第42話 赤い涙
敬翠は木陰からじっと道行く人間の様子を観察していた。大抵の者は荷物を抱えて忙しなく歩いており、なかなか声を掛けられそうにない。簡単に精気を吸える様な人間は案の定捕まらず、抱える不安のせいか腹の減りはいつも以上にひどく感じた。だが焦りは禁物。この町には定期的に精気をくれる見知った人間たちが住んでいる。山からも近い。条件がそろっているのだから慎重にせねば。
爪を噛みながら待っている間に二人の男が山側から馬を引いて出て来た。ひと仕事終えた後なのだろう、疲れた様子で話している。敬翠は耳をそばだてた。
「……――大した怪我じゃなくて良かったですね、あの三人」
「そうだな。薬の調合は紙に書いて村の医者に渡しておいたから、置いてきた薬を服用して滋養をとれば直ぐに良くなるだろう」
「これでもう行かなくて済みますね。神社から長い間山道を走って馬もへとへとです」
田舎に往診をしに行った帰りだろう四角い木の箱を背負った薬師らしき男たちは鼻を鳴らす馬の鼻梁を撫でて労っていた。疲れた男の性欲は強いと言う。敬翠は素知らぬ顔で男たちの後ろについて歩き出した。上手く話しかけてどちらかと今宵の食事が出来ればいいのだがと目論む。
「にしても鬼に連れ去られたのに帰って来たなんて初めて聞いた。本当に運が良かったんだろう」
「ええ全く。田畑まで荒らされてるって事は鬼が夜中に家の周りをうろついてるって事ですから、そんな中帰って来れたのは奇跡ってもんですよ」
鬼と聞いて敬翠は立ち止まって自分の頭を確認した。鬼、鬼と話に出てくるのでまさか気づかれて牽制されているのかと思ったが二人が後ろを振り返る様子はない。敬翠は男たちに遅れぬよう聞き耳を立てて再び歩みを進めた。
「鬼に連れ去られた四人の内の一人は山の中で見つかったって、帰りやけ騒いでました」
「助かった三人は突然神社に姿を現したらしいから、鬼ではなく神隠しなのかも知れないという人もいたな。あの神社の裏山には曰く付きの泉があるらしいし」
「神隠しだとひょいと戻って来ることもあるって聞きますから、一人死んでるんじゃやっぱり鬼でしょう」
神社の裏山に泉があると聞いてまさか彼らが話している鬼というのは紅生に関係あるのかもしれないと敬翠は後ろから声を掛けた。
「あの、もし……不躾ですいません。先ほどから聞こえてくる話が気になって、その鬼の話、少し教えて下さいませんか」
薬師たちが振り返ると手拭いを顎で結び、更に頭に傘を被った綺麗な男が青い顔をして立っていた。
「なんだい、あんた」
「いえ、鬼の話が聞こえたもので」
「鬼を見た事があるんですかね?」
「いえ、その……山奥にある神社にお参りに行こうかと思ってたもんで気になって」
「そうでしたか、そりゃ聞いておいた方がいいね」
男達は事の次第を知っているだけ敬翠に話した。
「物騒な話ですよ。ここから西へ五つ程峠を越えた古い神社のある村なんですがね、人が四人程山に入ったきり帰って来ないってんで心配してたらしいんですが、その内の三人帰って来たんです。でも皆怪我をして衰弱してましてね。村の医者が応急手当てをして命は助かったんですけども治療するのに薬がなくて、私ら町の薬師が呼ばれたんですよ」
男たちが話しているのは、方向や距離から言ってまさしく紅生が足繁く通う泉の麓にある村だ。敬翠は動揺を隠して相槌を打った。
「それは大変でしたね」
「ええ、まぁ道中長いのが大変なくらいで治療は大したことありませんでしたが、怪我人は鬼に攫われたと言うし、田畑も荒らされて困っていると言うから、鬼が村に降りて来てるんだと思うとあそこにいる時はずっとひやひやしてね。私たちも攫われちまうかもなんて臆病になりまして、もう行かないでも済むように薬の調合を教えてすぐに山の中を走って帰って来たんです。しかもあの村の人達は偏っているというか閉塞された場所にあるからあんまり他の村の話も入ってこないんでしょうね、なんだか変な雰囲気の村で」
「変な雰囲気と言うのは?」
「器量のいい子が一人いて、神様の生まれ変わりだなんだと村の人たちが言ってました。その子が物の怪を呼ぶから人が攫われたんだと責任を擦り付けられてたそうなんです。でも攫われた人たちが帰って来たら今度はその子がこの村にいるから願いごとが神様に聞き入れられたんだと言い始めて。村全体が悪い事も良いことも全部その子に背負わせてるみたいになってて。綺麗な子だけど普通の子どもを祀ったりつるし上げたりに……可哀想ですよ。狭い所にいると考え方が偏るんでしょう、噂に振り回されやすいと言うか。そんな村だから鬼に目ぇ付けられてるのかも知れません」
「どんな鬼なのか村の人は話してましたか」
「さぁ、私たちも村の人から聞いただけですから」
「そうですか……」
「あの村には呼ばれてももう行かないつもりだけど、あんたさんも噂の神社に行かれるなら気を付けなさった方がいい」
「……ええ」
生返事を返して敬翠は立ち止った。男達はそのまま帰路を行く。敬翠は胸騒ぎがしてくるりと踵を返し西へと走り出した。
「兄様……」
いつも泉に水浴びをしに行くと言っていたのは嘘だったのだろうか。何かよからぬことに関わっているのかも知れない。村に鬼が出て、そこに紅生がいるなら彼がその鬼を退治しているだろうに。笑顔が増えた事と何か関係があるのか。敬翠は全速力で森の中を駆け、神社を目指した。
到着した時にはちょうど境内に人が集まって騒いでいた。見渡せる林の奥まで移動し敬翠は人々の様子を窺う。暫くすると一人の少年がやって来て大人たちと話し始めた。
「神様があの三人を助けて下さったんだ。きっとまた助けてくださる。頼む、青竜」
「俺は何もしてないよ。ただ、いなくなった人たちが早く見つかりますようにって神様に願っただけだ」
旅の薬師たちに聞いたとおり、村の人間たちは一人の少年に詰め寄っていた。縋るというよりも強いているように見える。大の大人が集まって少年に願いごとをする構図はどう見ても健全ではない。敬翠の場所から顔は見えないが少年も困っているように見えた。
『なんと愚かな』
少年が自分と重なって見える。神と繋がると言いながら自分たちの都合の良いように子どもを使い、欲を貪る大人たち。犠牲者はいつも弱者だと腹立たしさを抱えながら、まさか紅生がこの騒動に関わっているのではあるまいと敬翠は静観した。
「分かったよ、やってみる。でも、なんも無くても俺を恨むのは止めてくれよ。神社に一番近い家に住んでるから神様が教えてくれただけかもしれないんだ」
「ああ、勿論じゃ。では頼んだぞ、青竜」
村人たちに押し切られたようで肩を落としながら少年は神社の裏に向かって歩き、階段に座った。
見覚えのある顔がそこにある。敬翠は雷に打たれたように動けなかった。
『弁財天神様……!』
本堂の裏側の階段に座ったのは、神と同じ顔を持つ少年だった。
『なんてことだ、神が人ととなってこの神社に……兄様はこれを知って……』
眩暈が起こり、酸っぱい息が上がって来る。全ての臓腑がぎゅうと締め付けられて縮み、心臓が止まりそうだった。
『何故だ何故だ何故だ。何故人になっている!?どうしてだ!」
吐きそうになっていると林の中に紅生が走って現れた。敬翠は自分の口を手で押さえ、息を殺した。匂いでばれるかも知れないと思ったが、食事の為に今まで使った事の無い香油を付けているからだろう紅生は気づかないようだった。
紅生は独り言ちている少年に話しかけ、笑いかけた。
これが初めてではない様子で紅生は神の顔をした少年の横に親し気に座る。見たことも無い愛おしそうな顔をして少年を見つめ、彼の頭を撫でた。
絶望が体の中を走り回る。血管という血管の全てが破裂して血が噴き出しているかのように末端が痛い。
吐き気を抑えながら敬翠は林の中から二人を見続けた。そして紅生の行動をずっと追いかけた。
少年に頼まれて田畑に出てきた鬼を殺した所も、家に戻って誰もいない事を確認すると自分を待つ様子もなく再び神社を訪れた事も、美しい少年と笑顔で語り合う様子も、全てを見続けた。
黒い虫が腹の中に生まれて内側から敬翠の内臓を蝕んでいく。
身を尽くし、心を尽くし、人である事を捨て、紅生の為に生きている毎日を、吐き捨てられ、踏みにじられた。
紅い髪の美しい鬼と神とそっくりな麗しい顔をした少年は、敬翠の前で唇を吸い合い、愛おしそうに互いを抱き締めている。
心臓が破裂してしまいそうだった。自分の目を潰してしまいたかった。
そして後ろから声が聞こえた。
――お前は悪くない。神こそが、あの少年こそが紅生の前で生きているから悪いのだ。
振り返った敬翠の瞳からは赤い涙が流れていた。
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