒していたくない、そんな気持ちでいっぱいの生命童子の口から出る言葉は後向きなものばかりだった。


「何故だ……何故俺を探しに来たのだ」


「会いたかったのです」


「こんな醜い姿になり下がった俺に会ってどうする。俺を嗤いに来たのか」


「まさか!どうしてそのような事を仰るんですか。私の知ってる兄様は謙虚な方ではありましたが、間違っても自分を辱めるような事を口にするような卑屈な方ではなかった」


「そうだ、俺は野蛮な鬼なのだ。見よ、この角を、赤く染まった爪を、髪を!敬、俺は鬼なのだ」


 自分で放った言葉が毒針となって自分に刺さり腹の底から湧き上がるような悔しさが生命童子を襲う。鬼に堕ちるなとあれ程崇め慕う神から言われたのに、自分を抑えられなかった。人のままである愛敬童子が羨ましい。死んで詫びる事ができないのなら、このまま忘れ去られて誰にも会わず孤独に生きる事が唯一の贖罪である筈。そんな事を想うのに孤独を救ってくれた狼の主人が愛敬童子であった事が、彼がまだ自分を忘れず探してくれたことが本当は嬉しい。生命童子の心は乱れていた。


 どうすればいいのか、何が正しいのか分からない。吐露してしまいたい気持ちに駆られるが月夜に照らされる愛敬童子の真っすぐな瞳に角が生えた自分の姿が映れば、裸の心は再び雲隠れした。


「俺は鬼の子。鬼となるのが運命だった。鬼に堕ちた仲間さえ殺した。妹も守れなかった。弟をお前に押し付けて、毎日死のうとばかり思って生きている」


「やめて下さい」


「鬼は人とは相容れん。共には生きていけぬのだ。俺の心は悍ましい欲と嫉妬で埋め尽くされている。死のうと思っても死ねぬ体。醜い傷塗れの体。生きる価値もないのに俺は……」


 卑下する生命童子の口を塞ぎ、愛敬童子は大きな身体を引き寄せた。厚い雲が月を横切り、辺り一帯に影が落ちる。刹那に息を呑み、生命童子の心臓は大きく脈打った。触れた部分から磁気を帯びたように体がびりびりと痺れ出す。


 生命童子の紅い瞳は一層濃さを増して妖しく光った。鬼の血がどくどくと音を立てて体中で暴れ出す。五感の全てが目を覚まし、決して開けてはならぬと言い聞かせて来た扉が、人の肌に触れただけでいとも簡単に開かれた。

 心臓の音が早まり温度を上げて行く。嗅いだことのない甘い匂いが鼻の奥から脳内に走り、全身の毛が逆立つ。人の体の柔らかさを感じそのまま貪り食いたい衝動に駆られ、鬼が人を欲するという事がどういう事なのか、生命童子はこの時初めて知った。そしてその業の深さは相手を殺しかねないものなのだと直感する。


「どういうつもりだ……」


 本能を抑え込む術がない。自分が自分でなくなってしまう恐怖。肉体に続き魂までも鬼に侵されゆくのか。地獄へ足を踏み入れて、どこまで堕ちればいい。恐れているのに堕ちてしまえば楽になれると鬼は手をこまねいている。


「兄様は可哀想なんかじゃない。醜くもない。その角も髪も瞳も、どうなったとしても貴方は貴方、美しいままです。もう十分苦しんだ筈。今度は兄様が救われる番だ」


 抗う生命童子に尚も体を擦り寄せて愛敬童子は本能へと導く。


「ヤメロ」


 吐いた言葉とは裏腹に血が騒ぐ。欲望に抗えない。理性が呑み込まれる。


———本当は欲しい。欲しい、欲しい、欲しい。恋しい、恋しい、温もりが恋しい。


 肉体の飢えは理性に勝てなかった。意思に反して体は勝手に動く。甘い果実の香りに引き寄せられるように、縋る男の首筋に鼻を擦り付けて匂いを吸い込む。呼吸は狼の様に荒々しく、しかしどこか優しく、愛敬童子の背中に手は伸ばされた。赤い爪を立て、角の生えた鬼は自分を見つめる美しい男の着物を引き裂いた。





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