第49話 沈②
紅生が新しい家を造っているのを知っていた敬翠は不在時を狙って家に戻った。普段からあまり生活に頓着のない紅生の事だ、家の中は荒れているだろうと思っていたのに予想に反して綺麗に整頓してあった。埃も溜まっておらず、水も綺麗なものが汲んである。
紅生は怠惰ではないが、家族と一緒に住んでいた時は春乃が家事の殆んどを担っていたし、二人で暮すようになってからは煩わしいことはさせないように敬翠が家事の類を率先してやっていた。
「こんな細目に掃除ができる人だったなんて」
全てを知っているようで知らない。わかっているようで何も分かってなかったのかもしれない。敬翠は整頓された部屋を見回した。
どこにも行けない紅生にとって暮らしが息苦しいものにならないようにとあれこれ考え忙しなく過ごし、全て紅生のためを思ってした事ではあったが日々の細かな仕事を奪う事で逆に退屈な暮らしを強いていたのだろうか。良かれと思ってした行動は裏目に出たのかも知れない。敬翠は嘆息を零した。秘密を漏らした慙愧にも堪えず、ずっと胸が苦しい。
空は秋晴れ、気温も心地よい小春日だが鬼の住処に足を運ぶ恐れ知らずはいない。念のため庭を見廻し、誰もいない事を再確認した敬翠は襖を閉め、膝をついて囲炉裏の横の畳の縁をそっと持ち上げ、床板を取り、床下から茶色の袋を引っ張り出した。落とせる土埃は落として床板を戻し、再び畳を敷く。縁側に出て袋を叩き、更に埃を取ってから再び居間に持ち入ると敬翠はそっと袋を開けた。
中には豪奢な鞘に収まっている剣が入っていた。鞘から抜くと艶やかに赤い光を放つ剣身が姿を現す。紅生の宝剣だ。
きらりと眩しく輝く宝剣は一切の刃毀れもなく美しいまま。何百という鬼を退治しその血を吸ったから赤く光るのかも知れないと昔は手入れをしている様をじっと見ていたものだと思い出す。人々を護って来た剣は紅生が鬼に堕ちた夜から敬翠の元にあった。宝剣を渡してしまえばいつ自害するか分からなかったため、紅生から取り上げてからずっと隠していたのだ。
この家を立ち去る時、自分の弓矢は持って出れても紅生の宝剣は持って出て来れなかった。宝剣があると知れば返せと言われると思ったからだ。力づくで取り戻そうとされたら勝てない。ここを出て紅生が不在の時に取りに来るのが一番だと思って機会を待っていた。家が廃墟になって誰かに盗られたり床板が朽ちて本人に見つけられる前に持ち出そうと思ってずっと様子を窺っていたのだ。
敬翠は弓矢の入った袋と宝剣を背中に背負って仮の棲みかにしている岩場に戻ろうとした。その時、天を割る様な轟音が響き、黒い竜の様な暗雲が空で暴れ出しすぐに土砂降りになった。紅生は新しい家で作業をしている。この天気の中戻って来ることはないだろうと敬翠は雨が止むまで家の中でじっとしていた。
激しい雷が何度も遠くの山に落ち、地響きが鳴り響いていたが一時も経たずして雨は上がった。そしてさっきまでの雷雨がまるで嘘のように秋晴れとなり、黒雲が消えてなくなる。
「妙な天気だ」
そう言いながら空を眺めていると、雲一つない空に一点の光が輝いた。星が出るにはまだ早い。太陽は反対側にあるがまだ沈んでいない。鳥か何かが太陽を映しているのだろうか。光は徐々にこちらへ向かっていた。次第に雲と光が一緒に移動しているのだと分かる。
光が近くまで来ると肉眼でそれがはっきり見えるようになり、敬翠は真っ青になった。
雲の上で光って見えていたのは弁財天神だった。後光を背負い雲の上に乗って神社の方角へ向かっていく。
神が姿を太陽の下に現すなんて。
「ウオオオオーーーン!」
風靂が突如現れ、遠吠えをした。森の狼たちがその声に次々と応えると山の獣たちが一斉に山奥に逃げていった。
紅生に何かが起きている。そんな悪い予感がした。雲の上の弁財天神は敬翠に気づき、敬翠は雲の下を全速力で神社へ走り出した。
*
竜王村は恐怖と悲鳴で埋め尽くされていた。
村人は逃げまどうが紅生は容赦なく人を殺していく。家々は返り血で血塗られ、村は地獄と化していた。
「青竜を傷つけた奴はどいつだ」
青竜の折檻に関わった者たちは、あいつがやったと震えながら指を差し、差された人間も差した人間も紅生に捕らわれ命を落としていった。
血を浴びた紅生の体は以前の倍ほどの大きさに肥大しておりどこからどこまでが髪なのか血なのか分からないほど真っ赤に染まっていた。
助けてと叫んでも紅生は容赦なく鬼の狂気を振るう。
「青竜……青竜……」
呟く度に人が一人、また一人と血溜りに沈んでいった。
紅生が殺戮を繰り返す中、一塊の雲が東より飛んできて青竜の遺体がある納屋の上に留まった。
雲の上にいる神が掌を下に向けて翳すと息を引き取った青竜の体から綿のような煙がふわふわと生まれ空へ昇っていく。煙はそのまま神の掌の中へ吸い込まれていき、煙が消え失せると神は『憐れなり』と呟き、どっと涙を流し始めた。
突如現れた雲の上に立つ神の姿を見ると人々はそのままぴたりと動きを止めた。神に気付かぬ人間たちは鬼の出現に叫び声を上げながら逃げ惑っているが、神の姿を見た途端棒のように立ち尽くす。神の姿を見た人間は動きを封じられ、思考を止められるようだった。
敬翠は人に見られようが構わず最短距離で走り、程なくして村に着いた。元よりすれ違う人々は皆空を見て固まっており、走る鬼を目で追うものさえいなかった。
光る雲が留まっている下には紅生か青竜がいる筈と敬翠は雲に向かって走っていった。そして近づくほどに悲鳴が聞こえ始める。
何から逃げているのだ、まさか新たに鬼が出てきたのだろうか。
そう訝りながら逃げまどう人々の後ろから迫り来る真っ赤な怪物を見て敬翠は心の臓がもろび出るかと思うほど驚愕した。
「兄様!!」
裸足で逃げまどう村人の首根を掴み、その背中から鋭い腕を貫き、血の海に沈めていく。
「何をしているんですか!兄様!」
敬翠は走り寄り紅生の腕を掴んで制止しようとしたが、紅生は敬翠を振り飛ばした。そして再び逃げまどう村人を捕まえてその首を掻き切り殺そうとする。敬翠は背中から紅生を羽交い絞めにした。
「兄様!紅生様!正気に戻って下さい!何故こんなことを⁈」
紅生は怒気を纏い我を失っていたが敬翠を認識したのか小さく喋った。
「青竜が殺された……」
「まさか……」
「神の一部は死に給うた」
そう言って再び鬼の形相になり敬翠を思い切り振り払って村人を襲った。ふき飛ばされた敬翠はすぐに起き上がれなかった。
自分が秘密を洩らしたからだ。敬翠は己の妬心が齎した惨劇に戦慄した。村人が青竜を殺してしまうとは思わなかった。鬼と契るのは死に値する罪なのか。ならば鬼に精気を吸われた卑しい町人たちも皆罪人だ。人間はそんなに偉いのか。私はどれほど罪深いのか。憤怒と罪悪感に襲われて混乱しても、何もかもが手遅れだった。村人全員を皆殺しにするつもりなのだろう紅生は突き進んでいく。止めなければ。
「兄様!村人に青竜とあなたの秘密を洩らしたのはこの私!青竜が死んだのは私の所為なんです。兄様!」
獣のように人を襲う紅生には何も届かないのか、ただひたすら暴れ狂っている。人間などどうなっても良かった。ただ我に返った紅生が自分のしたことを後悔するのは目に見えていた。彼を止めなければいけないのに、紅生を抑え込む力もなく、説得も出来ずただ見ている方しか出来ないなんて。敬翠は空を見上げた。もうあの方しかいない。
弁財天は敬翠の願いを聞き届けたのか、音もなく静かにするすると巨大化していった。雲を突き抜け足が地に着くと巨大化した弁財天は腕を伸ばし殺人鬼と化した紅生を捕らえた。弁財天神の腕である事が分かっているのかいないのか、紅生は自分を捕らえる巨大な手首を素手で切り落とした。敬翠は背筋が凍る思いだったがすぐに違う神の腕が伸びて再び紅生は捕らえられる。攻防は繰り返され、紅生は村中を暴れまわり六本の神の腕を切り落とし、村人の最後の一人、青竜の母親に向かおうとしたところで神の手中に捕まった。
手の中の紅い鬼は握りつぶされそうになり泡を吹いて藻掻いている。巨大化した神はもう一つの腕を伸ばし神社の鳥居に手を掛けて地中から引っこ抜くと、片手に鬼、片手に石の鳥居を持ってずんずんと近くの池へと歩いた。敬翠は走りながら慈悲を乞う。
「神よ!紅生様の罪は私が償います!どうか、私に罰を!」
しかし神は振り返る事なく突き進み、すぐに池に着いた。
神は鬼に言の葉を紡ぐ。
『紅生よ……』
「弁財天神、様……」
鬼の目はまだ赤く怒気を孕んでいるが弁財天神を認識すると正気を取り戻したように見えた。神の目は悲哀に満ちている。
『紅生……愛する心を捨て置いたつもりが、その心は黄泉を渡り我に舞い戻った。お前を愛した我が罪が、一人の
そう言って神は紅生を握りしめた腕を池に沈めた。息が出来ず紅生は藻掻き苦しみ、抗う。どれほど藻がいても神は許さず、力強く紅生を握ったままさらに水の中へと沈めた。ぶくぶくと鬼の息が泡となって浮かぶ。蒼ざめた敬翠は神に叫んだ。
「弁財天神様!どうか!兄様を殺さないでください!どうか!人を殺めた罰を下すならば私に!」
だが弁財天神は滝のように涙を流したまま腕を水の中から抜こうとはしない。
『我が心と共に、紅生は死す』
「いやだ!兄様!!」
ざぶざぶと池の中に入り込み敬翠は紅生を助けようとしたが神の手で容易く防がれる。
「兄様は私が守るとそう誓ったのに!兄様!生命童子様ー!」
泣き叫ぶ敬翠は何度も救おうと試みたが神の力に敵う筈がなかった。
神は浮いて来ようとする紅生を泥に沈め、水中で押さえつけると動けぬよう石の鳥居をその腹に刺した。
『がぁあああああああっ!!!!』
池が鬼の血で赤く染まっていく。
「兄様!兄様!死なないで下さい!兄様ーー!」
そのまま泥の中に埋められた紅生は息が出来ずに気絶した。だが鬼の生は呪われた力を持つ。溺れては蘇り再び死の苦しみを味わう。叫びながら慟哭する敬翠を見て神が言葉を紡いだ。
『敬翠、そなたの宿命は……』
「弁財天神様……」
がたがたと震えながら敬翠は巨大な神を見上げる。
『そなたの宿命は愛にある……人である限りそなたも救われる。我が言霊を覚えているか』
愛敬童子の命を受けた時授かった、神の予言の言葉だ。敬翠は泣きながら頷いた。
『そなたが人であったなら、紅生は生涯、命が尽きるまでそなたを真に愛したであろう』
敬翠は血の気を失い、膝から崩れ落ちた。
紅生は死ぬのだろう。神に言葉を突きつけられて敬翠は再び絶望した。紅生と離れて暮らしても、二人が生きていればきっといつかは一緒になれる、どこかでそんな望みを持っていた。青竜が老いて死んでしまったら、そばに置いてくれるのではないか。生きていればいつか愛してくれるのではないか。しかし神は言霊でその全てを打ち砕いた。鬼となった背信の罪は重かった。選んできた全ての過去も未来も否定された。生き抜いたとしても紅生は未来永劫手に入らない。
神は怒りに満ち満ちていた。彼を追いつめた村人に、人々を殺した紅生に、そして刹那にしか続かぬ青竜と紅生の愛を壊した敬翠に、天誅は下された。
神は池の淵から溢れんばかりに大粒の涙を何度も流すと、紅生の腹に鳥居をねじ込んだ格好のまま透明になって、消えて行った。鳥居は貫より上だけを水面から覗かせて沈んだまま。紅生も浮かんでくる事はなかった。
「嗚呼っ……生命童子様……」
池の傍で敬翠は蹲り、赤い血に沈む鳥居を見る。
嘆き悲しもうと、どれ程祈ろうと神はもう戻ってこないだろう。紅生はこのままこの池で体が朽ちるまで苦しみ続けるのだ。神は紅生が人々に与えた以上の苦痛を与えて去った。生きている間、延々と苦しみ続ける罰を。
神が消えた後、敬翠は水の中に潜り紅生の腹に刺さった鳥居の柱を動かそうとしたがやはりぴくりとも動かなかった。紅生は苦しみ続け気絶し、そして細胞が復活するとまた蘇り、藻掻いて死を繰り返す。
「兄様……」
こんな残酷な生き地獄は見たことがない。
紅生に生きていて欲しい。だが鳥居を動かす事が出来ない。紅生をずっとこのまま苦しめているなんてできない。
大泣きしながら敬翠は背中から宝剣を取り出した。
弓矢は水の中ではちゃんと刺さらない。
宝剣で、紅生の首を斬るしかない。
そうしなければ、紅生は鬼の命が尽きるまで地獄を味わうのだ。
「うっ……うっ……兄様……」
再び水の中に入り、敬翠は紅生の元へと寄る。
肺の中の空気はもうないのだろう、息はしていない。ただ意識が戻って目だけこちらを向いていた。少しすればまた気絶して、壮絶な苦痛は繰り返される。
『兄様………ごめんなさい、兄様……』
水の中で敬翠は何度もそう呟いた。そして自分も彼の後を追うつもりでいた。彼のいない世界など生きていても意味がない。
紅生は敬翠が握りしめた宝剣をじっと見て口を動かした。
『敬……』
『生命童子様……』
『斬れ』
『ぐっ……うぅ……』
水の中でも涙が止まらない。
『い き ろ』
敬翠の心を見透かしていたのか紅生はそう呟いて再び目を閉じた。
敬翠は宝剣を紅生の首に中てた。
刃が当たり、薄く血が流れる。
まだ生きている。まだ生きているのに……。
敬翠は躊躇ったが、紅生はゆっくり笑った。
『愛しています』
敬翠は聞こえぬ言葉を掛け、剣身を命一杯引いた。
泥の上にぼとりと首が落ちる。視界は真っ赤に染まった。
宝剣は手から離れ、紅生は宝剣と共に池の土に沈んだ。
鬼として生きた紅生の体は消えてなくなりはしなかった。
ゆっくりと腐り、土に還る。
神が零した
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