第17話 愛敬童子①
体中を貪られ、抑えられずに声が響くと理性がどこかで働くのか鬼は躊躇い動きを止めた。大丈夫だから続けてくださいとその度に人が耳元で囁く。手を引かれ優しく
*
陽が上り、風が鳥と戯れ始める頃、いつもならとっくに
鉛のように重い体を捩り、紅い前髪を掻き分け、寝息を立てる顔をまじまじと見つめ捜索の日々を思い返す。
場所を特定するのには随分苦労した。狼達の行動範囲を広げるのにも時間が掛かり、もしかして彼がふらりと戻ってくるかもしれないと家を空ける事が出来なかった。春次の様子も気になって見に行く事も多く、じっと待っているようで思った以上に忙しない暮らしだった。鬼が再び姿を現し残虐な殺戮が起こった件は神の怒りだと人々は慄き、残された愛敬童子に不自然な程恭しく接した。人の浅ましさをよく知る愛敬童子にとって、その冷酷さや豹変ぶりは驚くものではなかったが大層居心地が悪かった。
いつ見つかるかも分からず漫然とした毎日ではあったが諦めなかった。きっと生きている、直感がそう告げていた。どうせ自分など、どうせあの方には敵わない、そんな気持ちに何度も揺さぶられながら彼を探し出せるのは自分しか居ないのだと信じてやってきた。紅い髪を一筋指に絡めて遊び、彼の体に自分が付けた傷を見ればそれだけで苦労の全てが報われた気がした。
見つけたとて、話を聴いて貰えるのかも定かではなく、彼が姿を眩ます前に足止めをしなければならなかった。今度見失ってしまえばもう二度と見つけることが出来ないような気がしていた。説得するには時間が掛かる。ならば時間の掛からぬ方法にしなければならない。飢える鬼の本能があるならば考えた策が一番効果的だった。人でさえその欲に抗う事が出来ないのだから、鬼ならば尚更。
蠱惑の策を使い鬼の本能を刺激する事は諸刃の剣。危うくすれば食い殺されるか生気を吸いつくされて朝には屍となりかねない。だが自分ならきっと大丈夫だと思った。策に失敗しても彼が居ないこの世界など生きる意味が無い。彼の傍に居ることが出来ないのなら死んでも良かった。だから策を練り、自制することなくこれが最後と思って後悔のないよう思い切り気をやった。想像以上に体力は奪われたが、童子である為か鬼が無意識に制御したからなのか、生気を大量に奪われても死なずに済んでいる。
頬に触れ、そのまま彼の首の周りの大きな傷跡を指でそっとなぞった。自分の知る限り闘いで大きな怪我など負ったことは無かった筈。傷が出来ても神の庇護を受け全て癒えていたのに腹にも新しい傷をいくつも見つけた。なのに背中には一つも無い。全て自害しようとした傷だからだろう。岩場の端に無造作に置かれている刀では彼の強靭な肉体は斬れないということだ。宝剣を預かっておいて良かったと、そう思いながら刃こぼれした刀を横目に、寝ている生命童子の肩へ覆いかぶさった。
「もう一人ではありません」
耳元で囁くと生命童子は身じろいで目を覚ました。
「重い……」
小さく呟いて紅い瞳が薄っすらと見えると愛敬童子は微笑んだ。
「兄様……お早うございます」
「うん……、お早う……」
数秒の沈黙の後、いつもと違うと気づいた生命童子は飛び起き顔を真っ赤にして岩の壁まで後ずさりした。そして自分の頭の角を確かめた。孤独な時間が長すぎて昨日起きた事が現実なのかそれとも夢なのか判別がつかない。
「夢ではなかったのか……」
「はい、兄様」
そして昨晩の事を思い出し、今度は蒼白になりながら愛敬童子の両肩を掴まえて確認した。
「体は、大丈夫か」
「ええ」
「本当か」
「平気です」
良かった、と生命童子は安堵のため息を吐いた。
「……すまなかった」
「どうして謝るのです。私は何も後悔していません」
そこでぐぅと愛敬童子の腹が鳴った。
「腹が減ったのか」
ここまでの旅路に加え生気を吸われた後だ、腹が減るのは当たり前。生命童子は微笑みながらその音を聞いて自分の腹に手を充てた。今まで何を食べても満たされなかったのに嘘の様に腹が満たされていてはっとした。際限なく求めて貪った生気で鬼の体が満たされたと言う事に罪悪感を感じ顔を顰める。昨夜の意識は曖昧ではっきりとは覚えていない。知らぬ間に生気ではなく、人の肉を食べていたらと思うとぞっとした。鬼として人を喰らった事実に、いよいよ肉体までも鬼へと堕ちたのだと奥歯を噛み締めながら生命童子は着物を探し、「お前も着替えろ」と愛敬童子に言うと身繕いを始めた。端に桐の紋様が付いた角帯を腰に回し、しっかりと括るとそれをじっと見つめる。春乃が縫っていたお守りの角帯だ。大事そうにそっと親指で撫でると、重たそうな口を開いた。
「お前とは、一緒におれん。飯を食ったら帰ってくれ」
突き放す言葉に動じず愛敬童子は問うた。
「何故ですか」
「昨夜の事はすまん。鬼になって初めて人の肌に触れて自分を抑えることが出来なかった。鬼の血がそうさせたのだ。俺は、俺ではなかった。このまま共に居ればお前の気を全て食い尽くしいつかお前を殺してしまう。帰れ」
鬼が人を欲する、ただその欲望に突き動かされただけ。そこに自分の意思は無かったと告げられた愛敬童子は少なからず傷ついた。だが想定内だった。自分を必要以上に卑下する愚直なこの男の考える事位予想できた。何度も自害を試みる程己を許せずに生きている。鬼に成り下がってその上人の気を喰らって生きていくなどもっと許せないだろう。それに彼の想い人は雲の上。触れる事さえ叶わぬ方を想い、自分を代わりにしたのかも知れない。腹が満たせれば誰でも良かったかも知れない。それでも構わなかった。愛敬童子とていい加減な気持ちで彼を探していた訳では無い。覚悟を決めて生命童子を迎えに来たのだ。その覚悟はもうすぐ現れる。
「兄様のお傍に居させてください」
「お前がここから動かぬのなら俺が離れるまでだ」
「であればまた探すまで」
「……鬼は人の様に年を取らん。お前は瞬く間に生気を絞り取られて歳を取り死んでしまう。俺はお前まで殺してしまった事をまた嘆き悲しまねばならなくなる。そんな哀しみには耐えられん。これ以上罪を重ねたくはないんだ。春次を見守れる場所に戻ってくれ。そしてお前も嫁を貰って子を作り健やかに過ごせ」
愛敬童子はどこをどう着れば良いのか分からなくなった着物を丸めて居直った。
「兄様と離れるつもりはありません。私の幸福はあなたと共に居る事なのです。誰かの代わりでも、欲の為でも結構です。傍に置いてくださればそれでいい。私にはその覚悟がある」
「お前は……幸せにならねばならん」
「私の幸せは兄様と共にある事だと申し上げた筈」
「俺はもう童子ではない。俺に頼るのは間違いだ。童子が辛いなら神からの
「私の幸せは私が決めます。私はあなたと生きる。それが私の幸せなのです。何度言えば分かってくれますか。それに私はあなたと生きながらえる事が出来る」
「生気を吸うとは命を喰らう事。鬼の俺とは一緒にはおれん。お前は人だ。神に永遠の命を賜ったとでも言うのならまだしも……」
「いえ、その逆です」
「逆とはなんだ」
「だから、逆です」
「どういう意味だ……」
「神ではなく、鬼です」
「なっ……」
目を見開いた生命童子に愛敬童子は「ええ」と肯定の言葉を返した。
生命童子は夜を思い出し慌てて着物の袖を捲り自分の腕を確認した。人の歯型の傷跡が出来ている。恐らく流血したであろう深い傷口だが、既に鬼の治癒力で瘡蓋になっていた。欲望に突き動かされ、我を忘れ朦朧とする中、飢えを癒す救い主の言葉を思い出した。「あなたの血が欲しい」そう言われて望まれるまま差し出した腕は噛まれ、血が流れた。その血を溢れる分だけ飲む姿にも劣情を覚え、獣となったのは幾刻前の事だろう。鬼の顔は蒼褪めていく。
「よもや……あれも現実であったか」
鬼の血を飲んだものは鬼になる。そうやって仲間の童子達は鬼となった。生命童子は半妖。己の血が目覚めて鬼と化した。半妖の血を飲んで鬼になるのかは分からない。だが何も無いとは考えにくかった。愛敬童子の策とは生気を餌に彼の意識を奪い、その間に鬼の血を飲み己が鬼となる事だった。絶望の淵に立たされたような顔をして生命童子は頭を抱えた。
「何故こんなことを……」
「兄様と共に生きる為です」
「お前まで……」
「兄様と共に生きるにはどうすればよいのかずっと考えていました。一緒に自害する事も考えました。だがこのまま死ぬのは悔しいではありませんか。家族も仲間も失い、悲しみに打ちひしがれ死にゆくのですか?何のために私たちは闘ってきたのでしょう。何のために生まれたのでしょう。神の為?あの身勝手な人間達を救う為?違う。私達は私たちの生きたいように生きればいいのです。我々は森羅万象の一部に過ぎない。生きる意味などないのです。神もただ居るだけ。求められれば生まれ、忘れ去られれば消えてゆく。草は生まれ、踏まれ、花を咲かせ種を残し死んでいく。鬼は理に反して生きる存在。神と同じく、ただ居るだけ。求められもせず、忘れ去られてもそこに居る。貴方が鬼になったのなら、私も鬼となり共に生きます」
「……何故ここまでするのだ」
「言ったでしょう。貴方と共に居る事が私の幸せだからです。鬼化がいつ始まるのか、貴方と同じように人の心を持つ鬼になれるのか、それとも本当の鬼になってしまうのか。それさえ私には分かりません。ですが醜い鬼となり人を襲うなら、貴方が私を殺すでしょう。さすれば私の苦しい日々も終わりを迎える。もし貴方と同じ人の心を持てるなら、どれ程命が長くとも、兄様を一人にさせずお傍に居れるのです」
「お前……」
「分かっていますよ。馬鹿だと言いたいんでしょう?いいんです。貴方の傍を離れる位なら死んだ方がましだから」
生命童子は修羅の道を選んだ愚かな男を見つめた。
「それにこの引き裂かれた着物では村へも帰れません」
愛敬童子はそう言って袖ばかりになっている着物を見せた。
「誠に愚かだ……」
一人の男を鬼たらしめた自分の業の深さに生命童子は再び溜息を吐いた。
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