第15話 狼②



 山間の夜露は糸雨しうに降られたように辺り一帯を濡らし、霞む空気は水を含んで重い。土も岩も木も草も、何もかもが静寂に息をして、遠くに聞こえる動物の鳴き声と、傍らに置く焚火の木が小さく弾ける音、葉に付いた僅かな露が集まりぽたりと落ちていく音以外は何もない、いつもの森閑たる夜だ。


 大きな巌と巌の間に倒木を何本も渡して屋根を拵え、雨を凌ぐねぐらを作った生命童子はその下で藁を重ねて寝転んでいた。昨晩出逢った狼を撫でた手がまだ温かい様な気がする。自分以外の温もりをこれ程恋しいと思うとは情けないと溜息をついた。見つめる手の爪は赤く、垂れる髪も紅に染まり、頭には得体の知れない角が生えている。鬼の自分と誰が一緒に居たいと思うだろうか。鬼が人の前に出れば恐れられる。弟を傍で守りたい気持ちは山々だったが、鬼が村人に混じって生きていける訳がない。昨晩は反射的に人を助けたが、人は恐ろしい生き物だという事も痛い程知っている。他人を犠牲にして己の安楽だけを求める業の深い生き物。守られてきた事を忘れて童子達を追いやる程、義のない生き物。鬼となった童子を見れば石を投げるだろう、刃を向けるだろう。春次は鬼を囲う異端者と罵られる事になる。童子達の様に追いやられてしまうかも知れない。猿鬼は逃げたが、童子と一緒に居るとなれば必ず報復にやって来る。人に戻れぬのであればやはり一人でおらねばならんと、逡巡は必ず同じ結論に至った。考えていてもつまらない。もう火を消して眠ろうと身を起こそうとした折、焚き火の炎が揺れ、何かの気配を感じた。


 外へ足を運ぶと、巌の前に立つ大きな木の下に狼が座っていた。翡翠の眼を持つ昨晩の狼だ。匂いを追ってやって来たのかも知れない。生命童子は自分の体を嗅いだ。


「俺は忘れられぬほどいい匂いを放っておるのか」


 狼は何も言わずじっと生命童子を見ている。


「何しに来た。お前にやれるような餌は持っておらんぞ。もしや昨夜食いそびれた俺を食いに来たのか?」


 童子はゆっくりと狼に近づいて、昨晩同様手を差し伸ばした。その匂いを嗅いでから何かを考えているように暫くじっとしていたが、どうやら撫でても良いと判断を下したようで狼は頭を垂れた。毛並みに沿って優しく撫でていると、狼の体が昨日見た時より随分汚れているのに気づく。


月白げっぱくの美しい毛が茶色に染まっている。泥遊びでもしたのか、そんな若造には見えんが」


 狼はそんな事お前に関係ないだろうと言いたそうに遠くの山を見つめた。遠吠えが微かに聞こえる。


「俺に懐いても何もいい事はないのに変な奴だ」


 その温もりにまた触れられるとは思わず、童子は頬を綻ばせた。狼は気持ちよさそうに撫でられながら前足を伸ばして寝そべり、そこへ自分の顎を乗せ、眠りに就くように目を閉じた。


「おい、ここで寝るのか?俺の寝蔵を奪おうって算段か」


 狼は岩場に寝床を持つというから場所としてはちょうど良いのだろうが、何故童子のいる岩場へ来たのかは分からなかった。


「狼の考えている事など俺には分からんがお前は大層温かくて気持ち良い。どれ、そこで寝ているならば俺の独り言に付き合って貰おうか」


 生命童子は寝そべる狼の傍らに座り、取り留めも無いことをつらつらと話した。母親の腹の中にいた頃の記憶まで蘇った事。己の父親が鬼であった事。鬼の父と人間の母は深く愛し合って自分が生まれた事。弁財天への愛、鬼に春乃を殺された事の憤り、仲間を殺してしまった呵責、鬼に堕ちた時の恐怖。誰にも聴いて貰えなかった心の内を理解出来る筈もない獣に話した。狼は相槌を打つわけでもなく嫌がる素振りを見せる訳でもなくただそこに居て聞いていた。中身を理解してもらった訳でもないのに話すだけで生命童子は気が楽になった。誰に恥じる訳でもなく、蔑まれる事も無く、妬まれる事も嫉む事もなく生きる今は、もしかしてこれまでよりもずっと自由なのかもしれない。そんな風に想いながら生命童子はいつの間にかこっくりこっくりと頭を落とし眠ってしまった。


 吐息を立てる童子の体を包むように狼は体を丸めて尻尾で生命童子を覆う。生命童子は久しぶりに温もりを感じながら眠った。

 

 ――夢の中で生命童子は幼い春次と一緒に寝ていた。春乃がもう起きなさいと起こしに来るのだが、春次はまだ兄と寝たいと布団の中に潜り込む。では今しばらく共に微睡もうか、と優しく言うと春次は目をつむったまま笑い、再び眠りに落ちた。幼子ゆえの体温の高さが愛しさを募らせ、自分も目を閉じる。「春次は暖かいな」春乃が朝餉の準備をしている――。


 朝露が付いたのか、狼に護られるように包まれて眠る童子の眼から雫が流れ落ちた。狼は日の出と共に立ち上がり、童子を置いて山中へと姿を消した。



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